約束の殺人

翠柘。

世界は理不尽、だけど美しい

僕は恵まれている。

友達も多くいるし、成績も学年トップ、スポーツだってできる。整った顔立ち、サラサラのウルフヘアにセンターパート、高身長細身、シックスパック。人に優しく頼れるリーダー系、時にはヤンキー系。僕は容姿も性格も完璧だ。だから男女問わずモテたし、学校じゃちょっとした有名人だった。

両親も優しくて、僕が望むことは何でも叶えてくれる。毒親とか虐待なんて言葉も、最近テレビで見て知った。お金に困ることなんてなかったし、チヤホヤされて育ってきた。

僕は世界で1番恵まれている高校生なのだ。

だから悩みなんて1ミリもない、そう思われて当然だ。だけど、そんなことはあるわけもなくて、僕は毎日沈んでいる。両親や友達に隠れて、先生にも言えるわけなくて、薬の量と身体の傷だけが増えていく。人は恵まれなくても、逆に恵まれすぎても、病んでしまうらしい。僕が異例だとしたら、何か賞をもらえそうだ。


ある時学校で、突然切りたい衝動が襲ってきた。友達からの誘いを適当に断って、誰もいない昼休みの空き教室で、100均のよくあるカッターで手首に線を刻んでいく。力加減を間違えてしまわないように集中する。


「何やってるの」


その日、僕が1番嫌いな同クラスの女子に、秘密を見られた。




「君、同じクラスのイケメン優等生くんだよね?」


「だったら何」


「あー認める系?イケメン優等生って」


一体なんだよ。持っていたカッターを思わずそいつに向けたくなる。腹部にグサッとしてやりたい。


「何か用でもあんの」


「教室のキラキラがゼロだったから、どこ行ったのかなーと思って。存在感ありすぎるから」


「比べてお前は存在感ゼロ」


「確かに、私がいなくても変わらないね」


羽純うすみあくあ、それがこいつの名前。僕がこいつを嫌いな理由は、僕とは正反対だから。いつもぼっちで、成績は学年最下位、運動音痴、ギャグみたいな瓶底メガネにボサボサのセミロング、似合ってないぱっつん前髪、空気の読めないドジ、天然というよりバカ。逆の意味で有名人。話によれば毒親育ちで、虐待もしばしば。いつも身体のどこかに痣があった。名前負け選手権なんてものがあったら確実に優勝だろう。それなのに――。


「なぁ、なんでそんなに人生楽しそうなんだよ」


「楽しいからにきまってんじゃん」


僕は、こいつの楽しそうな顔が嫌いだった。いつもニコニコ笑ってる姿が、たまらなく嫌いだった。


「変わってんな。こんな世界のどこがいいんだよ」


「それでリスカしてんの?」


僕は、慌てて血が出ている手首をリストバンドで隠した。繊維が傷に張り付いて、地味に痛む。


「ちょっと!!まだ止血してないでしょ?!」


「お前に関係ないだろ、早くどっか行けよ」


本気でカッター突き刺してやろうか?なんて、でも割とガチでそう思った。何よりこいつの言う通り、僕はまだ止血していない。変に痕が残るのは避けたい。


「ねぇ、死にたいって本気で思ってる?」


急に聞かれて困った。こういう時、僕はいつも誤魔化して笑っていた。というか、死にたい死にたくないの話を振られることがほとんどなかった。こんな茶番、無視してしまえばいいんだけど、不覚にも僕の口から出たのは、誰にも言えなかった本音だった。


「僕は、死にたい。だけど多分、死ねない」


死にたいけど、死ぬのは怖かった。こんなにも恵まれている自分が、恵まれていない人間より先に死んでもいいのか、それが不安だった。僕は臆病で、生きることからも死ぬことからも、ずっと逃げていた。


「じゃあさ、私が君を殺してあげる」


衝撃だった。ピストルで頭を撃ち抜かれたみたいに、それは僕の脳に深く突き刺さった。満面の笑みを浮かべながら楽しそうに言った彼女の顔を、僕は一生忘れないだろう。




その日から何日か経って、僕は相変わらず死ねずにいた。殺される感じも全くしなくて、ただ無意味に時間だけが過ぎていった。そんなある日のこと。


「やっほー、イケメン優等生くん」


昼休み。先生からの頼まれ事をこなし、教室に戻ろうとしていた時、後ろから声をかけられた。廊下で立ち話は何となく嫌だったから、適当な空き教室に入った。


「急に話しかけるな。あとその呼び方やめてくれ。僕には五十嵐玲央いがらしれおって名前がある」


「じゃあ玲央くん。この間聞きそびれちゃったんだけど、何が玲央くんを死にたいと思わせてるの?」


死にたいと思わせている原因なんて、考えたこともなかったけど、心当たりはいくつかあった。それが本当に原因なのかは、わからないけど。


「世の中の理不尽さに、うんざりしてんだよ」


何でも相談乗るよって言うくせに、相談すればウザがられる。大丈夫って聞いてくるくせに、大丈夫じゃないって言っても助けてくれない。辛いと言えば、みんな同じだと言われ、本音で話せば引かれる。

結局みんな面倒くさいことが嫌いなのだ。だから僕は、面倒くさがられないように、みんなから好かれる性格や容姿を研究して、実行した。本当の僕を隠すことにした。それゆえに僕は今、とても苦しいのだ。


「たったそれだけのことで?って思うだろ」


「そんなことない」


「お前はそう思わないから人生楽しいんだろうな」


「そんなつもりで言ったんじゃないよ」


「うるせぇな。もうさっさと殺してくれ。それとも何、口だけ言って嘘だったとかある?」


「分かってる、今日はそれも話に来た」


本当に殺してくれるんだ。これでやっと楽になれる。始めからこうすれば良かったんだ。自分じゃ死ねないなら、誰かに殺してもらえば良かったんだ。殺し屋でも暗殺者でも、大金賭けてでもそうすれば良かった。


