第15話

 船から眺めていたのと、間近で見るのとでは、神殿の迫力は段違いだった。港と神殿をつなぐ唯一の道である橋にすら海の生物を模ったレリーフがそこかしこに見受けられ、波を表したと思われる地面の模様には繊細さのあまり見入ってしまいそうになる。一緒に来てくれたファリュンがいなければ完全に目を奪われていたに違いない。

 人通りが多ければそれに紛れて近づけたのだが、足を踏み入れることが出来る者は制限されている。どうしたものかと悩んでいる時に、シウバが連れてきた護衛たちが近くで待機しているのを見つけた。彼らからシウバとアタラムだけが招かれたことと、現在は神殿の裏にある神官の寮に隔離されていることを聞き出した。

「護衛の皆さん、テヘナさまを見て驚いておられましたわね。どうして王妃さまがここに、と」

「そりゃあそうでしょ」

 辺りはすでに夜の帳に包まれている。雲が厚いせいで月明りも届かない。テヘナはファリュンを伴い、目立ちにくい黒いローブを羽織って橋を渡っていた。

 立ち入りが制限されているのなら不審者をつまみだす見張りくらいいても良さそうだが、ありがたいことにいなかった。おかげで問題なく神殿に辿りつけたのだが、上手くいきすぎて不安にもなる。と思っていると、案の定、

「なんで神殿にも魔獣がいるのよ!」

 神殿の入り口から魔獣が現れたのだ。

 それも、ネズミの。

 犬や猫と違って額の角は小さく、ちょこまか動き回るせいで狙いがつけにくい。一匹だけならともかく、群れているのが腹立たしい。ネズミはわらわらとテヘナやファリュンの足元に群がり、前歯で靴を噛んだり角で突いたりしてくる。そもそもネズミが苦手なファリュンは悲鳴を上げそうになっているが、ここで叫んだのでは女が侵入したと気付かれてしまう。なんとか声を堪えてもらいながら全ての角を叩き折った時、二人はすっかり疲弊していた。

「見張り代わりの魔獣ってわけね……」

「護衛の方についてきてもらうべきだったのではありませんの?」

「あの人たちには町の魔獣をなんとかしてもらわないと。私たちより装備は整ってるし、神殿に入ってこられない以上、そうしてもらった方が良かったでしょ」

 さて、とテヘナは若草色の瞳で神殿を見上げた。暗闇に白く浮かび上がる大木のような柱は神秘的だが、そこに刻まれた神のしもべと思しき海の怪物たちが来訪者の心の奥底に畏怖を抱かせる。

 シウバたちが隔離されている寮は神殿の裏にあると聞いたが、辿り着くには中を突っ切っていくしかなさそうだ。神殿のすぐ横は絶壁になっているため回り道が出来ない。

「行きましょう、ファリュン」

 柱が規則正しく連なる間を進み、テヘナは足音と息を潜めながら少しずつ先に進んだ。柱の奥でぽっかりと口を開けているのが、心臓部ともいえる場所に繋がる入り口だろう。底なしの闇に繋がっているように思えて、少しだけ怯んでしまう。

 意を決して進んだ内部は広かった。天井が高く、それを支える数多の柱。床にはランタンが置かれ、そこに灯ったほのかな明かりで柱に男が彫られていると分かったけれど、ぼんやりと照らされた男たちの目はまるでこの場に訪れた者たちを見定めるような鋭いものに感じられる。

 女神である海神は神殿に女が入るのを嫌がると聞いていたため、おかしなことが起こるのではと警戒したが、特に異変は起こらない。ほっと一息ついて、テヘナはすん、と鼻を鳴らした。

