第一章 縁切り神社の怪異⑩

 阿久津は淡々と話を続ける。

「突入の結果、とあるオフィスにヤツはいた。今度こそけんじゆうを構えた刑事たちに囲まれ、やつも逃げ切れないと観念したように見えた。だけど、身柄を拘束しようとしたところでヤツは突然笑い出して、自分の首を自分の両手でつかんだんだ」

 そして、田所は笑いながら言ったのだという。

『俺はもうお仕舞いだ。京都の現場で鬼にかれてこんなになっちまったのが運の尽きよ。人間がよぉ、いたくて喰いたくて仕方がねぇんだよぉ。あの、ほんのり甘い血に、牛よりもうまみがあって豚よりも弾力のある肉がよぉ、忘れらんねぇんだ。……だけどムショに入っちまえばもう喰えねぇ。そんな飢え、俺には耐えられるわけがねぇだろぉぉ!!』

「ヤツが自殺しようとしているのがわかった瞬間、俺はとつに動いていた。田所に駆け寄ってあいつの手を首から引き離そうとしたんだ。だけどそのとき、田所が俺の腕に嚙みついてきた。それがこの腕の痕ってわけだ。その場で田所は拘束されたが……その後、留置場で食事の時間に舌を嚙み切って死んだ。まるで、自分の舌を喰っているように何度もしやくして、美味うまそうにこうこつとした死に顔だったってさ」

「そんな……」

「そのあとからだよ。俺の身体に異変が起こったのは。別に鍛えたわけでもないのに、身体能力が飛躍的にあがった」

 それを証明するかのように阿久津はデスクからボールペンを取り上げると、片手で簡単に折って見せた。そのあと、公費支給品をむやみに折ったことが周りにばれないように、こそっとくず箱に捨てる。

「ほかにも他の人が聞こえないような小さな音まで聞こえたり、暗闇でも物が見えるようになったりいろいろ体質が変わってしまって、まぁそれはまだいいんだけど困ったのが……」

「食生活ですか」

 はっきりと容赦なく亜寿沙は尋ねる。

「もしかして、人間が食べたくなったとか」

「いや、そんなことはないんだけど」

 やけにきっぱりと阿久津は否定した。

「昔はよく焼いた肉しか食べられなかったのに、いまは極力レアな肉が食いたいなぁくらいな違いはあるかもしれんが、それより昼間はひたすらだるくて、起きてるのがつらくなったんだ。こんなんじゃ人の上に立つ立場になったところで誰もついてきやしない。だから希望降格したんだ」

 たしかに阿久津はよくアクビをして眠そうにしているのを見かける。

「そして、京都に赴任したんですね。それって、田所が京都で鬼に憑かれたと言っていたからですか?」

「そう。なんとかこの面倒くさい昼夜逆転体質を変えたくてね。そのヒントがないかと思って京都に来たんだ。ただ、もう一つ田所に嚙まれてから変わったことがある。それが、怪異によく遭遇するようになったってことなんだ。もしヤツの言う『鬼』が俺にも憑いてるんだとしたら、俺も半分怪異の世界に足突っ込んでるようなもんなんだろうから、不思議でもないけどな」

