第12話

 みぞれに似た雨が降る中、テヘナは王宮の片隅にある建物の前にいた。一見すると貴族の邸宅のように見えるが、玄関口が何ヵ所にもある特殊なつくりをしている。場所の案内をしてくれたベレニがそのうちの一つから中に声をかけると、すぐに応答があった。

「少々お待ちください」

 なにやらばたばたと騒がしい音が聞こえたあとに扉が開く。顔を覗かせたのはヴェロニカだった。彼女はテヘナに目を留めると「王妃さま!」と驚いたように口元を手で覆った。

「ごめんなさい、急に訪ねたりして。忙しかったかしら」

「いいえ、とんでもない。こちらこそ大変失礼を致しました! すぐに中を片付けます。ああでも、そうするとお待ちいただいている間に雨に濡れてしまいますね……」

 彼女は迷った末に「王妃さまをお招きする用意がなにも整っていないのですが」と申し訳なさそうにテヘナを中に入れてくれた。

 ここは宮廷薬師の工房だ。中には談話室と作業室がある。他の玄関口は楽士や学者、その他もろもろの職人の工房に通じているそうだ。

 テヘナが案内されたのは入ってすぐの場所にある談話室だった。ヴェロニカの言葉通り、机の上には薬草や石や布が転がり、窓際には乾燥させた草がぶら下がっている。お世辞にも片付いているとは言えない状況だ。辛うじて綺麗にされている来客用の椅子に腰を下ろす。意外と座り心地は悪くない。

 作業室の方ではまだなにか行われているのか、人の声や物音が聞こえてくる。テヘナがそちらに目を向けたのを、物音を咎められたと思ったのか、ヴェロニカが注意しに行こうとしたのを慌てて止めた。

「なんの前触れもなく来た私が悪いんだもの、気にしないで」

「寛大なお心遣いに感謝いたします。すぐにお茶をお出ししますね」

「ありがとう。あっちの部屋で作業しているのは弟子とか?」

「弟子は弟子ですが、弟の弟子たちです。私には双子の弟がいるのですが、彼の方が薬草に詳しくて。ちょうどいま新しい薬の開発をしているところで手が離せないらしく、王妃さまにご挨拶もせずにご無礼を……」

 ヴェロニカの弟は作業に没頭すると周りが見えなくなる性質のようだ。薬の開発とやらに興味は惹かれたが、邪魔をして失敗してしまうといけない。テヘナは好奇心をなんとか抑え込み、ヴェロニカが淹れてくれた茶を飲んだところで本題を切り出した。

「シウバさまが海神の神殿に向かわれたことは知ってる?」

「はい、存じております。長らく祈りを捧げていなかったので、そのための旅だと聞いておりますが」

 ヴェロニカが言ったのは表向きの理由だ。テヘナは誰にも言わないようにと釘を刺したうえで、神殿から届いた手紙の内容を話した。彼女には教えていいと言われているので、あとから叱られる恐れもない。

 港町でも魔獣が確認されたこと、その魔獣が振りまいた魔力マナが影響を及ぼしていること。そしてシウバの王たる資格が問われていること。説明し終わった時、ヴェロニカは眉を寄せて難しそうな表情をしていた。

「陛下が神殿に向かわれたのは、海神マレに王として認めてもらうため、ということでしょうか」

「そう。『魔力に汚染される恐れなんてないって証明してきてやる』って」

 テヘナも同行するつもりでいたのだが、女神である海神は、己の神殿に他の女人が入ることをことのほか嫌がるという。テヘナでは立ち入れないのだ。

「確かに今の陛下なら汚染される心配はほぼないと思います。以前と違って〈核〉も完全なものですし」

「そういえばシウバさまが『僕には前科がある』とか言ってたような気が……」

「〈核〉が不完全なものであったころ、魔力に汚染されて魔獣に近い存在になったことがあるんです」

 それを止め、浄化に携わったのがアタラムとヴェロニカだそうだ。以前ベレニが「数年前、陛下は再び死の危機に見舞われました」と話していた件に違いない。

「そのため海神の神官たちは陛下に不信感を抱いたのではないでしょうか。また同じことがあったのでは民はもちろん、〝器〟にも危険が及ぶと」

「……器?」

「神のお告げを神官に伝える者のことをそう呼ぶんです。王族と言えど目にかかることのできない、特別な存在だと聞いたことがあります。神殿の奥深くで神に祈りを捧げ続け、時にその身に神を降ろして予言や助言を授けるんだとか」