「……やっぱり、あのにおいがする」

「におい?」

「港町で魔力マナをまとっていた人と同じにおい。ついでに言うと、城下町にもいた人とも同じ」

 猪の魔獣から逃げる時に入り込んだ路地にいた、商人風の男だ。彼が走り去った時に嗅いだ甘酸っぱい香水の残り香が、港町で捕えそこねた男の香りと一致したのだ。

「犬のような嗅覚をしておりますわね」

「褒めてるのか貶してるのかどっち? ――でも他のところでも嗅いだ気がしたなって思ったのよ。だからここに来た」

 テヘナはどこから香ってくるにおいか探るためにしばらく黙りこみ、やがて奥からだと察した。人がやってこないのを改めて確認しつつ、音を殺しながらそれを辿る。誰が座るためのものか、石造りの純白の椅子を越えて進んだ先から、特に強く香ってきた。けれど目の前にはずっしりとした壁が佇むばかりだ。

「テヘナさま、これを」

 ファリュンがランタンの一つを持ってきて明かりを掲げてくれる。礼を言いつつ壁を観察すると、かすかに縦に線が入っていると気がついた。もしや、と軽く押してみると、壁が音もなく回転する。ファリュンがぎょっとしたように一歩後ずさっていた。

「な、なんですの、これは」

「扉でしょうね。どこに繋がるものか知らないけど」

 開けた先には階段が続いていた。ランタンの明かりを頼りに一歩ずつ下っていくにつれ、香りもそのぶん強くなる。良い香りというよりも強烈すぎて頭がくらくらするし、鼻がおかしくなりそうだ。

 階段を下り終えると左右に道が続いていた。どちらに進むべきかと逡巡していた時、右の方から声が聞こえてきた。くぐもっていて分かりにくいが、恐らく男だろう。ファリュンに静かにしているようにと目配せしようとしたが、目の前を黒い靄が横切る。

 ――魔力……よね、きっと。

 香りを運ぶように漂う魔力は、まるでテヘナを招いているようだった。嫌な予感がしますわ、とファリュンがテヘナの腕を掴んで引き留めようとするが、ここで立ち止まっているわけにもいかない。

 ――シウバさまだって助けに行かなきゃいけないんだから、こんなところで怯んでいられない。

 ――この先に魔力や魔獣を操った犯人がいるのなら、捕まえないと。

 声が聞こえる方へ進むと、やがて明かりの漏れる部屋を見つけた。たてつけの悪そうな扉から香りと魔力が零れるように流れ出ている。テヘナは甘酸っぱいにおいにむせ返りそうになるのを堪えつつ、扉の隙間から中を覗き見た。

「…………もうすぐ。もうすぐだ。きっとお前を解放してやれる」

 煌々と明かりが灯された部屋の中で、男が誰かに語りかけている。慈しむような横顔と、体を覆うローブには見覚えがあった。

「もうお前が苦しむ必要はなくなるんだ。いるかどうかも分からない海神に祈りを捧げる毎日も終わる。聞こえもしない神の言葉に耳を傾けなくても良くなるんだ」

 男は床にひざまずき、眼前に座る誰かに絶えず喋りかけている。あいにくテヘナから見えるのは男だけで、誰がいるのかは分からない。何者かは男の声に反応を示した様子はなく、黙り込んでいるようだ。

 ――それにしても。

 テヘナは眉間にしわを寄せ、思わず鼻をつまんだ。

 魔力が泥のように床を這い、柑橘系の香りが充満する室内には異様な空気が満ちている。男のそばには杖を持った女の像が置かれているが、王都の教会で見た闇の神の像とは異なっていた。あれが海神だろうか。

 女の像の手前には祭壇が築かれ、捧げものと思しき物体がいくつか乗っている。果物や野菜といった供物はいずれも腐りかけていた。甘酸っぱいにおいは部屋で焚かれている香が原因だろうが、強烈さは腐臭を隠すためかと感じる。

「あとは国王を引きずり下ろし、魔術師を全員排除するだけだ。そうすればお前は自由を手に入れられる。だから――――」

 男は感極まったように鼻をすすり、目元を袖口でこすった。

 もっとよく見えたらいいのに。テヘナがもどかしさに唇を噛み、ファリュンに声をかけようと振りむいた、その時だった。

 ごつんっと鈍い音が背後から響く。えっ、と思う間もなくテヘナの首に何かがからみつき、強い力で締め上げられた。視界のはしで縄と何者かの手がちらつく。

 ――足音なんて全然しなかったのに。

 先ほどの音はファリュンが倒れたものだろうか。男に集中しすぎていて背後からの気配に気がつかないなんて。手加減するつもりはないのか、縄はきつく食い込んでテヘナの意識を奪う。

