屍喰い蝶の島
藍上央理
屍喰い蝶の島
プロローグ
プロローグ
空を見上げれば、落ちてきそうなほどの星が頭上いっぱいに広がっている。
真冬の星の微かな光が、海の波間に霧雨のように降り注いでいる。
水平線ぎりぎりに浮かぶ下弦の月がまばゆく、微かな星の光を打ち消すように輝きながら、静かにさざめく波立つ水平線に映る。
照り返す光に海面が巨大な魚の鱗のように煌めき、その体表に小型漁船がたゆたう。
漁船の裸電球の明かりが月光と星の輝きのように、鈍重な闇の中にぼんやりと浮かび上がり、闇より濃い影を海面に作り出す。
その微かな光が漁船を黒い海からすくい上げているようだ。
船の側面に打ち寄せては返る波の音をかき消すように、低音で響くディーゼルのエンジン音が船体を細かく震わせている。
巻き取り機の音は暴力的な漁船の動力源の音と混ざり合い、耳慣れてしまうとそれが当たり前のようになってしまう。
三月の海はまだ冷える。毛糸の帽子を目深にかぶるが、剥き出しの頬は寒さに痺れてくる。
潮の香りが辺りに満ち、すっかり慣れきった磯の匂いよりも、冷たい空気を鼻奥で感じる。
若い漁船員は刺し網の綱を慎重に巻き取り機で巻き上げる。
漁船では青年以外にも熟練の船長が反対側で作業をしている。
以前は一緒に巻き取り機の扱いや網のたぐり寄せを教えてくれていたが、今はもう慣れただろうと別の作業に勤しんでいる。
この漁船以外にも遠く離れた場所で同じように刺し網漁をする船が何艘かある。どの船もお互いの領域を侵さないように離れている。
遠くに一等星のようなライトがチカチカと見え、それで視認できる。
夜明けまではまだ遠く、冴え冴えとした夜の静寂がエンジン音で強引に引き裂かれ、波音に混じって船から離れていく。
誤って船から落ちれば、そこは未知の空間だ。墨色の海に足を絡め取られて、あっという間に海中へ引きずり込まれるだろう。
たとえ、体は海面に浮くと分かっていても、何かが人の命に飢え、密かに待ち続け、ひとたび足を捕らえると光も届かない海の底へ引き入れようと、虎視眈々としているように思えてならない。
夜の海に慣れたとはいえ、そんな畏怖すら感じる。
しばらく綱を巻き取る作業に没頭していたが、ふと、銀色に煌めく波間に違和感を覚えた。
「なんや? あれは」
赤い塊が浮遊している。海に異物が浮かんでいるのはそれほど珍しいことではないが、気になって仕方ない。
一歩間違えれば、網と一緒に巻き上げてしまうかも知れない。
長めの手かぎを取りに行き、赤い塊に注意を向けた。
銀色の月光と船のライトに照らされたそれの表面がざわざわと蠢いているのが分かった。
波があたる度に、塊の赤いものがチラチラと弾かれては吸い込まれるように塊に馴染む。
まだ手かぎが届く距離ではないが、青年は身を乗り出すように月光とライトに照らされる赤い塊を注視していた。
一瞬、ひゅっと息を飲んだ。
ざわめく塊の表面が波飛沫と一緒に空中へと散り散りになった。その一つが頼りなげに青年の間近を舞い、また海に沈んでいく。
赤いそれは小さな蝶だった。小さな赤い
蝶だと分かるくらい近いのではない。蝶そのものが淡い光を放っているように見えたのだ。
そうでなければ、これほどに暗い海の波間に赤い塊が浮いていると認識できないだろう。
そこまで察して、青年の体に鳥肌が立つ。
塊が形を成している。蠢く蝶に覆われたそれは見る間に人型に変化した。ひとに蝶が群がっているように見えた。
(ひとや!)
青年は息を飲み、急いで救命浮環を取り出した。もう一度赤い人型を確認する。
そこで再び青年は怖気立つ。
人型の蝶がゆっくりと持ち上がりつつある。まるで人のように上体を起こし、頭の部分がうなだれていた。その間も蝶は飛び散り、寄り集まり、蠢いて渦を巻く。
たとえ人だとしても海上で体を起こすなどありえない。その塊は意思を持っているかのように、青年に向かって波間をじりじりと滑るようにして寄ってきた。
顔があるべき場所に凝縮する無数の蝶が蠢く奥から、強烈な視線を感じた。
「うわぁっ!」
青年は叫び声を上げて、尻餅をついた。腰が抜けてしまって立ち上がれない。
赤い蝶の塊は、青年の叫び声に反応して消えるように闇の中に霧散した。
その後に残されたのは波間に浮かぶ膨れ上がった薄青い灰色の、俯いたマネキンのようなものだった。
声を聞きつけた船長が足下の道具類を避けながらやってきた。
「どうした!?」
青年の指さす方向に目をやり、船長は息を飲んで呟く。
「ひるこさんや……!」
「だ、だけど……蝶が……!」
青年は震える声で訴えたが、船長が鋭く遮った。
「そりゃ、シジキチョウや。志々岐島に近いとたまに水死体に群がっちゅーことがあるがぜよ。ひるこさんをたぐり寄せろよ、和田津港まで連れて帰るきな。他の船に無線で知らしてくる。網を早う巻き上げろ!」
ガクガクと震える膝を押さえつつ、青年は巻き上げ機にすがりつく。
あとは必死になって綱を巻き上げることに専念した。徐々に網が上がってきた。
銀色に煌めく魚の背びれが無数の宝石のように網に引っかかっている。
網をたぐり寄せて船内のトロ箱に放つ。いつにない漁獲量だ。
網から外れたキビナゴや他の魚がびちびちと甲板を飛び跳ねている。
次第に船に近づいてくる水死体を取り囲むようにして、黒々とした海面を飛び跳ねる魚の群れが裸電球の明かりに照らされて見えるだけだった。
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