第17話

 シウバが神官を道連れに窓の向こうに消えた数秒後、耳を塞ぎたくなるような音が聞こえてきた。陛下、とアタラムが慌てた様子で窓に向かう後ろで、テヘナは初めはふらついて、次第にしっかり力強く駆けながら寮の外を目指した。

 彼が軟禁されていた部屋は三階だ。そこから落ちたとなると――。

 息を切らして二人が落下したあたりに向かうと、予想していたような悲惨な光景はなかった。シウバは仰向けになって四肢を投げ出し、シカムと呼ばれていた神官はシウバに被さるようにうつ伏せになって気を失っている。

「シウバさま!」

「…………」

「シウバさま?」

 夫に声をかけても反応が無い。肩を掴んで揺らしても目を閉じたままだ。

 ――な、なんで。

 何度呼びかけようとシウバは微動だにしなかった。うそ、と信じられない思いが胸に広がっていく。〈核〉があるから不死身なのではなかったのか。高い位置から落下したというのに血は出ておらず、体のどこも潰れていないのに、どうして。

 テヘナはシウバに覆いかぶさる神官の体をどけ、夫を抱き起した。まさか落下寸前に神官が魔力マナで何かしたのか。だからシウバは目を覚まさないのか。

「陛下、王妃さま!」

 外に出てきたアタラムは抜かりなく神官を縛り上げると「シウバさまが目を覚まさなくて」と涙声で訴えるテヘナを安心させるように微笑んだ。

「間もなくだと思いますよ」

「え?」

「そろそろ治る頃でしょう、陛下?」

「…………まあ、ね」

「!」

 ゆるりとシウバが目を開けた。いてて、と後頭部をさすり、忌々しげに神官を睨みつける。

「こいつ、落下直前に魔力で身を守ったな。そのくせ死んだと思って気絶してるのか。腹立つなあ」

「良いではないですか。おかげで拘束できましたし」

「あ、あの、シウバさま」

 テヘナはシウバの頬を両側から掴み、じっと瑠璃色の瞳を見つめた。魔力に侵されると金色になると聞いていたが、そんな片鱗はない。ほっと安心した途端に涙が滲む。

「どうしてすぐに目を覚まして下さらないんですかぁ!」

「さすがに頭を打つと回復が遅れるんだよ。見ただろ、ぐちゃっと潰れてるの」

「駆けつけた時には回復なさって潰れてなんかいませんでしたし、潰れていたとしてもシウバさまのそんな姿見たくありません! 猪の魔獣の時もそうでしたけど、どうして捨て身で解決しようとなさるんですか!」

「だって手っ取り早いだろ」

「そうかも知れませんけど私は心配するんです!」

 もう、と彼の胸に額をごつごつとぶつけていると、「悪かったよ」と頭を撫でられた。

「テヘナだって無茶はするだろ。というかしただろ。顔だって怪我してるし、首に縄みたいな痕があるけど、なにこれ?」

「あ、顔はさっき町で魔獣と戦った時の怪我ですけど、首のこれは神殿の地下に侵入した時に……そうだ、地下!」

 テヘナは神殿の地下で見たものをシウバたちに説明した。二人に場所を案内する途中で不審者を捕らえておくための牢と、まだ気を失っているファリュンを見つけた。操っていた本人が気絶したことで魔力の縛りから解放されたのか、牢の前では若い神官がぐったりと倒れている。鍵を拝借してファリュンを助け出すと、目を覚ました彼女は泣いてテヘナの無事を喜んだ。

 再度足を踏み入れた神殿には、相変わらず甘ったるいにおいが充満している。それを辿るように地下にあった部屋を目指すと、中では神官が語りかけていたと思しき女が椅子に腰かけたまま、虚ろな視線を壁に向けていた。

 壁には一枚のタペストリーが掛けられている。荒々しい波に取り囲まれるように女が立ち、月を背負い長い髪を風になびかせる姿は勇ましくも神々しい。恐らくこれが〝海神マレ〟だろう。

「シウバさま、座ってるこの女性は……?」

「海神の器だよ」

 だが女は三人に気がついていないのか、気がついた上で無視しているのか、タペストリーを見つめたまま微動だにしない。

 神の器とは時にその身に神を降ろし、予言や助言を授ける者を指すはずだ。神殿の奥深くで祈りを捧げつづけるともヴェロニカから聞いたが、今は祈りの真っ最中なのだろうか。

 ――それにしては、違和感が。

「朝になったら操られてた神官たちも何人かは目を覚ますと思うし、面倒くさいけどそれを待って話を聞こう。シカムに聞いたんじゃ正直に話すと思えない」

「……操られていた、といえば」

 テヘナは王宮に押し寄せた人々や魔獣の様子について語った。今ごろヴェロニカが魔術師を率いて浄化しているだろうが、彼らを操っていたのも先ほどの神官であれば向こうも沈静化しただろうか。シウバも「ヴェロニカが浄化したんなら大丈夫でしょ」とアタラムを見て頷いている。