「そうなんだ。で、いつ殺してくれんの」


「待って、死にたい理由は本当にそれだけ?」


「あとは……いつも楽しそうなお前が憎い」


しばらくの間、沈黙が流れた。目の前の貧相な女は、ただ黙って床の1点を見つめている。なにか言えよ、と口を開きかけたとき、そいつは顔を上げた。


「そう、わかった」


それから目をつぶって、たっぷり呼吸して、ゆっくり目を開いた。



「約2ヶ月後の、8月9日3時9分に君を殺す」



「随分細かい時間だな。3時って夜中だし」


「その日その時間に意味があるの」


なんだかよく分からないなと思った。中途半端な日付に時間。何を表しているのか検討もつかないけど、殺してくれるならそれでいい。それ以上深く考えないことにした。


「っていうことで玲央くん。私と付き合って」


「はぁ?付き合うってどこに?売店?」


「そうじゃなくて、私を玲央くんの彼女にして」


「ふざけんな、誰がお前なんかと」


なんで嫌いな奴と付き合わなきゎいけないんだ。こうやって話してるだけでも反吐が出そうなのに。とはいえこいつに殺してもらうから、そんな事言わないけど。言ったら辞めるとか言いそうだし。


「玲央くんを殺すために必要なことだから」


「なんで恋人になる必要が?友達でもいいだろ」


「それが聞きたかった。じゃあこれから友達ね」


しまった、と思った。何も考えずに成り行きで出た言葉に主導権を握られるとは、何やってんだ自分!!!とはいえ言ってしまったものは取り消せない。表面おもてづらだけでもそういうことにしておくか。


「……分かったよ。ただし会話は必要最低限にしてくれ。周りの奴らに変な目で見られる」


「あと約2ヶ月で死ぬのに、そこ気にするんだね。本当は死にたくないんじゃないの?」


「あ?調子乗んな。終わったならとっとと失せろ」


これ以上同じ空間にいると本当に吐きそうだ。一刻も早く、新鮮で清潔な空気を吸わなければ。


「ごめんごめん。じゃあまた」


彼女が去った教室は、嵐が去った後の静けさみたいで、それがなんだか少し、寂しく感じた。




それから2週間が経った。相変わらず僕らは、クラスの中では全く無関係の人間のように振舞っていた。友達という関係も、あくまで2人だけの秘密だ。公開すると、何かと面倒なことになりそうだし。


「玲央ー、ちょっと聞きたいことあんだけどさー」


イツメンの1人が声をかけてきた。イツメンと言っても、僕はクラスのほぼ全員がそれのようなものだけど。こいつの名前なんてどうでもいいから、適当に"モブA"とでもしておこう。


「いいけど、何?」


「今日って予定あったりする?授業終わり」


「特にない、普通に家帰るだけ」


「何回も悪いんだけど、掃除当番変わってくんね?」


またか……、とため息をつきそうになる。こいつこれで何回目だよ、少なくとも10回以上は変わってるぞ。


「はぁ?また彼女とデートか」


「そう、映画館行くんだよね。彼女が見たいって言ってた最近上映してる……なんだっけ」


「あれだろ、"思い出とタイムリミット"」


「それそれ!!玲央って本当物知りだよなー」


「親が見に行きたいってうるさいからだよ」


というのは嘘で、本当はあいつに誘われて、だから知っていただけなのだ。




時は今日の昼休みに遡る。

いつものように教室で友達と話していたら、ポケットのスマホが震えた。通知を見るとあいつからで、少し話せないか、と。「トイレ行ってくる」と言ってその場を離れた僕は、最初にあいつと会話した空き教室に行った。


「なんの用」


「映画行こう、"思い出とタイムリミット"ってやつ」


「は?なんでお前なんかと」


「今週の土曜10時、駅前の時計の下集合ね」


「おい!!話聞けよ!!」


「待ってるからね!!」


それだけ言い残して、彼女はその場を去っていった。



「おーい、なにボケーッとしてんだよ」


「あ、ごめん。楽しんでこいよ」


「助かる〜!!やっぱ持つべきものは玲央だな!!」


あぁ、また引き受けてしまった。こうなってしまうと、僕は人目を気にして断れなくなる。悪い癖だ。直そうにも直せない。そういう人間を演じているから。早く2ヶ月経って欲しい。そして僕をほうむってくれ。跡形もなく消してくれ。早く、そして美しく。


どうやって殺されるのかなんてわからないから、授業中はずっとそのことを考えていた。

黒板で人虎が友人と再会しているのを適当に聞き流して、微分は積分の逆で積分は微分の逆的な無限ループな思考を巡らせて暇を潰した。

テスト大丈夫ですか?僕は天才なので大丈夫(多分)

1人脳内殺人計画からテスト大丈夫ですか寸劇になる頃には、授業は終わって放課後になっていた。いつもならここで帰るのだが、さっきモブAから掃除当番を引き受けているから帰れない。断ればよかった(そんな勇気ないけど)と地味に後悔した。


よりによって、その日はあいつも掃除当番で、しかも同じ場所に割り当てられていた。


「あれ?今日玲央くんも当番だっけ?」


「友達に頼まれただけ。というか、気安く話しかけてくんのやめてくれる?」


「なんで?また気にしてんの?もうすぐ死ぬのに」


「うるさい。とにかく人前で話しかけんな」


いくらもうすぐ死ぬとはいえ、それまでは人気者の優等生の完璧人間の印象を崩したくない。こいつといたら絶対に確実に100パーセント印象下がる。死にたいと豪語した僕だが、周りからの印象と自分の苦しみを天秤にかければ、圧倒的に前者の方が重くなるのだ。


「わかったわかった。気をつける」


絶対わかってないなと思いつつ、掃除にとりかかる。それにしても、生徒が掃除をするなんて、一体いつの時代の話だ。アメリカでは清掃員さんが掃除してくれているのに。日本は遅れてる。どうにかしろよ議会。


