第4話

「ところで稲垣さん」


 久世が呼びかけると稲垣は少しだけ目を細めた。


「あれ、なんか間違った?」

「いや、」


 稲垣はしばらく迷っていたが、意を決したように口を開いた。


「……苗字は俺以外も指すから、名前で呼んでほしい」

「それって、Domとしての命令? それとも俺の好意を受け入れてくれた稲垣さんとしての希望?」

「……俺としての希望だ」


 稲垣の回答を訊いた瞬間、久世はパッと表情を明るくした。そのあまりのまぶしさに稲垣はまた目を細めた。


「なんて呼ばれるのがいい? 穂波さん?」

「なんでもいい。久世が呼びやすければそれで」


 ほなみ、という名前がやや発音しづらい部類に入るのは稲垣の人生で経験済だった。


「んー、じゃあ、なみさん?」

「ん?」

「あ、いやだった?」

「いやじゃない」


 珍しい呼ばれ方に思わず戸惑ったが、特に嫌悪感を覚えることはなかった。


「じゃあ素直にそれがいいって言ってよ」

「お前は?」

「うん?」

「俺は久世をどう呼んだらいい?」

「苗字でも名前でもどっちでもいいから、呼び捨てにしてほしい」


 思ったよりも具体的な要望に、稲垣はわかったと言った。


「李織」

「……ん、」


 思ったよりも、呼ばれると嬉しいね、と久世は顔をほてらせて言った。その様子に稲垣はどうしようもなく興奮を覚えた。


「なみさん、」


 繋いだままの手とは逆の手で、久世は稲垣の手の甲を撫でた。


「あのさ、今からプレイ、してほしいって言ったら、してくれる?」

「ああ」

「あと、これは仮契約の更新があったから訊くんだけど、」


 ――プレイの中に、セックスは入れる?


 そう訊ねられて、稲垣は返す言葉に窮した。その様子を敏感に悟ったらしい久世は、

「無理しなくていいからね」

 と付け加えた。


「……俺の希望を言っていいか?」

「もちろん」

「李織を、抱きたい」

「え、あ、そう、なの? もしかして、前から、そう思ってた?」


 久世の問いかけに稲垣は首を縦に振った。だが、最初の仮契約の条件を定めたときには性行為はしないとしていた。


「はは、なみさん、俺が思ったよりも色々欲張りなんだね。だから答えるの、ちょっと遠慮してくれたんだ」


 先の沈黙を正しく理解したらしい久世は目尻を下げた。


「……言っただろう、Domとしての欲求が強い方だと」

「そうだった」


 久世は「嬉しいなあ、」と言って稲垣の手の甲を何度も撫でた。


「俺も、なみさんになら抱かれたいなって思ってた」


 取り決めには入れなかったが、そのうち肉体関係も持てないかと期待していた。おそらくその期待が稲垣にはしっかり伝わっていたのだろうな、と久世は思った。


「李織、」

「ん?」

「できれば準備するところから俺もやりたい」


 稲垣はそう申し出たが、久世にはあっさりと却下された。


「それは正式契約してくれる人じゃないと許せないから、今はだめ」

「……わかった」


 ものすごく不本意だ、と言わんばかりの顔をして了承の返事をする稲垣を見た久世は小さく笑った。


「はは、そんな顔、しないでよ。……今まで、誰にもやらせたことはないから、安心してね」

「……」


 過去に正式契約をしたDomはいない、というその言葉に稲垣はなんとか溜飲を下げた。


「セーフワードはいつものでいいか」

「うん」

「それと俺は本当に着替えてこなくていいか」


 焼肉の煙に燻されたままでもいいか、と稲垣は念を押す。


「うん、それは、あとでいいよ」


 久世はうなずくと握っていた稲垣の手を放そうとした。


「『放すな』。そのままでいい」

「え、いいの? このままだと『座る』こともできないけど」


 DomからSubへの基本的な命令の一つに『座る』ことがある。基本的にはDomの足元に座ることが多いその動作を、手を繋いだままするのは難しい。


「いい。『座る』のはこっちだ」


 稲垣は自分の膝を軽くたたいた。


「……いいの?」


 久世のうかがうような言葉に、稲垣は早くしろと急かした。恐る恐る久世は稲垣の膝の上に腰を下ろした。


「きちんと体重をかけろ。足を痛める」


 稲垣の言葉に、久世は少しだけ浮かせていた腰を下ろした。稲垣は空いている方の手で久世の頭を撫でた。


「『よくできたな』」

「んー……ありがと」


 稲垣は久世の一挙手一投足に対して褒め言葉を口にする。普段はあまり口数が多くないが、プレイ中にはきちんと言葉にするのを心がけているようだ。


「……どうしよ、」

「? 大丈夫か?」

「これだけで、すっごくきもちい」


 久世は首まで赤く染めて言う。潤んだ目からは今にも涙がこぼれそうだった。その様子に稲垣の理性も揺さぶられる。


「これ以上のプレイは、やめておくか?」


 稲垣の言葉に久世は首を横に振った。


「大丈夫。続けて。本当にやばかったら言うから」


 ふうふうと荒い息を吐いていた久世はなんとか落ち着きを取り戻すと、稲垣の手をぎゅっと握った。


「李織、上だけ脱いで『見せて』くれ」

「ん、手、放すね」


 これまでの稲垣とのプレイは服を着たまま行える軽いものだけだった。初めて肌を見せることに言い表しようのない緊張感を覚えた。

 震える指で着ていたシャツのボタンを外す。稲垣はじっと久世の動きを見つめていた。その視線にまたどうしようもなく、背を震わせた――今度は、緊張ではなく、歓喜だった。


「脱げた、よ」


 ぱさ、と上半身の衣類を脱いで床に落とす。衣類をまとわなくなった身体の隅から隅までを検分されているようで、居心地はよくなかった。


「っ、」


 稲垣の手が久世の肩に置かれた。ぎゅっと身体を縮こまらせた久世の肩を稲垣は撫で、うっとりと満足げなため息を吐いた。


「……いま、すごく満たされている」

「よかったあ」


 久世は身体から力を抜いた。途端に手のひらにあたる皮膚の感触が柔らかくなった、と稲垣は思う。


「ねえ、穂波さん」

「なんだ」

「場所、ここじゃ狭くない?」


 あっちにしようよ、と久世は稲垣の背後のベッドを指さした。

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