三月上旬

三月上旬

 文化人類学部の大学院に所属する夜須やす親寅ちかとらは、民間俗信である『七人ミサキ』について書いた研究論文の提出が済み、気持ちも晴れ晴れとゼミの仲間を集めて、飲み会に興じていた。


 後は三月二十四日に開催される、研究論文発表会のスピーチを練習するくらいだ。


 終電くらいの時間まで飲み屋で騒ぎ、そろそろお開きにしようかという空気になったとき、夜須のスマートフォンの着信音が鳴った。


 こんな時間になんだ? と酔いも覚めやらぬいい心持ちで画面に目をやる。


 非通知なら出ない、と思っていたのだが、意外な人物からの電話で夜須は目を丸くした。


 嬉しいとか懐かしいという気持ちからでなく、物珍しさや好奇心の混じった笑みを浮かべながら、夜須は電話を取った。


「もしもし?」


 しばらくの沈黙の後に、戸惑うようなか細い男の声が応える。


『夜須……?』


 スマートフォンに表示されていた『交野かたの雅洋まさひろ』からの電話が、ここ一番に面白い出来事だと感じる。


「交野か、懐かしいなぁ。今なしとる?」


 幼い頃から育った広島の訛りが思わず漏れた。夜須は土佐で生まれたが、両親とともに広島に移住したのだ。それ以来、小中高、大学まで地元を選んだ。


 電話の向こう側からノイズのような雑音が聞こえてくる。大きく聞こえ、小さくしぼむ。一定のリズムを刻む雑音だ。


 会話に支障ないほどの微かな音なので、そのまま会話を続けた。


 好奇心を隠せない。酒のせいで、抑制する気持ちが微塵もなくなっていた。


「一年前に院を急にやめたから、驚いたぜ。何も言わないで水くさいじゃないか。何があったんだ?」


 夜須の言葉に交野がポツポツと話し出したが、それは別の意味で夜須の好奇心をくすぐる内容だった。


『そんなことより、一度志々岐島に遊びに来いよ。ぼくが住んじゅう島に珍しい蝶がおる話はしたかな?』

「そういや、そんなことを言ってたな。珍しい蝶とか言ってそこら辺にいるような蝶じゃないだろうな。おまえは俺の夢を知ってるだろ? 新種に俺の名前をつけるって。そんでもって有名になる」

『知っとるさ。いつも話しよったよね。でも、僕も詳しゅうは話さんかったし……』


 なかなか蝶の情報を出し渋る交野に夜須は少し苛ついて急かした。


「なぁ、どういう蝶なんだ」

『シジキチョウ言うんじゃ。志々岐島にしか生息しとらんのじゃ。肉食の蝶なんじゃ』

「シジキチョウ? もう誰かが和名をつけてるんじゃないか。それに肉食の蝶は他にゴイシシジミがいる。ゴイシシジミの間違いじゃないか?」


 幼体の時にアブラムシを食べるゴイシシジミという蝶はすでにいる。成体になるとアブラムシの分泌物を吸うのだ。


『大昔から、シジキチョウと島の人は呼んどった。これまで何人も学者さんが来たけど、結局蝶が捕まらんで諦めた。この蝶は成虫になっても死体を食べるけぇ、屍喰い蝶とも呼ばれとる』


「成体も死体を? 動物の死体の汁を吸うのか? 動物の腐汁を吸う蝶はすでにいるぞ」

『動物じゃない。人間の腐肉じゃ』

「人間だって? おまえ、俺を担ごうとしてないか」


 半信半疑に詰問したが、交野は頑なに、


『間違えとらん。血みたいに真っ赤な蝶で死体に群がるなぁシジキチョウだけじゃ』


 シジミで赤いはねの蝶は二種類いる。アカシジミやベニシジミも翅が赤いが、オレンジ色に近かったり、やや茶みがかっている。真っ赤なゴイシシジミなど聞いたこともない。


 これは新種の蝶の可能性がある……。


 夜須は血液が沸騰して胸に押し迫ってくる興奮を感じた。しかし、それを電話越しに交野に悟られたくない。息を整えてから、答える。


「へぇ、そこまで言うなら行ってやってもいいか。だが、死体にしか群がらんのじゃ話にならんな、そうそう死体なんぞ見つからないだろう」


 以前の交野なら、夜須がこんなふうに横柄な態度で返事をしても嬉しそうにしていたが、電話口の彼は自棄やけに物静かだ。


『実は三月二十二日に奇習があって、その翌日必ず水死体が出るんじゃ。その水死体に蝶が群がるのを何人も見よる。島の人間はみんな知っとる』

「奇習ってなんだ?」

御先みさき様という怨霊が島を……和田津集落を彷徨うろつく日があるんじゃ。その怨霊によって海にかれて死んだ人間に、シジキチョウが群がるんじゃ。確か、夜須は七人ミサキという妖怪を調べとったよね。御先様にもそれによう似た謂われがあるんじゃ。来てみて損はない思うよ』


 すでに研究論文は書き終えて提出していたが、まだ興味はあるし、この謎の多い妖怪についてもう少し調べたいと思っていた。


 それに御先様という呼び名こそ、まさに七人ミサキと関連があるように思えてならなかった。


 シジキチョウ捕獲のついでに、御先様について聞き取りができれば、今後の研究にとっていい収穫と言える。


 もう行く気になってしまって、うまく交野に乗せられたと思ったが、行くだけの理由ができてしまった。


 御先様もそうだが、何より学者の手垢の付いてないシジキチョウという蝶だ。


 これを見つけて生きたまま持ち帰られれば、新種を発見して和名に自分の名前をつけるという夢が叶う。


『来るのなら、是非、二十二日前に来てよ。歓迎するけぇ』


 言い終わると、電話は切れた。名残惜しそうにダラダラ話すのかと思っていただけに、夜須は驚いた。


 それはそうと、交野の話した内容は夜須を興奮させるには十分すぎた。


 スケジュール帳を開き、二十二日以前の予定を調べると、運よく十九日から二十三日まで空いている。まるでこの日に志々岐島に行く運命だったのかと思えた。


 幸先がいい。何もかも上手く行くかもしれない期待が喉元まで迫ってくる。


 一年前に忽然と姿を消し、いつの間にか大学院を中退していた交野が、結局、夜須を忘れられずにこうして連絡を取ってきたことに、少なからず満足感を覚えた。




***




 手探りでなら歩けそうな暗闇だ。月の淡い光が縁側から室内を照らし出し、濃い藍色が混じる色合いの座敷が夜の闇に浮かび上がる。


 その座敷の真ん中に暗く陰った交野の姿があった。かそけき青年にも月光は余すところなく降り注いでいるが、まるで夜の闇を練って作ったような体に光が当たっては吸い込まれていく。儚くてもろい姿は影のようだ。


 交野の顔は座敷の奥、墨をこぼしたような闇に向けられている。色濃い闇の中に何かが潜む息づかいが感じられる。黒い脈動のようなものだ。静かでいて、冷たい、横たわった、もっと原初の闇に近い。


 交野はもうないはずのものに向けて、呟く。


「夜須がこの島に来る……」


 口元は微かに笑んでいるのに、目は光のない射干玉ぬばたまのようだ。闇を見つめて、何度も言葉を繰り返した。まるで、待ち遠しかったと噛みしめるように。


 交野の視線から外れた部屋の角に、月光でできた青白い女の形があった。わずかに顔の部分だけが闇の陰に隠れて見えない。胸に赤ん坊を抱き、静かに正座している。その女も小さく首を上下させて頷いている。


 交野も女も闇に溶け込んでいるが、どことなく満足そうだった。

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