「玲央くん、そこのちりとり取って」


「お前さっき言ったこともう忘れたのかよ」


「え?何が?」


バカすぎる。おバカ選手権大会優勝狙えるだろ。3歩で忘れるニワトリなのか。前世絶対ニワトリだろ。あだ名ニワトリにするぞ、inニワトリに失礼すぎ発言。


「あ、掃除に関することくらい別に良くない?」


「嫌だ。断固拒否する」


「逆になんか怪しまれると思うんだけど」


確かにそうかもしれなかった。だとすると、どこまでがセーフでどこからがアウトなのか、いよいよ線引きが難しくなってくる。ちょうどいい感じの50のラインってどこなんだろう。だけど、こうして話しかけられることに、嫌な感情を抱かなくなってきているのも事実だった。


「お前らいつまで掃除してんだー」


廊下を通りかかったどっかの先生に言われて、適当に切り上げて帰路に着いた。




「なんでいるんだよ」


学校で別れたはずのあいつが、何故か目の前にいた。どういうことだ。反対方向に向かって歩いたはずなのに。まさかあの後Uターンしてつけてきたのか?ストーカー被害で訴えるぞ。


「なんで、って。ノート買って、家帰ってるだけだよ」


確かに彼女が歩いていった方向には、古びた文房具屋がある。値段が他よりもだいぶ安くて、バイト禁止の高校に通う僕らの強い味方だ。大半の学生がそこで必要な文房具を買っている。だから全校生徒の9割の筆箱の中には、その店の物が入っていた。もはや文房具はあの店、と学校から決められているような調子だ。


「玲央くんもこっちなんだ」


「だったら何」


「意外と近所だったりして」


「なわけないだろ」


早歩きで家に帰った。たまに後ろを振り返ると、あいつがニコッとしながらスマホに目を落としているのが見えた。気味が悪かった。5分くらいしてまた後ろを振り返ると、いつの間にか姿がなくなっていた。不思議なことに、それがなんだか寂しいような気がした。もしかしたら僕は、彼女の家が近くであることを望んでいたのかもしれない。嫌いな奴ほど気になる的な、よくあるあの感じ。実際のところは分からないけど、少なくとも、あいつに恋愛感情を抱いている訳では無い。絶対に、あるわけがなかった。




土曜日。眠い目を擦りながら、その辺の服に袖を通して、顔を洗ってスマホの画面を見る。新着メッセージがきていた。


羽純>集合場所に向かっています


いちいち現状報告してくるなんて、変なとこ真面目だなと思った。既読だけつけて支度を続ける。


羽純>集合場所に着きました


まだ時間まで30分以上ある。あいつは時間前行動がすぎる人間なのかもしれない。急いだ方が良さそうだ。僕は駅までの道のりを小走りで進んだ。


五十嵐>着いた


羽純>黒のバケハ被ってる


周りを見渡すと、駅の街頭時計の真下に、やけに大人びたあいつらしき人がいた。白のTシャツを淡いライトグリーンのワイドパンツにINして、黒のバックを持っている。いつもと印象が違いすぎて、言われなかったら誰だか分からなかった。赤の他人のようなその人に恐る恐る近づいていく。


「羽純……さん、ですか?」


別人だったら困ると思って、変な言い方になってしまったが、これもご愛嬌ということで。


「そうですけど、どちら様……って玲央くん?!」


「何、僕なんか変?」


僕の顔を見て、彼女は驚いたような声を上げた。そんな彼女の姿をよく見ると、花のイヤリングが耳で揺れている。それとセットだと思われるネックレスもつけていた。髪も整っていて、メイクもしていた。あのギャグみたいな瓶底メガネはコンタクトになっていた。とても毒親虐待育ちの人間には見えなかった。


「私服オシャレだな〜と。あと名前で呼ばれたから。かっこいいね」


確かに、念の為ではあったものの、名前で呼んだのは初めてだった。でも私服に関してはいつも通り……より少しキメた感じ。白のオーバーシャツに黒のワイドパンツ、チェーンネックレス、それとセットのリングと別買いしたイヤーカフ、斜め掛けバック。服や小物なら余るほど持っている。身につけたことがないものもあるかもしれない。


「そっちも綺麗だよ。初め誰だか分からなかった」


この時の僕は、彼女のことを"お前"と呼ぶことに、少なからず抵抗を感じた。そして、彼女に対して"綺麗"の2文字が出るとは思わなかった。だけど、それはお世辞でもなんでもなくて、心の底から出た本音だった。


「私なりに頑張ったんだ。うち毒親で、虐待とか凄いんだけど、今日のために親にも学校にも内緒で必死にアルバイトして、可愛い服とか小物買って、髪も整えて、メイクも練習して、怖かったけどコンタクトにして。本当はネイルもしたかったんだけど、学校あるし断念したの」


余程頑張ったんだなと思った。こんな綺麗な人が、僕を殺そうとしている人と同一人物だなんて、どうしても思えなかった。


「それじゃあ早速行こうか!」


「その前にコーヒー買いたい」


「玲央くんマイペースすぎ」


「うるせぇ。眠いんだよ」


2人で出かけているところなんて目撃されたら、終わりだってことぐらい分かっていた。だけど今日はシンプルに、この時間を楽しみたいと思った。僕の寿命はあと1ヶ月と半分くらい。1ヶ月を切った頃には夏休みになる。世の中がお盆休みに入る前に、僕はこいつに殺される。残りの時間を謳歌したいと思った。


近くの有名コーヒーショップに寄り道して、よく分からないカスタムはせずに、ノーマルを買って外に出た。羽純は初めてだったらしく、サイズがS・M・Lじゃないことに驚いていた。僕も最初は戸惑ったから、やっぱりそうなるよなと思った。