 怪異。そんなものいるはずがない。やっぱり、この上司は一度ちゃんと病院で診てもらった方がいいんじゃないかと亜寿沙が疑ってみていると、阿久津は小さく苦笑を浮かべた。

「俺と一緒にいると、君もそのうち怪異に遭遇するよ。そのとき、自分の目でみて判断するといい。それが、俺の妄想なのか、それとも現実か」

「集団妄想という可能性もあります」

「ハハ、それもそうだね。でもそうやって怪異を通じて手に入れた情報を元に捜査を行うことが許可されているのが、この特異捜査係なんだ」

 亜寿沙は、警察組織が怪異の存在をまがりなりにも認めて捜査に利用しているということがいまだに信じられないでいた。


 一方、山際綾子事件の捜査は形代に書かれていた『A』というイニシャルを元に参考人の聴取が進んでいた。

 このAというのが名字なのか名前なのかもわからず、性別すらも不明だったため対象者はかなりの数に上った。

 阿久津と亜寿沙が本日任意聴取することになったのは、やながわあつという三十四歳の男だ。

 彼は、山際綾子が勤める会社の企画部の部長をしている。去年までは彼女のいる総務課の課長だった。

 三十半ばで部長職につくのは社内でも異例の出世スピードらしい。

 他の社員の話では、仕事ができることで有名な人物のようだ。

 案内の警察官に付き添われて取調室までやってきた彼は、中に入るとすぐに阿久津たちに軽く頭を下げた。

 少し癖のある髪を上手うまく整えた甘い顔立ち。

 細身だが引き締まって背筋の伸びた体つきは、ジムで鍛えているだろうことがうかがえた。

 一目見て、きっと社内でモテるんだろうなぁと亜寿沙はそんな印象を抱く。

 合コンにこんな人がいたら、きっと隣の席の奪い合いで女性陣が殺伐とするだろう。合コンなんて呼ばれたことがないからイメージにすぎないけれど。

「どうぞ、こちらにおすわりください。本日は、ご足労ありがとうございます」

 取調室の真ん中にデスクと、向かい合わせに椅子が置かれている。

 手前側の椅子に座った阿久津が立ち上がると、奥側の椅子を手で示しながら頭を下げた。

 亜寿沙は阿久津の補助者として、少し離れたところに置かれた別の席に一人で座る。そこに置いたノートパソコンで供述を記録するのが役割だ。

「はじめまして。柳川篤志と申します」

 柳川は少し緊張した面持ちだが柔らかな印象でそうあいさつをすると、示された席に腰を下ろした。

「本日の一部始終は録画させていただいています。聴取はすべて可視化するようにと法律で決まっていますので」

 阿久津がちらりと天井の隅に取り付けられた監視カメラに目をやると、柳川は小さくうなずき返した。

「わかりました」

「いろいろ込み入ったことをお聞きするかと思いますが、あくまで任意でお話をお伺いしたいだけですので、答えにくければお答えいただかなくても構いません」

「あ、いや……僕も、山際さんのしつそうについてはずっと気に掛かっています。早く無事に戻ってきてくれることを祈るばかりです。彼女のために協力できることがあれば、どんなことでもするつもりです」

 そう、柳川は阿久津の顔をまっすぐ見つめてしんな声音で言った。

 その姿は誠実そのもの。元部下を心配する優しい上司にしか見えなかった。

 そのとき、ふわりとかすかな香りが鼻をかすめ、亜寿沙はきゅっとけんしわを寄せた。

 柳川がつけている香水の香りのようだ。かんきつ系のさわやかさの中に、シダーウッドやバニラのような甘さの混ざる香り。整った顔立ちの彼にはぴったりに思えた。

 亜寿沙がそんなことを考えている間に、阿久津は早速聴取をはじめる。

 阿久津が投げかける質問に対して、柳川はときどき考える仕草をしながらも丁寧に答えてくれた。

 そのやりとりを、亜寿沙は手元のキーボードで漏らさず打ち込んでいく。

 三月二十五日の夜。彼は九時頃まで残業をしたあと、ジムに寄って汗を流してから自宅に戻ったという。

 少なくともジムを出るあたりまでは、アリバイが確認できそうだった。

 自宅はふなおかやまの近くで、両親は早くに他界したため相続した実家にそのまま一人で住んでいるのだという。

「一人で住むには広い家なので、掃除も大変なんですよ。お手伝いさんでも雇えるくらいの給料があればいいんですが、いまの会社じゃ役員にでもならない限り無理そうです」

 と、柳川は話してくれた。

 聴取は始終なごやかにつつがなく終わり、最後に柳川は、

「山際さんが一日も早く戻ってくることを、僕も、会社の同僚たちもみんな心から願っています。どうか、よろしくお願いします」

 頭を深々と下げると帰っていった。

「とりあえず、今日の聴取はこれで終わりだな」

「そうですね」

 ノートパソコンを閉じて亜寿沙も席を立つ。

 柳川の供述調書には、特段怪しい部分は見当たらなかった。挙動の不審さもない。彼は誠実で部下思いの優しい男性に見えた。今回の聴取も外れのようだ。

 その後も次々と参考人の聴取を重ねていったが、なかなか容疑者らしき人物がみつからず焦りばかりが募っていった。

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