プロテシラオス——ギリシャ最速の男にしてヘラクレスの盾の継承者が、なぜトロイア戦争で手柄をあげることなく死んでいったのか?

たけや屋

ギリシャ最速の男——心優しいプロテシラオスの話

 時に紀元前1200年、歴史に残る大戦争が幕を開けようとしていた。

 トロイア戦争である。


 アカイア(ギリシャ)勢が率いる1000隻以上の大船団が、アジアの大国トロイアに間もなく上陸を果たす。

 敵地への上陸というのは最も危険な瞬間だ。それゆえ【戦場への一番乗り】とは最も勇気ある者が得られる称号である。だが今回の上陸作戦では、先陣を切って栄誉を手にしようとする者は誰もいなかった。

 軍船に乗り込んでいるのはいずれ劣らぬ神々の子孫たちだ、戦いを怖れるなどあり得ない。問題は別のところにあった。それは女神の予言だ。


『トロイアへ最初に上陸した者は必ず死ぬ』


 女神の予言は絶対である。

 しかし上陸しなければ戦争は始まらない。

 死の予言を怖れて戦わずに引き返せば、それこそ軟弱者の汚名が永久に残る。しかし誰だって死にたくはない。この戦いに参加しているのは、アカイアきっての猛将たち。それぞれが都市国家の王として君臨している。愛する妻も子もいる。守るべき国民たちもいる。


 そんな中で『必ず死ぬ』という役目を誰が果たすのか。各軍団長たちが幾度となく会議で話し合ったが、答えは出なかった。女神の予言は絶対。誰かが最初に上陸しなければ戦争は始まらない。しかしその死の役目を買って出た者は、


【歴史に残る大戦争で何の手柄もあげられず、真っ先に死んだ】


 という屈辱を被ることになる。

 それはただ死ぬことよりも何倍も恐ろしいことだった。神々の子孫である将たちが戦場で活躍することなく、まるで雑兵のように死んで終わりなのだから。その無様な最後は、叙事詩によって永遠に語り継がれるだろう。


 アカイア選りすぐりの武人たちは戦いによる死を怖れたりはしない。ただ、歴史に残るような汚名をなによりも怖れていたのだ。

 誰もが『最初の一歩』を踏み出せずにいた。

 トロイアへの上陸はもう間もなくとなる。敵地への一番乗りを果たし——そして死ぬのは誰か、答えはまだ出ない。


 ◆ ◆ ◆


「アキレウス、この盾を受け取ってくれないか?」

 船窓の小窓から月明かりがこぼれる。その淡い明かりがふたりの美青年を照らしていた。壁に寄りかかってゆったり座る彼らは、いずれも劣らぬ肉体美の持ち主だ。


「何だって……? プロテシラオス、だってこれは」

 それはかつて英雄ヘラクレスが使っていた円形の盾ラウンドシールド。剛力の男にふさわしい分厚さと頑丈さ、それらの要素と相反するように表面の文様は繊細だ。誰もが欲しがる垂涎の最強装備である。だがアキレウスはその盾を受け取ろうとはしなかった。

「——このヘラクレスの盾はアンタの戦利品だ。何で俺が……」

「なあに、この盾は少しばかり重いんでね。そんなものを持っていては、私の足が活かせないだろう?」


「……アンタ、何をするつもりだ?」

 若者からの問いに、プロテシラオスは爽やかにほほえんだ。

「トロイアへの一番乗りに志願しようと思ってね」


 その言葉がなにを意味するのかは、船団の全員が知っている。アキレウスは苦々しい顔と共に言葉を投げた。

「死ぬ気か? 忘れたわけじゃねぇだろうな。トロイアへ最初に上陸した者は死ぬ……女神の予言は絶対だ」

「しかし幾度となく会議が紛糾しても、ついに誰が一番乗りを果たすのかは決まらなかったではないか。このまま戦わず船に閉じこもっているわけにもいかないだろう?」


「だからってプロテシラオス……国に残した家族はどうするんだよ?」

「君だって妻と子がいるではないか、お若いアキレウス」


 アキレウスは言い返せず、しばし黙る。

 波によって船が揺れ、船体がギシギシと雑音を鳴らした。

「……なんでアンタなんだ。信心深いアンタなら、まさか女神の予言を信じてねぇ、ってわけじゃなさそうだが」

「もちろんだとも。私はオリュンポスの神々への敬愛を忘れたことなどない。しかしねアキレウス、このままでいいはずがないんだよ」


「そりゃそうだが……プロテシラオスさんよぉ」

 若者はその不満を隠そうとはしなかった。死をも怖れぬといわれた勇士たちが、いざ絶対なる死の予言を前にしたら、踏ん切りが付かず二の足を踏んでばかり。そんな様子をこの船旅の中で何度も見てきたのだ。総大将アガメムノンですらトロイアへの一番乗りに志願しなかった。