「飲み物買うのってこんなに神経使ったっけ……」


「僕も初めはそうだったし、慣れだよ」


「ん〜!!これ美味しい!!やばい!!」


僕の言葉をガン無視して、買ったフラペチーノを飲んではしゃいでいた。マイペースはどっちだよと思う。


「んじゃ!映画館へレッツゴー!」


「ちょ、走るなよ!!待てって!!」


人目を気にせず走り回る彼女を見て、なんだか楽しい気持ちになった。こんなに楽しいのいつぶりだろう。そのまま彼女を追いかけて、上映5分前に席に着いた。


「危なかった〜、歩いてたら間に合わなかったね」


「間に合ったんだから良しとしようよ」


「そうだね。あっ、そろそろ始まるよ」



"思い出とタイムリミット"

それは、余命4ヶ月と診断された主人公が、最期を謳歌するために、大切な人と思い出の地を巡る、旅の物語だった。



「めっちゃ泣けた……最高すぎた……」


「泣いてないじゃん」


「余韻に浸ってる時に正論ぶち込んでこないでよ」


「ごめんごめん。でもそろそろ出ないと」


そうして、僕らは映画館を後にした。映画はとても感動するものだった。上映中も、後ろの席からすすり泣く声が何度も聞こえてきた。映画なんて小学生で見た探偵のアニメ映画ぶりだったけど、たまの映画も悪くないなと思った。



「玲央くんプリクラ撮ろうよ!」


「嫌だよ、なんで僕が――」


「いいから、早く中入って」


半ば強引にプリクラの機械の中に押し込まれた。『耳をはやしていとシナモン、3・2・1』次々とAIがポーズを指示してくる。羽純は指示に従ってノリノリでポーズをキメていた。僕も負けじとポーズをキメる。だんだん楽しくなってきて、あっちもこっちも、とそこにあったプリ機を周った。


出来上がった写真を見て、彼女は満足気にしていた。僕も写真に目を落とす。加工のせいか、本当の自分じゃないみたいで、変な感じがした。


「なーんだ、玲央くん笑えるじゃん」


写真を見ながら、真剣な顔で彼女は言った。まだ何か言いたそうだったから待った。


「心の底から笑ってる顔の方が、かっこいいよ」


僕は本当の僕を隠してから、心の底から笑うことが出来なくなっていた。頼まれ事を引き受ける時の、あの作り笑いが仮面みたいになって、笑う時はこの顔、というように作り笑いが僕の笑顔になっていた。今日の笑顔が本気の笑顔だったのは、頬の痛みが物語っていた。明日はきっと、表情筋が筋肉痛になってると思う。


「楽しかったよ。ありがとう誘ってくれて」


「私も楽しかった。今日はありがとう、またね」


羽純はまだ用事があるらしく、その場で解散した。




暇な日曜日が終わって月曜日の朝。学校に着くと、何やら嫌な雰囲気が漂っていた。まさかと思って教室に急ぐと、僕の取り巻きの女子"モブB"が羽純を問い詰めていた。


「ちょっとあんた!!一体玲央くんとどういう関係なの?!」


「ただのクラスメイトですけど……」


「ただのクラスメイトと2人っきりで映画なんて行く?!!しかも恋愛もの !!」


「私が無理言って誘っただけで、玲央く――」


ガタンッ、ドンッ


モブBが急に立ち上がって、その拍子に座っていた椅子が倒れた。そして羽純を更に問い詰める。堪らなくなった彼女も、逃げるように椅子から立ち上がった。やがて壁に背がついて逃げ場が無くなった彼女の頭の横に、モブBが勢いよく手を置いた。これぞ全くときめかない壁ドン。


「あんたさぁ、クズの分際で名前呼びしてんの?ふざけんのもいい加減にしてくれる?」


「ふざけてなんかない」


「お前なんかゴミ以下なんだよ!!!」


モブBが羽純に手を上げそうになった瞬間。僕は咄嗟に2人の間に入って、その平手を顔面で受け取った。表情筋の筋肉痛と相まって結構痛いが、顔に出さずにグッとこらえる。


「れ、玲央くん……?!」


「そこまでにしろ、これ以上問い詰めんな」


「こ、この女が玲央くんに付きまとうから!!」


「ちげぇよ。羽純は僕のダチだ。なんか問題ある?」


「嘘よ!!こんなけがらわしい女が――」


「穢らわしいのはどっちだよ。そうやって弱い者虐めしてるお前の方が、よっぽど穢らわしいよ」


「っ……」


「とにかく、僕の友達にとやかく言うな。あと、こいつはゴミ以下なんかじゃない。誰よりも努力してる、れっきとした1人の女の子だよ」


その瞬間、教室の空気が変わったのを感じた。正確に言えば、僕に対する周りからの印象がガラッと変わったんだと思う。クラス1の嫌われ者と友達だと豪語した、クラス1の人気者。僕が長い年月をかけて築き上げてきた僕という名の城が、崩壊していくような感じがした。不釣り合い同士が仲良くしていることを許さない、そういう世界の闇を肌で感じた。



「ごめんなさい!!」


放課後、羽純からの連絡で呼び出されて、僕はめっちゃ謝られていた。


「ごめんなさい!本当にごめんなさい!」


「ごめんなさいって、うるさいから静かにしてよ」


若干涙目になりながら、彼女は何度も何度も頭を下げていた。土曜日の、綺麗で誰よりも輝いていたあの羽純は、もうどこにも無くなっていた。


「だって、私が映画なんて誘ったばっかりに……」


「ほっとけよあんな奴」


「怒って……ないの……?」


「怒ってないよ」


僕は多分、なんかの拍子で城が崩れることを望んでいたのかもしれない。僕は今、とても清々しい気持ちになっていた。心に重くのしかかっていた荷物が消えて、それまでよりも、自分らしく生きれている気がした。寿命1ヶ月半の僕が、今さら自分らしくを見つけるなんて、どうしようもなく虚しくて、意味の無いことだけど。


「もういいから。大丈夫」


それだけ言って、僕はその場を後にした。



それから2週間が経ち、僕の寿命はいよいよ残り1ヶ月となった。その間、クラスや学年の話題になっていたのは、僕と羽純の関係について。そりゃそうだ。あれだけ大事になったんだから、むしろ知らない方がおかしいくらいだ。教室で、廊下で、校門で。どこにいても周りからの視線を感じた。それは羽純も同じだったらしく、いつからか、彼女は学校を休みがちになった。そんなことしたら、ますます不審に思われるだけなのに。