「侵入者か」

 薄れゆく意識の中で、部屋にいた男が扉を開けた気がした。男の問いに背後にいた何者かは答えることなく、突然縄を緩めた。体に力が入らず、そのまま床にくずおれたところで、テヘナの思考は闇に閉ざされた。



 カラスの魔獣による猛攻はなんとか凌げたが、無傷では済まなかった。

 傷を負ったはしから回復するシウバはともかく、アタラムが腕や脚を角で裂かれたのだ。

「痛みは?」

「ないと言えば嘘になります。角は全て避けたつもりでいたのですが……」

「限度ってものがあるでしょ。部屋だって狭いんだし。どれも大して深くは無さそうだけど、あまり動かない方がいいかもね。ぶっ倒れられても困るから」

「……申し訳ない」

 今のところカラス以外の魔獣が侵入してくる気配はない。外には夜の闇が広がっているし、この状況で新たな魔獣が現れたとしても先ほどまでと同じように対処するのは厳しい。扉を破って外に出ることも考えたし実践もしてみたが、出来なかった。

 アタラムをベッドに座らせ、シーツを引き裂いて傷に巻き付けてやりつつ、部屋のすみに積み上げたカラスの魔獣を見やる。何羽いるのか数えるのも面倒くさい。ここにあったのでは邪魔だが、かといって窓から捨てたのでは地面に激突して死ぬだろうし、呪いが発動してしまう。

「〈核〉がある僕は呪われるとどうなるんだろうね。普通の人間なら死ぬだろうけど、僕の場合はただ苦しんで魔力が消えるのを待つって感じかな」

「分かりませんが、試そうとなさらないで下さいよ」

「しないって」

 部屋に魔獣が突撃して来る騒ぎがあったにもかかわらず、寮に滞在している、あるいは部屋の前で見張っている神官たちが反応した様子はない。魔獣に汚染された神官たちがいたというのだから、もっと大騒ぎしてもおかしくないはずなのに。

 ――それに。

 シウバはカラスの行動を振り返り、己の胸を撫でた。

「こいつら僕ばかり狙ってたよね。アタラムには目もくれずに」

「……言われてみれば」

「みんな僕の胸を狙ってきてたのは気のせいじゃないと思う」

「胸を?」

「正確には〈核〉かな」

「……なぜ?」

「知らないよ。操ってた本人に聞くしかないね」

 がちゃ、と鍵の開く音がして、アタラムにベッドのそばに伏せているよう指示する。扉を開けたのは神官の男だった。背後にはランタンを持った大勢の神官もいる。男はにこやかな笑みを浮かべていたが、シウバに傷一つないと気付いた途端に表情を歪める。

「あれだけの魔獣を全て退けたと?」

「その言い方では操っていたと自白してるようなものだと気付いているのか?」

 というより、もう隠すつもりもないのだろうか。

 アタラムの部屋には寄ってこなかったのか、彼がここに居ると気付いている様子はない。

「神官ともあろう者が魔力に手を染めたのか」

 シウバの問いに、男は余裕を取り戻したような笑みを浮かべるばかりで答えない。

「神官、それも最高位となると元から持つ神力の質も高いだろうし、量も多いだろう。それが全て魔力になったと考えると、あれだけのカラスを操れていたのも頷ける。で? 私の〈核〉を狙った理由を聞かせてもらおうか」

「お教えする前に、まずはこちらをご覧いただけますか」

 男は「あれを」と隣にいた何ごとか命じると、虚ろな表情の神官が何かを乱暴に引っ張り、シウバに向かって突き出した。それが何か――誰か理解した瞬間、シウバの瞳に静かな怒りが宿った。

 口に布を噛まされ、後ろ手に縛られながらぐったりと首を垂れているのは、他ならぬテヘナだった。

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