 それほど死とは恐ろしい。

 それほど女神の予言とは絶対なのだ。


 アキレウスの中には、今回の戦争に対する不信感が少なからず芽生えていた。たかが女ひとりを盗られたくらいで、アカイア(ギリシャ)全軍を出撃させてもいいのだろうか、と。


 そんな若者の葛藤を、プロテシラオスは微笑でほぐす。

「今回の出陣は神々のおぼし召し。大国同士はいずれぶつかる運命にある。パリスによるヘレネー略奪などきっかけに過ぎない。遅いか早いかだよ、この戦争は。そのための前哨戦としてまずはアジアのミュシア地方をとしたのではないかな?」


 戦争とは敵国へ一直線に向かえばいいというものではない。何の用意もせず相手国へ攻め込めば、すぐ敵の援軍によって取り囲まれてしまうだろう。

 そのため、戦争では敵の同盟国をまず攻めるのが定石だ。

 後顧の憂いを断つためにアカイア勢が乗り込んだのは、トロイアに隣接するミュシア地方。そこはヘラクレスの息子テレポスが治める国だ。


 ミュシア戦争は苛烈を極めた。神々の子孫同士が意地と誇りをかけてぶつかり合ったのだ。歴史上に例がないほどの激戦だった。

 そんな中で第一の戦功を上げたのはプロテシラオスとアキレウスだった。

 最速の男であるプロテシラオスが、テレポス王の持つ最強の盾【ヘラクレスの盾】を奪い取った。その隙を突いてアキレウスが王に重傷を負わせたのだ。

 この活躍によりミュシア戦争はアカイアの勝利に終わった。トロイアの友好国から戦力を削ぐという目的のため、あらゆる軍事物資を略奪した。

 だが無駄な虐殺などはげんいましめ、相手のテレポス王も生存している。

 戦利品として、ヘラクレスの盾は第一の功労者であるプロテシラオスが受け取った。


「だけどよぉ……」

 アキレウスはどうしてもその盾を受け取る気にはなれなかった。それは手柄を譲ってもらったような気にもなるからである。

 ミュシア戦争後の論功行賞ろんこうこうしょうでも揉めたのだ。『テレポス王に重傷を負わせたのはアキレウスなのだから、盾も彼に与えるべきだ』と。しかし『プロテシラオスが盾を奪わなければ、アキレウスの決定打もなかった』という意見が勝り、最終的にはプロテシラオスが盾の継承者となった。

「——最高の盾を捨てるってことは、アンタ死ぬ気なんだろう? 戦利品として敵に奪われるくらいなら、味方に有効活用してもらったほうがいいってか?」


 若者の憂いを青年は笑い飛ばす。

「なあに、死ぬつもりはないさ。言っただろう? 私は信心深いと。なら女神様もきっと見逃してくれるさ。本当に死ぬのではなくて【瀕死の重傷】くらいでね」


「……オリュンポスの神々がそんな慈悲深いもんかねぇ」

 アキレウスの気分は晴れないようだ。プロテシラオスはわずかに嘆息した。

「いいかね若者よ。ここで最強の男を失ってしまった我が軍が、トロイアを落とせると思うのかな? だから君はここで死ぬわけにはいかない」


「アンタなら死んでもいいってことっすか?」

 プロテシラオスは己の逞しい大腿筋をぴしゃりと叩いた。

「いいや? 私にはこの脚がある。君が最強なら私は最速だ。自慢の脚力で死の運命を置き去りにしてくれよう。懸命に生き抜こうとした者にこそ、女神様はほほえんでくださるのだから」