「あれ〜?君の彼女さん今日も休み〜?」


あの時羽純を問い詰めていた"モブB"が、嫌味ったらしく話しかけてきた。あの日とキャラが違くなっていた。ザ・逆らったらいけない人、みたいな、危ない香りがした。


「休むことくらい普通にあるだろ」


「まぁ来れるわけないか〜」


「あ?どういう意味だよ」


「彼氏のくせに知らなかったの?あいつがどんな目に合ってるか」


「お前まさか――」


「ピンポーン!そのまさかだよ!あっはは!私優しいからさー、身の程を教えてあげたんだよ?」


その瞬間、僕の怒りは頂点に達した。机を力強く叩いて勢いよく立ち上がって、そいつを睨みつけた。


「怒らなーい怒らない。深呼吸し……ゔぅっ…」


僕はクラスメイト達の目の前で、そいつのみぞおちを殴った。女子は悲鳴をあげて、うち1人が慌てて先生を呼びに職員室に走っていった。僕は拳を強く握ったまま、そいつを見下ろした。下から僕を見上げるそいつの顔は、痛みで歪んでいて、思わず笑いそうになった。


「あんま調子乗んな。女だろうが、あいつ馬鹿にしたり虐めたりする奴は、絶対に許さねぇ」


僕はその日、初めて女子を殴った。その日はそのまま早退、というより学校を追い出される感じになった。家に帰ると、たまたま仕事が休みだった母親がいた。早帰りした僕を見て、一瞬驚いたような顔をしていたけど、何か詮索されることはなかった。後に学校から連絡が来て、終業式の3日前ということもあり、両者和解ということで解決した。そして、変な風に噂が広がり、僕は凶暴な不良というイメージを持たれ、それまで仲良くしていた人も、一切寄り付かなくなった。変な噂を正す人が現れることはなく、そのまま夏休みになった。



「なんで殴ったりなんかしたの」


僕の寿命が残り1週間になったある日。ポストの手紙やらを取りに行くために外に出ると、家の前に羽純がいた。僕の嫌いな、着飾ってない羽純だった。


「別に。イラついたから」


「イラついたって、殴るのは違うよ」


「もう時効だろ。ほっとけよ」


僕が"モブB"を殴ってから、既に約2週間が経過していた。今更掘り返されても、あの時感じた衝動を覚えてるわけが無い。というか殴って何が悪いんだ。


「もうすぐ死ぬ人間に、説教するつもり?よっぽど暇なんだな」


「暇だったら何?玲央くんには関係ないでしょ?」


ごもっともすぎて、何も言い返せなかった。なんとなくその場に居づらくなって、僕は何も言わずに家に入った。玄関で扉を背にして、手元の広報雑誌を無意味に眺めた。やがて扉越しの人の気配が消えて外を覗くと、うんざりするような蝉の声と、真っ黒なコンクリートに照りつける太陽の音だけがあった。梅雨明けの発表はもうすぐ側まで迫っているようだった。




それから3日が経ち、僕は身辺整理を始めた。と言っても、物を全部捨てると家族に勘づかれてしまうから、とりあえず見られたくないものを片っ端から捨てた。人気者だった頃に余るほど貰ったラブレターや手紙、ひたすらに愚痴や悪口を書き殴ったノート。そういう僕のプライベートな部分を取っ払って、綺麗な部分だけにした。そうしないと、この世にわだかまりが残って綺麗に死ねない。霊になってまで彷徨い続けるのだけは嫌だった。

家からゴミ捨て場までの200mをゆっくり歩きながら、何度も往復する。ふと見上げると、赤い夕日が空を綺麗に染めて、反対側の空の薄い水色と綺麗なグラデーションを作っていた。7月も終わりに近づき、吹き抜ける風はすっかり夏の匂いがする。遠くの方では、カラスが列を生して山に向かって飛んでいく。それを見た小学生が、それにちなんだ童謡を歌いながら帰っていく。街灯に灯りがついて、薄暗くなった道を照らす。


「綺麗だな…」


僕は思わずそう呟いた。人は死が近づくと、いつもの見慣れた日常の景色でさえも、美しく感じてしまうらしい。なんだか名残惜しかった。


モブA> 玲央、今暇か


五十嵐>なんの用だよ


また掃除当番代わってくれ、なんて言うんじゃないだろうなと一瞬身構えたけど、今は夏休み中だし、夜の11時だ。別な用件だということは、すぐに分かった。


モブA>今から少し話せないか


五十嵐>本当に突然だな、もう夜だぞ


モブA>少しでいいんだ。いつものとこで待ってる


この時間に話さなきゃいけない事ってなんだろう。僕は適当な服、と言ってもそれなりにちゃんとした服装に着替えて静かに家を出た。


駅前には、以前羽純と待ち合わせた街頭時計を中心に、CDショップや本屋、カフェ、ファストフード店とかがずらりと並んでいる。ここだけ都会みたいな雰囲気で、夜でもそれなりの人で賑わっていた。賑わっていると言うより、残業から帰ってきた会社員が、娯楽を求めて集まってきている、という感じ。

その駅前から少し路地に入ったところに、こじんまりとした小さな喫茶店がある。個人業で、店主は優しい雰囲気の年配の男性。店主とはすっかり顔馴染みで、何か用事があったり、勉強したりしたい時、僕らはいつもここに来ていた。何時間いても、そっとしておいてくれる。そんな店主の優しさが、僕は好きだった。

店内を見渡すと、1番奥の隅の席に、見慣れた背中を見つけた。いつもと同じノリで笑顔で近づいて、その背中を驚かす――、はずだった。その背中は妙に悲しいオーラを放っていた。そして、僕は彼が泣いているのを聞いた。心機一転、おふざけも笑顔も一切なしで優しい声で話かける。


