第2章 イスカンダル

 男は移動小屋を引きながら歩いていた。ローラーから十分な距離を取ったため、丸一日小屋の中でできることをしていたが、鈍足ながら自身に接近し続けるローラーを見ていると徐々に焦りが出始めた。そのためわずかでも前に進もうと支木を握ったのだった。

 午後の2時になったあたりだろうか、「おーい!」という声がして男は警戒しなければと思いつつ後ろを向いた。人と遭遇するのは数か月に一度あるかないかの稀な出来事で、交易をするのが基本だが、襲われる可能性がないともいえない。男はそのような者たちに遭遇したことはないが、警戒するに越したことはないと考えていた。

 男の左後ろには、男のものと同じような移動小屋を引いた金髪の女がいた。男は「なんだ?」とやや警戒を滲ませた声を返した。

 女は「あなたも一人?」と男に訊いた。男は「ああ」と短く返した。

 それに続く「取引しない?」という女の持ち掛けに、男は警戒を薄め「いいよ」と答えた。オアシスを発ったばかりの男にとっては良い機会だった。

 男は小屋に車輪止めを付け、中から交換できそうなものを選びながら次々と引っ張り出した。ナツメヤシの実を入れた木箱や水瓶、数冊の本、オアシスで調達した木材などを出し地面に置くと、女も交換する品を出し終えていた。

「どれか欲しいものある?」そう訊ねながら男は女が並べた品々を眺めた。第一に注目したのは干し肉だった。魚肉を含めて肉には数週間ありつけていなかったため、ここで手に入るのは男にとって喜ばしいことだった。女はナツメヤシの実を指さして「これかな。どんな味なの?」と言う。

「甘いけど癖がなくて食べやすいよ。干せば長持ちするし栄養価も上がる。」と答えると、女は「じゃあこれと、あとその本見てもいい?」と数冊の本のうち一冊を指さした。男はいいよと答え、『果実の調理法』と書かれた本を手渡した。

 女は本を開くと目を輝かせ、そのままぱらぱらとめくった。ページを進めるごとに女の顔はどんどん真剣になっていき、のめりこんでいるのが男にも伝わった。その様子を男は温厚な目で見つめていた。

 ページを七割ほど進めたところで、女はその厚みに気付きはっとして「ごめん、つい読み込んじゃって。取引の続きをしましょう。」と申し訳なさそうに言った。この頃には男の警戒は完全に解けていた。

「その本良いよね。見たこともないような果物やそれを使った綺麗でおいしそうな料理がたくさん載ってる。」

「ええ、いつかこんなの食べてみたいなって思った」そう言った女の表情は柔らかく、うっすらと笑顔を浮かべていた。それを見て男も気が和らぎ、「その木の実持ってくなら塩もあったほうがいいよ。保存食にできるから。作り方はその本に載ってる。」と小さな袋に入った塩を差し出した。「でも、私そんなに交換するもの持ってない」と女は申し訳なさそうに返すが、男は「これあげるよ。久しぶりに人と話せて楽しいから。」とそのまま塩の袋を握らせた。「私も楽しいわ。ありがとう。」女は笑顔で返した。

 その後、男は女が食糧を入れている壺にナツメヤシの実を数十粒入れ、女から5切れの干し肉とコメを両手ひと掬い分受け取った。

「その時計、壊れてるの?」荷物を片付けている最中、女は男が運ぼうとした時計を指して訊いた。「うん。両親との思い出があるから処分できないんだ。」と男は答えた。

「そうなの、あなたも両親が・・・ ごめんなさい、嫌な話しちゃって。」男の答えに対し女は委縮した。それを見て男は「気にしないで。だいぶ前のことだから。聞き辛いんだけど、もしかして君も?」と返した。女は「ええ、数か月前に」と言う。

 二人が荷物を積み終わると、「じゃあ、私は行くわ」と言い、移動小屋の梶棒が付いているほうへ行こうとして、思い出したように振り返った。

「あなた、名前はなんていうの?」

 男はそう聞かれて戸惑った。自分の名前はわかっているが、長いこと口に出していないため発音を忘れかけているらしい。

「イスカンダル」数秒頭を働かせてようやく口が動いた。数秒の沈黙に違和感を示すこともなく、女は「イスカンダルっていうの。いい名前ね。何か意味はあるの?」と返した。

「詳しくは知らないけど、古代のどこかの王様から取ったみたい。君は?」と男が言うと、「アレクサンドラ。私も古代の王様が起源らしいわ。」と女も返した。

 女は「また会えたらいいわね。それじゃ」と言うとそのまま小屋を引き去っていった。男が「俺もまた会いたい。気を付けて」と返すと、女は振り返らず手を振って答えた。

 男はさっそく自分の小屋から干し肉を取り出しかじりついた。塩の染みた干し肉の味が男の舌に染みこんだ。

 そのまま地面に座り込むと、疲れがじわじわと男の体の底から染み出す。しかし、その疲れは通常のものとは違い、飛び跳ねたくなるような嬉しさを含んだ疲れだった。

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