三月十九日 2

「じゃあ、御先みさき様ってなんですか? 鵜来島のミサキって言う妖怪と同じものなんですか?」


 すでに交野から大まかに聞いてはいたが、念のため島民からも情報を得ようと思った。


「ああ、鵜来島のミサキは海の妖怪やけんど、御先様は今月の二十二日に和田津に出る怖い幽霊なのよ。その日はうちらは家に籠もって、外に出んようにしちゅーのよ。昔っからしちゅーことやき、うちらは習わしだし、なんとのう続けちゅーのよ」


 中年の女性が教えてくれた。意外と隠すことなく教えてくれるので、さっきの漁師達の邪険さを考えるとそれほど禁忌ではないのだろう。


「なんで、家に籠もるんです?」


 これは交野から聞いたときにも浮かんだ素朴な疑問だった。


「御先様に遭うたら、海にかれるがよ。実際、毎年、碧の洞窟にひるこさんが上がるのよねぇ。家に籠もっちょったら、そがな目に遭わんき、和田津では外に出んわねぇ。やけんど観光客も増えてきたき、気にせん人もおるがよ。ほら、あそこのアクアマリンの店主も店を開けちゅーし。外から来た人は気にしちょらんわね」


「ねぇ」と女性ふたりは目配せし、「私らは出んわねぇ」と頷き合っている。そこに何か引っかかるものを感じたが、本当に信じているか判断しかねた。


「じゃあ、海に牽かれるのは迷信なんですか?」

「いやぁ、それはわからんのよ。実際に死人が出ちゅーしね」


 必ず死人が出るならば、観光客にはなんと説明しているのだろうか。どうも歯切れの悪い答えしか返ってこない。ほとんどの島民が家に籠もるなら、観光客はどうなのだろう。


「観光客には忠告しないんですか?」

「それはするけんど、誰っちゃあ信じんき、仕方ないよねぇ」

「そうねぇ。それにうちだって、なんやかんや言うて乗船券を切らんといけんき、家に籠もっていられんし」


 信じているのか信じていないのか、それもはっきりしなかったが、島民が気にしないのなら、行き逢った人間を御先様が海に牽くという話もどこまで本当なのか疑問である。


「二十二日に人が溺れるのは本当なんですか」

「それは本当よ。さっきも言うたけんど、碧の洞窟に浮かぶがよ。それに首がないのも毎年やし……」

「首がない?」


 これは初耳だった。首がない水死体とは何やら事件の匂いがした。こんな人口も少なそうな島で殺人が起こるなら、すぐに犯人が割れそうな気もする。


 それが顔に出ていたのか、中年の女性が「ぷっ」と吹き出し、破顔して夜須を叩く真似をする。


「やぁねぇ。潮の関係でちぎれてしまうにかあらんのよ。首だけがどいたち見つからんのは気味が悪いけどね」


 恐ろしいことを口にしている自覚がないのか、女性ふたりでクスクスと笑い出した。


「何故、碧の洞窟って言う所に死体が上がるんでしょう」

「専門家の先生が言うには、満潮時の潮の流れが原因なんだって。昔から、碧の洞窟には蛭子神が祀られてる祠があるからじゃないかって言われてるんだけどね……そうそう、その神様のお使いがシジキチョウって、小さい頃に聞いたわよ」


 シジキチョウが神使しんしの神がいると聞いて、水死体の話には興味なかった夜須はすぐに食いついた。


「その祠の話を詳しく聞きたいんですけど、どちらが管理してるんですか」


 女性ふたりが代わる代わる教えてくれる。


志々岐ししき神社の神主さんが管理しちょったはずよ」

「神主さん、物知りやき」


 到着早々にシジキチョウについて詳しい話が聞けるのは幸運だ。早速行ってみようと、お礼もそこそこに券売所を出た。


 もう日が沈み始めて辺りは薄暮に包まれている。

 外灯がないので、より闇が港に迫って見える。

 こんな時間になっても交野の姿が見当たらないのに、夜須は苛ついた。

 自分で是非来てくれと頼んでおいて、自分をこんなに待たせるのが気に食わなかった。

 悪態をつこうと口を開きかけたとき、薄闇の中から声をかけられた。


「夜須」


 ぎょっとして振り返ると、薄暗い陰から交野が現れて、手を振ってくる。


「……なんだ、驚かせるな」


 自分が心底驚いて鼓動が早くなったのを悟られたくなくて、わざと不機嫌な声音で返した。


「ずいぶん待ったんだぜ、遅すぎるだろう」


 交野が薄笑いを浮かべて、静かに謝る。


「悪い悪い。ちょっと出るときに手間取ってしもうて。荷物、持つよ」


 そう言って、手を差し出した。夜須は当然のようにキャリーケースを交野に手渡した。


「じゃあ、案内するよ」


 交野は暗い路地の石段を、キャリーケースを手に提げて登り始めた。


 路地の石段を照らすのは家屋から漏れる明かりのみで、黒々とした夜の闇が家々の隙間から這い出してくるようで不安な気分になる。


 交野に付いていきながら空を見上げると、振ってきそうな星が煌々と輝いているのが見えた。


 ずいぶん石段を登り詰めた山裾にどっしりとした家構えの屋敷があった。屋敷の前に建つ門扉を、笠の付いた電球が照らし出している。


「和田津じゃあ、ぼくの家は惣領屋敷って呼ばれちゅーんじゃ。曾祖父の代まで漁師で、そのとき和田津の惣領を務めちょったんよ」


 閉じられた門扉に大きく揚羽紋が焼き付けられている。それを指して、交野は淡々と語る。


「和田津集落一帯は平家落人の子孫で、やき交野家は赤揚羽紋なんや」


 夜須は興味なさげに辺りを見渡し、空返事で相づちを打つ。暗いからよく分からないが、門扉の周りにはぼうぼうと雑草が茂り、外灯の電球もカチカチと切れかかっている。


 かつての栄光を自慢げに話す交野が哀れに思える。傾きかけた現状を理解してなさそうな様子を見て、夜須は交野のことを内心で馬鹿にしていた。


「入って」


 気がつくと門扉を開き、中から交野が夜須を手招いていた。


「妹の揚羽を紹介するよ」


 交野に妹がいるとは初耳だった。大学院時代、交野は自分のことを何でも話した。そのときに妹の名前など一言も出なかったはずだ。


「妹なんていたのか」

「うん。三歳違いの妹」

「いるなら早く紹介してくれれば良かったじゃないか」


 水くさいぞと、夜須が言うと、


「話すきっかけがなかったき……」


 交野は静かに返した。


 夜須は交野の妹なら兄に似て、どれほどの美少女だろうと、期待した。


 交野の後ろについて門扉を潜り、踏み石が敷かれた玄関前を通って、これも大きな玄関の引き戸の前に立った。

 玄関前にも外灯があったが、自棄に暗くて頼りない。

 両脇に茂る植木も野放図に枝を伸ばし、全く整えられていなかった。

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