「蓮」


青谷蓮あおやれん。それがこのモブAの名前。彼女持ちで、お互いに溺愛してる。その仲の良さを周りからは羨ましがられていた。そして、僕が1番心を許している人間。今まで"モブA"呼ばわりしていたことを、心の中でこっそりと詫びる。


「あぁ、玲央。来てくれてありがとう」


「別に。何があったんだよ」


振り返った蓮の目は赤く腫れていて、僕がここに来る前まで大泣きしていたことを物語っていた。


「彼女が、死んだ」


彼は平気そうな顔をして言った。でもその声は震えていた。衝撃だった。言葉の意味を飲み込むのに、たっぷり10秒かかった。


「嘘だろ……」


「俺のせいだ……」


そう言って、彼は声もなく泣き出した。でも涙は出ていない。もう流す涙も枯れてしまっているようだ。


「ごめん玲央……」


「いいよ。落ち着いてからでいいから」


それから、僕らはしばらく無言だった。静かな店内に、彼の嗚咽が微かに響く。やがて彼の口から、そのいきさつがゆっくりと語られた。


「昨日彼女とデートしてその帰り、いつもと同じように解散して、いつものように寝たんだ」


その時の情景を思い出すように、彼は時折目を瞑りながら言葉を並べていく。今にも崩れ落ちそうな、消えてしまいそうな表情を浮かべながら。僕はただ黙って、言葉の続きを待った。


「今日、朝起きたら、彼女からメッセージが来てて。夜中だった。俺が寝てる時間に何十件も。助けて欲しい、死にたい、辛い、って」


フィクションドラマを聞いている感じがした。目の前で話されていることが、とても現実に起こったこととは思えなかった。彼はさらに言葉を並べていく。


「慌てて返信した。何回も返信した。だけど、既読つかなくて、電話も繋がらなくて」


そこまで話された時、店主が近づいてきて「君たち、こんな時間まで外にいていいのかい?」と聞いてきた。普段ならそんなことしてこないけど、夜中にきて居座る僕たちを見て、少なからず疑問に思ったのだろう。時刻はいつの間にか夜中の1時を回っていた。


「すいません、長居してしまって……」


僕が答えた時、店主はカウンターに戻って何か作業をしていた。その片手間に店主が答える。


「いやいや、君たちが良いなら何時間でもいてくれていいのさ。お連れさんも、もう少し時間が必要みたいだからね」


そう言われて蓮の方を見たが、彼はただ黙って座っているだけだった。もしやと思い、店主に尋ねる。


「あの、話聞こえてましたか……?」


僕がそう聞くと同時にカウンターからでてきて、僕らが座っているテーブルに、2杯のココアを置いてくれた。そして彼は悪戯げに微笑み、人差し指を口の前に立てた。


「安心しておくれ。私は秘密は守る主義だから」


ふと蓮の方を見ると、ただ気まずそうに俯いていた。それを見た店主が言葉を続ける。


「私は奥にいるから、何かあったら呼んでおくれ」


「あの、僕今日お金持ってきてなくて……」


「そんなこと、気しないでおくれ。私の奢りだよ」


店主はニコッと笑って、店の奥へと入っていった。どうやら、店の奥が自宅になっているらしかった。2人きりの店内に、昭和レトロでオシャレなLED電球の暖かいオレンジ色が落ちる。遠くから蝉の声が聞こえてくる。


「彼女の両親から連絡がきたとき、信じられなくてさ、リアルに泣き崩れちゃって、電話越しからの心配の声も、詳しい説明の声も、途切れ途切れでしか入ってこなくて。でも、確かに聞こえたことがひとつだけあって、それが彼女が飛び降りて死んだってことだった」


蓮は淡々と起こったことを話した。一方で余裕そうに見える目の奥では、悲しみと後悔と絶望が入り交じって、複雑な色を作っていた。黙って続きを待つ。


「それを理解した瞬間に頭真っ白になって、周りの目なんて気にせず家を飛び出した。コンクリートが痛くて、それでも無我夢中で病院まで走った。彼女の両親に言われて、靴履いてないことに気づいた。我に帰った瞬間の、コンクリートで切れた傷の痛みと、リノリウムの冷たい感触が今も残ってる。院内の遺体安置所に彼女の姿を見つけた時は、まだ夢なんじゃないかって思った。でも、冷たくなった彼女の手に触れて、現実なんだって分かった」


声が震えないようにするためだったのだろう。怖いくらいに目を見開いて、蓮は語った。


「なんで気づいてやれなかったんだろうな……。あんなに近くにいたのに……」


半ばやけくそ気味に、彼は目の前に置かれたココアをひと口飲む。僕も同じようにそれを口にした。


「そういえばあいつ、ココア好きだったな……」


蓮が思い出したように言った。"あいつ"というのは、亡くなった彼女のことだろう。「いつもは甘ったるいのに、今日はなんかちょうどいいな」と彼は小さな声で言った。彼女を亡くした絶望と悲しみで穴が空いた今の彼を、優しい甘さが包んだのだろう。僕の母親も、辛いことや悲しいことがあると、よくココアを出してくれた。まだ健気だった小学生の頃の話だけど。あの店主も、もしかしたらそういう経験をしたのかもしれない。


「玲央……お前はいなくならないでくれよ」


僕は思わずハッとして、目を見開いた。明らかに変な反応を取ってしまったが、気にしている余裕はない。返事に困っていると、蓮が不思議そうな顔をして見つめてくる。それでも、その変な反応を正すことも、何か言葉を発することもできなかった。なんせ僕は、もうすぐ殺されるんだから。