 死の運命に抗う年長者は、年少者にとって輝いて見えた。

「クソっ! 何でこんなことになっちまったんだ……こんな戦いに意味があんのかよ」

 荒れているアキレウスとは対称的に、プロテシラオスは穏やかに告げる。

「おやおや、アカイア最強の男が随分弱気になっているではないか。怖じ気付いたのかな? 神々が作り上げたトロイアの城壁など、突破できるわけがない……と」


 若者は易々と挑発に乗った。

「やってみなけりゃわかんねぇんじゃないですかね」

「そうだな。ただ、油断も禁物だ。ポセイドンとアポロンによって築き上げられた難攻不落の城砦都市——それがトロイアだ。正直私もどう攻略したらいいのか想像できない」

 そこでプロテシラオスは自虐的に笑った。

「——ま、私は早々に戦線離脱する予定なので、あとのことは君たちに任せるしかないんだがね。私が現役引退したら、アカイア最速の男という称号は君のものだ」


「アンタなぁ……あんま縁起悪いこと言わねぇでくださいよ」

 アキレウスは若干の陽気を取り戻していた。

「私とて妻を悲しませるつもりはない」

 プロテシラオスは引き締まった表情と共に立ち上がる。着用している胴鎧が月光を浴びて、妖しい黄金の光を放っていた。

「——妻からの贈り物であるこのオリハルコンの鎧が、私を守ってくれるだろう」


「ああ……たしかアンタの奥さんって……」

 プロテシラオスの妻、ラオダメイアは海神ポセイドンの子孫である。遙か西の海の彼方にあるという都市国家アトランティス。それはポセイドンが築き上げた国だ。オリハルコンはそこの特産品である。

「わかったかい? 私は死ぬつもりなんてない。万全の態勢で死の運命に抗ってみせるさ。そして我がアカイア軍に勝利を!」

 テッサリア地方ピュラケーの王プロテシラオスは、短槍に胴鎧という至って軽装のまま、準備運動などを始めてしまった。

「——さて、そろそろ上陸の時も近い。せいぜい私の分も活躍してくれよ? お若いアキレウス」


 ◆ ◆ ◆


 そしてトロイア戦争は始まった。

 先陣を切ったのはアカイア(ギリシャ)最速の男プロテシラオス。本来なら彼に追いつける男などいない。槍も、矢も、戦闘馬車も、死の運命すらも置き去りにしてしまうのが彼の脚なのだから。


 しかしその時ばかりはそうもいかなかった。

 なにしろ、上陸地点が敵にバレていたのだから。トロイア軍は万全の態勢を整えた上で、アカイア軍の上陸を迎え撃ったのだ。


 では、そんな中へひとりで降り立った男がどうなるかといえば……。


 歴史に多くは記録されていない。

 プロテシラオスは猛然と敵軍を蹴散らすも、最後はトロイア最強の男——王子にして総大将ヘクトールの槍によってその命を散らした。

 女神の予言はここに成就した。

 最速の脚をもってしても死の運命からは逃れられなかったのだ。


 泥沼の壊滅戦かいめつせんとなるトロイア戦争は、こうして——ある男の悲劇により幕を開けた。


 ◆ ◆ ◆


 アカイア(ギリシャ)最強の男として存分に武勇を打ち立てたあとで、非業の死を遂げたアキレウス。

 その類い希なる知謀で【トロイの木馬】を考案し、ついには神々の城壁を突破して敵国を滅亡に導いたオデュッセウス。


 彼らと比べれば、プロテシラオスはあまりにも名を知られていない。

【歴史に残る大戦争で何の手柄もあげられず、真っ先に死んだ男】という扱いなのだから。


 しかし彼が最初にトロイアへ上陸しなければ、この戦争の勝利はなかった。

 自軍の勝利を実現するため、女神の死の予言という【絶対】に挑戦してみせた勇気ある青年プロテシラオス。彼は死後、地上と冥府を行き来できる存在——英雄神えいゆうしんとなった。


 彼の妻ラオダメイアは戦後、夫の悲劇を知ると、自らの意思で冥府に落ちた。しかしそこで夫と再会し、夫婦幸せに暮らしたという。

 心優しきプロテシラオスはときおり地上へ出てきては人間たちと交流し、たまにはぶどう畑の面倒などをみて余生を送った。


 トロイアから見てダーダネルス海峡の対岸地域に、彼の墓と神殿が建立された。そこは現在、トルコ共和国ガリポリ半島と呼ばれている。個人がこうむる汚名と引き換えに、全軍の勝利を選んだ男——英雄神プロテシラオスはそこで今も人知れず眠っている。

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