「でもどうして王宮に押し寄せたりなんか……」

「魔術師を食い止めるためじゃないかな。念には念を入れたって感じだろ」

「一体シカムはどれだけの人や魔獣を操っていたんでしょうか。魔力は神力イラと違って感情に反応して際限なく湧くとも聞きますし」

「それだけ恨みとか憎しみが強かったってことですか? いったい何をそんなに……」

「さあね、分からない。何を恨んでたにせよ規模があまりにも大きいのは確かだ。異常だよ。そのあたりは後々じっくり聞かせてもらおう」

 朝になるとシウバが予想した通り何人かの神官が目を覚ました。アタラムが適当に連れてきたのは牢の前で気絶していた若い神官だった。彼は海神の器である女に痛ましそうな目を向け、操られていた時のことを聞かれると、その間の記憶が無いと語った。今日の日付を教えると愕然とし、ひと月も前から記憶が飛んでいると呟いていた。

 海神の神殿には二十人ほどの神官が仕えているという。その全員がひと月も操られていたというのか。にわかには信じがたい。

「シカムが魔力に手を染めたことは?」

「存じ上げませんでしたが、今にして思うとおかしな点はあったように思います。神殿でたまに魔力の靄を見かけたり、それが器さまの祈りの部屋から漂ってきたり……なにかの間違いかと思い、他の神官と真相を探ろうとしたあたりから記憶が曖昧でして」

「この部屋を覗き見ていた時に、器の人に『いるかどうかも分からない海神に祈りを捧げる毎日も終わる。聞こえもしない神の言葉に耳を傾けなくても良くなる』って話してるのを聞いたんだけど、これの意味は分かるかしら」

「ああ、それは……」

 話してもいいのかと躊躇うように神官は口を噤んだ。その目は器の女を見つめている。彼女はこれといった反応を示さない。シウバが「話せ」と命じると、神官が遠慮がちに口を開いた。

「陛下、どうか私の話を聞きましても、決して器さまを責めたりなさらないでいただけますか。彼女は……哀れなのです」

「約束しよう」

「……海神さまの声は、もう三十年もの間、聞こえていないそうです」

「どういう意味だ?」首を傾げたのはアタラムだ。「そこの女性が器になったのは、ちょうど三十年ほど前だろう」

「器がどのように選ばれるのか、お三方はご存知でしょうか。先代の器が亡くなるとエストレージャ国内の神官が集められ、神力の質と信仰心を鑑みて決まるのです」

 つまり器の女は、当時の神官の中で最も神力の質がよく、海神への信仰心が篤かったのだろう。だから適任とされた。

「……ですが、どれだけ祈ろうと、海神さまは器さまに降臨なさらなかった。適任ではなかったのでは、と器に選ばれなかった者たちが妬む声も少なくなく、私が海神さまの神殿に仕え始めた頃には、器さまは壊れておりました」

 海神の声が聞こえないのは信仰心が足りないから。それならずっと祈りつづけようとこの部屋にこもり、いつしか心を病んだのではないかと神官は言う。食事もほとんど摂らず、シカムに世話をされながらしか生きられなくなっていたと。

 今も部屋で話し込む四人に見向きもしないのは、彼女の意識は精神に異常を来した現在も、恐らくこれから先もずっと海神にのみ向けられているからか。

「もちろんシカム最高神官に『このままではいけない』とみなで申したこともありました。器さまのためにも、海神さまの声を信じる民のためにも。ですが……」

 私たちの訴えが聞き入れられることはなかった、と神官は力なくうな垂れた。

 テヘナは器の女性を見やり、彼女に語り掛けていた男の姿を思い出す。慈しみに満ちた横顔と悲願を達成せんとする切実な声は、ただの器と神官という態度ではなかったように感じた。

 若い神官によると、部屋に立ちこめる甘酸っぱいにおいは器の女性が好んでいた香なのだという。彼女の心を慰めるため、シカムが常に焚いていたのだそうだ。また彼はあまたの供物が乗った祭壇には見覚えが無いらしく、こんなものが設えられているのも知らなかったと首を振った。

「祭壇はレチア教のために設けられたものでしょうか」

「恐らくね」

 王都に戻る馬車の中で、テヘナは遠ざかっていく神殿を見つめながら二人の話を聞いていた。

 器の女性をあのまま放置しておけず、テヘナが保護を説いたため、彼女はファリュンと共に別の馬車に乗せられている。また魔力を操っていた神官も事情聴取のため、罪人を連行するための強固な馬車に押し込まれていた。