「玲央までいなくなったら、俺、頼れる人いなくなっちゃうからさ 」


「僕がいなくても、蓮は上手くやっていけるよ」


「なんだよそれ。もうすぐ死ぬ人間みたいじゃん」


「大丈夫だよ。ずっと親友だから」


実際そうだったけど、優しくて悲しい笑みを浮かべた蓮を前にして、実はもうすぐ殺されるんだ、なんて言えるわけがなかった。


それからしばらくして、僕らは店の奥にいる姿の見えない店主に向けて挨拶をして、店を出た。するとすぐに店の灯りが消えて、辺りが暗くなった。月明かりに照らされたコンクリートが、地上の星みたいに輝く。思い出したように時計を確認すると、時刻は午前3時になっていた。賑わっていた駅前もすっかり眠りについて、世界に2人だけ取り残されたような感覚になった。

その日、僕は少しだけ、もうすぐ殺されるということに、恐怖と罪悪感を感じた。


蓮>さっきはありがとな。おかげで落ち着いた


五十嵐>それは良かった。ゆっくり休めよ、おやすみ


蓮>ありがとう、おやすみ


それから夜が明けるまで、僕はずっと眠ることができなかった。僕が殺されるまで、あと2日だ。



カーテンの隙間から朝日が差し込んで、眠っていた街が忙しなく動き出す。スマホの画面を見ると、1件の新着メッセージがあった。僕は仕方なくベッドから出て、適当な服に着替える。リビングに下りると、母親が台所から顔を出して「おはよう。早いね」と声をかけてきた。


「ちょっと出かけてくるから」


「夜遅かったみたいだけど、大丈夫なの?」


どうやら出かけたことを知られていたらしい。でもそんな事で怒るような人じゃないということは、僕が一番よく分かっていたから、特別ビビる必要はない。テレビから、台風が発生したことを知らせるニュースが流れてくる。幸い、日本列島への影響はないらしい。


「大丈夫。じゃあ行ってきます」


外に出るとうんざりするような暑さが襲ってきて、思わず家に戻りたくなった。エアコンの効いた部屋でゴロゴロしながら、ネットサーフィンでもしていたい。後ろ髪を引かれる思いで、僕はあの日と同じ街頭時計へ向かった。



「わざわざ呼び出すなんて、一体なんの用だよ」


「玲央くんを殺すための下準備をしようと思って。なんだかんだで今日入れてあと2日、つまり明日じゃん?」


「下準備って……僕を更に陥れる気なのか?」


呼び出しの相手は羽純だった。直接会って話がしたいと言うから出てきてみれば、何かよからぬ事を企んでいるらしい。隙を狙って回れ右。来た道を戻ろうとして歩き出した瞬間、斜め掛けバッグを後ろから捕まれた。バランスを崩して後ろに倒れそうになった。


「あっぶねぇな、何だよ」


「何だよじゃないし。勝手に帰んないでよ」


やけに赤みを帯びた彼女の目を、僕は思わず凝視した。その正体を探ろうとして、無意識のうちに彼女に近づく。


「え、何?ちょっ、近いんだけど」


「羽純、もしかして泣いてきた?」


「え、なんで?」


「目のとこ赤くなってるから」


「アイシャドウだよ!!!」


羽純がそう叫ぶと、周囲の視線が一斉にこちらに向いた。彼女の一気に顔が赤くなって、とばっちりで強烈な平手打ちが僕の左頬にクリーンヒットする。擦りながら彼女を睨むと、今度は周囲も気にせずに笑いながら手鏡を向けてきた。彼女の笑いに合わせて左右上下に微動するそれを覗くと、平手打ちを食らったところがいい感じに赤くなって、チークみたいになっていた。


「もう片方もやってあげようか?」


「ふざけるな。本当に帰るぞ」


「ごめんごめん。さて、今から本題に参ります」


さっきのおちゃらけた雰囲気が一気に引き締まった。彼女に備わったキャラ変換機能は、その辺の人型ロボットよりも優れているような気がした。実際、そんなことありえないけど。街頭時計の下で、じっと目を合わせる。


「玲央くんは、今でもまだ死にたいと思ってる?」


「それは――」


『お前はいなくならないでくれよ』


いつかの言葉がふと脳裏をぎって、何も言えなくなる。僕は今でも、本当に心から、死にたいんだろうか。いや、あいつに言われたからって、変わる意思ではない……はず。


「死にたい」


「わかった」


あの時を思い出してちょっと動揺しただけだ。また時間が経てば、すぐに死にたくなって、何も思わずに死ねるはずだ。


「じゃあ、行きますか」


「行くってどこに?」


「玲央くんの死に場所」


いよいよだと思った。軽い足取りで歩く羽純の背中を黙って追う。その時の僕の足は重くて、鉛のかせが付いているみたいだった。


乗り込んだ電車は山に向かって進んでいく。やがて人気のない駅に着いて、そこで降りた。時刻表を見るとスカスカで、もう長らく誰も使っていないことを象徴していた。僕らが電車を降りたとき、他の乗客から変な目で見られていたのは、おそらくこのせいだろう。駅舎にある電球も壊れているようで、夜になったら何も見えないんだろうなと思った。


「着いた」


「着いたって……は……?」


目の前には広い水面が広がっている。透明度が高く、水中の様子がよく見えた。太陽が水面に反射して、宝石みたいにキラキラ輝いていた。対岸の木はずっと遠くにあって、目を凝らしてやっと見えるくらい。第一印象は海だったけど、山の中であるということと目を凝らして見えた対岸の木が、これが湖だということを教えてくれた。


「冗談だろ」


「ここまで来て冗談なわけないでしょ」


羽純が何を考えているのか、僕にはさっぱり分からなかった。こんなに綺麗な場所で殺しなんて、いつかバチが当たりそうだ。


「ここで、どうやって殺してくれんの?溺死?」


「それは当日のお楽しみってことで」


そう言うと、彼女はどこかに向かって歩いていった。そのまま待っていようかと思ったが、初めての駅の初めての場所で迷っても困るので、慌てて後を追いかけた。雑木林を抜けると、なにやら開けた場所に出た。見覚えのある人影が見える。