「あ、それなら私の国にも似たような職業があったわ。神だけじゃなくて祖先の霊とかを呼んで、自分の体に憑依させる占い師がいたの」

 ただテヘナの国にいた占い師は高貴な存在というわけでもなく、庶民だろうが王族だろうが関係なく接することが出来た。それと違い、エストレージャの〝器〟は限りなく特別な扱いを受けているに違いない。

「私はあまり器について詳しくはないのでこれ以上はなんとも言えないのですが、神殿の方々は器が魔力に汚染されては一大事だと考えているんでしょう。事態の収拾をどうつけるつもりかですとか、あとは魔力の発生には私たちゼクスト家の責任もありますし、そんな者を宮廷薬師として抱えている理由が問われたりするんじゃないでしょうか」

「責任って、どういうこと? 八年前に確認されたとか、〝レチア教〟とかいうのが関わってるんじゃないかって話なら少しだけ聞いたけど」

「魔力を発見し、初めに悪用したのは私の叔父なんです」

 以前陛下を汚染したのも叔父です、と告白したヴェロニカの目には、悲しげな光が揺れていた。

「その叔父さんは、今は……?」

「獄中で死にました。自殺です。叔父が魔力の特性や利用法などをよそに流していたと知ったとはその後です」

 その〝よそ〟というのがレチア教という宗教団体ではないかと言われているらしい。だがヴェロニカの叔父とレチア教に明確な接点はいまだに確認されておらず、またレチア教が魔力に関わる目的も理由も分かっていない。

「ともかく陛下は海神を納得させるはずです。魔力を浄化できるのは神力イラしかなく、それを人々のために使うのは私たち魔術師しかいませんから」

「シウバさまには『魔術師の人たちを連れて行って浄化した方が早いんじゃないか』って聞いたんだけど、無理だって言われたのよね。どうして?」

「魔術師が神力を宿す原因になった陸神と、その姉である海神は仲が悪いんです」

 だから現地に行くことが叶わないのか。なんて馬鹿馬鹿しい理由だろうと思うものの、過去の記録で港町に魔術師が足を踏み入れた時、海が大荒れになった事例があるそうだ。たまたまじゃないのとテヘナは呆れずにはいられない。

 シウバはそのあたりの話もするつもりだろう。神官が人々のために力を使わない以上、魔術師が現地に向かうしかない。その説得の間、魔獣や魔力は放置されっぱなしというのが気になる。

 だからテヘナはここに来たのだ。

「魔獣の浄化は魔術師にしか出来ないだろうけど、弱体化くらいなら私みたいな普通の人にも出来るんでしょう? そのための弱点はどこなのかなと思って」

「弱点、ですか。あるにはありますが、まさか王妃さま、魔獣に挑まれるおつもりですか?」

「シウバさまに聞いたの。『私にも何か出来ることがあれば教えてくれ』って。そうしたら、神や神官との話し合いを邪魔されないように魔獣を神殿に近づけないでくれって言われたのよ」

 神殿には入れないが、港町自体ならテヘナは自由に動き回れる。魔獣を弱体化させることで振りまかれる魔力を最低限まで抑え込み、神官たちが汚染される危険を低めるのだ。

 他にもシウバに指示されたことはあるが、ヴェロニカに聞きたいのはひとまず魔獣の弱体化の方法だけだ。彼女は伝えてもいいものか悩むように黙り込んだ。以前テヘナが魔獣によって怪我を負わされたことが気になっているのだろう。夫婦ともども考えることは一緒というわけだ。

「あの時はなんの知識もなく挑んだからああなった。でもちゃんと対策を聞けば大丈夫だから」

「……本当に、ですか?」

「信じて」

 次こそ失敗しない。必ず。

 でなければ、シウバを落胆させてしまうから。

 じっとヴェロニカを見つめていると、しばらくして彼女が折れてくれた。魔獣を弱体化させるための方法と注意点を教えてくれる。一通り聞いたところで、怪我をした時のための塗り薬のほか、お守りだというネックレスを託してくれた。小さな宝石が一つついているだけの素朴なものだ。