 神殿で治療は受けたが、頬がまだ痛むし首もひりひりする。無意識に縄の痕をさすっていると、「触らない方がいいよ」と隣に座っていたシウバに手首を優しく握られた。

「僕にヴェラみたいな治癒能力があれば良かったんだけどね」

「気になさらないでください。私の不注意で負ったようなものですから。それに私やファリュンの首を絞めた人も操られていたわけですし」

「だとしても許されないと思うけどね」

「許しちゃいけないのはシカムとかいう人だけです。たくさんの人を巻き込んだだけでなく、陛下に魔力の発生や魔獣の責任を押し付けようとしたんですから」

「出発前に古株の神官何人かから聞きましたが、シカムと器の女性はかつて親しい仲であったそうです。基本的に神官は清い体と精神を尊ばれますが……まあ、やることはやっていたのでは、と噂はされていたそうで」

「そんなことを気にするような二人じゃなかったってことかな。だから神の声なんて聞こえなかった、とかね」

 アタラムが神官たちから聞いたのはあくまで噂だ。真実かどうかは分からない。その点も含めてのちのちシカムに問い質すのだろう。

「だけど僕を王位から退かせることで、あの女を器から解放するっていうのは、いまだに意味が分からないんだよね」

「『国を治めるべきはレチアさま』って言ってましたから、シウバさまのあとにレチアさまを王に据えるつもりだったんでしょうか。そうすると国を挙げて信仰するのはレチア教になるでしょうし、ゆくゆくは海神……というか光の神と闇の神自体の信仰を薄くして、器という地位を撤廃するつもりだった、とか。そうすれば女性も病む必要がなくなりますし、元に戻ると思ったのかも」

 彼女の心も、二人の関係も。

 あくまでもテヘナの予想だったが、道中でシカムを追及したところ正しかったそうだ。「王妃さまの見込みはだいたい当たっていましたよ」と尋問を監督したアタラムに褒められたほどだ。

 またシカムがレチア教に接触したのは三年前だという。海神に救いは求められない、かといって海神より上位の存在である光の神と闇の神も当てにならない。どうにか器を役目から解放してやれないかと縋る先を探していたところ、あちらの信者が声をかけてきたと話したそうだ。

「『今回の計画は全て自分が考えたことであり、器も、レチア教も関わっていない』って言ったらしいけど、どこまで信じていいのやら」

 二日ほどかけて王都に戻ったその日、王宮にある夫婦の寝室で、シウバはベッドに寝ころびながらため息をついていた。テヘナはベッドの縁に腰かけて「そうですね」と同意しつつ窓の外を眺める。藍色と深いすみれ色が混ざりあい幾千の星が散りばめられた空には、今にも落ちてきそうなたまご色の満月が浮かんでいたが、位置が高くなったのか見えなくなっている。

「レチアさまの依り代がどうのって言ってたのはなんだったんでしょう」

「器みたいなものじゃないのかな。器を撤廃しようとしたくせに依り代は認めるなんて、どういう理屈か分からないけど。依り代に降ろされたレチアが王として国を治めるって算段だったのかな」

「……以前シウバさまとアタラムさんが話してましたよね。魔獣と魔力にはレチア教が関わっているんじゃないか、でも目的が分からないって。それに関しては?」

「まだ口を割っていないけど、シカムが魔力を扱いだしたのはレチア教に入信してからだ。無関係ではないと思う。時間はかかるだろうけど、必ず明らかにしてやるさ。それよりも」

 おいで、とシウバがベッドをぽんぽん叩く。ほんのりと頬を染め、テヘナは大人しく彼の腕を枕にして寝ころんだ。

「アタラムさんに怒られちゃいましたね」

「『王妃さまには待機をお願いしたはずです!』だったっけ」

「『陛下も王妃さまを危険に巻き込むような真似はお止めください!』とも言ってたじゃないですか」

「たまには怒らせてみるのも悪くないね。あいつが怒った顔は面白い。顔の傷はヴェラに治してもらった?」

「まだですけど、別にいいかなと思って。塗り薬ももらってますし、これくらいすぐに治ります」

「……僕がよくない」

「え?」と聞き返すより先に唇を塞がれた。

 そういえば口づけるのは久しぶりだ。触れるだけのそれを何度か繰り返したところで、シウバは仏頂面でテヘナの傷に指を伸ばした。痛くないように触るのかと思いきや、軽く爪を立てられて「ぎぇっ」と色気も何もない声が出る。

「痛いじゃないですか!」

「だったら早く治してもらいなよ」

「痛がるようなことをしたのはシウバさまじゃないですか。そんなに治してほしいんですか」

「じゃないとここにキスできないし」

「…………」

 どういう理由だと突っ込みたかったが、結局なにも言い返せなかった。

 うとうととまぶたが重くなる。魔獣討伐や移動などでまともに眠れていなかったせいで疲労が思いのほか溜まっていたようだ。テヘナとシウバがあくびをしたのは同時だった。

 かたわらに温もりを感じつつ、二人はそろって目を閉じた。

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