「すごく綺麗な宝石ね。光ってるみたい」

「それ、〈核〉なんです」

「……これが?」

 これと同じものがシウバの胸にも埋め込まれているのか。そう呟いたテヘナに、ヴェロニカは「陛下のものはこれより二回り以上も大きいですよ」とどこか誇らしげに言う。

「それを肌身離さず持っていてください。魔力に影響されそうになっても、私の神力が詰まったそれなら大抵の魔力は弾き飛ばせます」

「分かった、ありがとう」

 早速首からぶら下げてみれば、お似合いです、と微笑まれた。

 これで準備は整った。工房から帰ろうとして、「あっ」とテヘナは振り返った。

「私が港町に行くってこと、アタラムさんには内緒にしておいてね」

「えっ。アタラムさまは王妃さまが向かわれることを知らないんですか?」

 ヴェロニカが愕然とする前で、テヘナは苦笑しながら頷いた。一応アタラムにもテヘナがどう行動するか伝えようかと思いはしたのだが、魔獣に襲われることを心配されそうだったので黙っておいたのだ。

 アタラムはシウバと共に行動している。だからテヘナは二人よりも遅く王宮を出て、二人よりも早く王宮に戻ってこなければならない。でなければアタラムに港町に行っていたことが知られてしまう。

 テヘナの行動を知っているのはシウバとヴェロニカ、そして二人の侍女だけだ。

「ね、お願い」

「仕方ありませんね」とヴェロニカは諦めたように頷いた。

「ありがとう。あ、それと」

「?」

「私もあなたのこと、ヴェラって呼んでもいい?」

 ヴェロニカはきょとんと眼を瞬いていたが、すぐに「ええ、もちろんです」と笑ってくれた。

 大変ですテヘナさま、とファリュンが駆け付けたのは、その直後だった。


 海神の神殿に訪れるのは初めてではない。子どもの頃、まだ普通の体だった時分に父に連れられて来たことがある。

 ――あの時はなんで来たんだったかな。

 シウバの心のうちを読んだわけではないだろうが、疑問に答えたのはアタラムだった。

「懐かしいですね。神殿の改装を見物しに来た時以来です。大嵐で外壁が破損してしまったのを直す折に、風雨で削られていた装飾も建築当時のものを再現したんでしたか」

「よくそんなことまで覚えてるね」

「荘厳な造りでしたのでよく記憶しております」

 荘厳ねえ、とシウバは辺りを見回した。

 よく磨かれた大理石の床と、部屋を四角く囲むように並ぶ柱。どれも樹齢百年は越していそうな木の幹ほどの太さがあり、波がうねるようにくねくねと所どころ湾曲していた。見上げていくと柱の上部は男の上半身が彫られており、屈強な両腕で天井を支えている。天井を見れば海神の親である光の神と闇の神の化身、太陽と月が細かなタイルで色鮮やかに表現されていた。

 柱と柱の間の床には薄青色のランタンが置かれ、ほの明るくあたりを照らしている。中に灯るロウソクの火が揺れるごとに、シウバとアタラムの影も揺れた。

 どことなく幻想的な雰囲気を湛えるこの場に入ることが許されるのは王族と神官に限られる。ゆえに護衛たちは神殿の外で待機しているしかない。

「ようこそいらっしゃいました。国王陛下、宰相どの」

 正面から歓迎の挨拶が聞こえてきた。二段ほど高くなった床の上には純白の石で造られた椅子が置かれ、柱の陰から現れた何者かが音もなく座る。

 ――今の〝器〟か。

 女だ。年の頃は四十代前半だろうか。索漠さくばくとした瞳に人間らしい温かみは感じられず、頭の両側で渦を巻くようにまとめられた長い髪は色素が抜け落ちているかのように白い。ひじ掛けに置かれた腕は枯れ木のごとき細さで、身にまとう青磁色の衣に今にも潰されそうだ。

 そのそばに立ち、さきほどシウバたちに挨拶を述べたのが神官の男だ。器の女と同じくらいの年齢だろう。見覚えのある顔立ちだ。誰だっけと考えて、テヘナとの婚姻の儀式を見届けた男だと気がついた。

 神の横に侍るのが許されるのは最高位の神官だけだ。彼は全ての神殿に仕える神官たちの頂点に立つ者である。

 その権力はシウバに勝るとも劣らないだろう。

 ――気に食わないな。

 神官の男の目には、シウバに対する挑戦のようなものが浮かんでいる。アタラムが神に傅く隣で、シウバは胡乱に二人を睨みつけた。

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