「蓮くん、来てくれてありがとう」


「まさか羽純さんから話しかけられるとはね」


「ちょっと待って、お前なんでいるの?」


目の前にそれなりの荷物を持った蓮がいた。いつから?いつから羽純と蓮は仲が良かったんだ?中学の同級生?有り得るかもしれない。もしかしてそれ以上の関係なのか?疑問が疑問を呼んで頭の中を駆け巡る。


「キャンプに行くから一緒にどうかって誘われたから来たんだけど、玲央もしかして聞いてなかった?」


「キャンプも蓮が来るのも一切聞いてない」


「羽純さん話してなかったの?!」


「言ったら玲央くん絶対来ないでしょ?」


無茶苦茶だ。どうしてこんなことになった。最悪だ。早く帰りたい。僕が絶望の思考を巡らせている中、羽純は蓮の持っている荷物に躊躇なく手を伸ばす。中身を開けると、キャンプ用品が入っていた。


「蓮、お前キャンプなんて興味あったのか?」


「違うよ。これは俺のじゃなくて父さんのやつ。事情説明して借りてきた」


「助かったよ。ありがとう蓮くん」


「いえいえ、この程度なら」


「さてと、じゃあ始めますかー」


僕が口を突っ込む暇もなく、キャンプの準備がはじまった。羽純と蓮の関係について気になるところではあるが、それはまた後で聞こう。蓮に言われるがまま、見よう見まねで準備をする。不器用さを改めて痛感して、なんだか虚しくなった。


しばらくして、"キャンプと言えば"の、一通りの準備が終わった。日が傾いていて、もうすぐ夕飯時になる頃だった。


「キャンプと言えば、BBQだよね!」


「俺焼くの上手いんだよ」


「そうなんだ!凄いね!」


2人の会話を聞きながら、僕は残りの時間の過ごし方について考えていた。いつも通り過ごして最期を迎えるか、それともあの映画の主人公みたいに、どこか遠い懐かしの場所に行くか。そこまで考えて、懐かしの場所なんて無いなと思った。


一通りBBQを楽しんで片付けをしたあと、僕らは初めに行ったあの広い湖に行った。昼間行った時は分からなかったけど、あれはキャンプ場の近くの湖だということが分かった。僕ら以外にキャンプ客はいなかったから、相当な穴場なのか、はたまた誰も来なくなった忘れられたキャンプ場なのか。日もすっかり落ちて、辺りは暗闇に包まれている。当然だけど、街灯はない。スマホのライトで足元を照らしながら歩いた。


「綺麗……」


1番最初にその光景を目にした羽純は、空を見上げながら、ため息を着くように小さく呟いた。それにつられて空を見上げると、綺麗な満月と無数の星がいっぱいに輝いていた。ライトを消してみると、その月明かりと星の光がいっそう美しく見えて、辺りはほんのり明るい。


「凄い……羽純さんよくこんな所知ってたね!」


「昔家族と来たことがあって。と言っても、あのキャンプ場はもう誰も来てないみたい。だからこの湖も、しばらく誰にも見られてないんだって」


「穴場スポットってこと?」


「そういうこと。まぁ、玲央くんを連れてきたのは、もっと深い意味だけどね」


いたずらげに笑う彼女の顔は、月と星明かりに照らされて、とても儚げに、美しく見えた。


「その辺で横になって見ようぜ」


「蓮くんナイスアイディア!」


ということで、僕らは湖のほとりの草むらで、羽純を真ん中に、川の字になって空を眺めた。手を伸ばせば届きそうなくらい、月も星も近くに感じて、思わず手を伸ばす。ゆっくりと手を握ると、そこはただの虚空。現実で月や星に触れることなど出来ないのだ。当たり前だけど。


「こうやって夜空眺めてると、私たちなんてちっぽけな存在だなって思えてくるよ」


「くだらないことで悩んで苦しんで足掻いてるのも、馬鹿馬鹿しくなってくるな」


「蓮、彼女さんのこと――」


「いいんだ、もう。あいつもきっと、どこかでこの空見てるよ」


「星になって、逆に私たちを見てるかも」


「それはそれで、ロマンだな」


羽純が驚かないあたり、蓮は彼女さんのことを羽純にも話していることが見て取れた。今なら、聞いてもいいかもしれない。僕は何食わぬ声で、2人に聞いた。


「あのさ、2人はいつから仲良かったの?」


「蓮くんは中学の同級生だよ」


「高校入ってから絡まなくなったけどな」


「そうなんだ」


それを聞いて、少し安心している自分がいた。なんでかは分からないけど、謎の安心感に満たされた。それ以上、僕らの間に会話はなかった。ただ静かな時間がゆっくりと流れていった。スマホを見ると、時刻は午前3時。8月9日だ。あと少しで僕は死ぬ。正直、僕はもう死にたくなかった。


「ねぇ見て!」


3時9分。羽純が急に起き上がって声をあげた。彼女の視線の先の湖をみると、無数の蛍がゆっくりと飛び回っている。まるで地上の星のようだった。


「世界ってこんなに綺麗なんだな……」


「うん…僕もそう思うよ」


僕らは知らず知らずのうちに、世界の悪いところや、汚いところに目を向けてしまう。目の前には、こんなに美しい世界が広がっているというのに。僕らは世界の良いところや綺麗なところに、気づけないでいる。気づけたとしても、すぐに悪いところで塗り替えてしまう。僕は今まで、世界が悪いものだと思い込んで、自分からそれを探していたのかもしれない。"楽しい"も"嬉しい"も全部、"苦しい"と"辛い"に変えてしまっていたのかもしれない。



気がつくと太陽が昇っていた。いつの間にか眠ってしまったようだ。隣をみると、2人が気持ちよさそうに眠っている。起こすのも悪いと思って、僕は静かにその場を離れた。気持ちのいい風が頬を掠めて流れていく。


荷物を置いたままのキャンプ場に向かう。荷物を漁ると、まだ食材が余っていた。スマホの時計は午前10時を示している。多分、あいつらもお腹が空く頃だと思った。焼きそばの麺があったので、適当に具材を入れて作る。蓮が持ってきたキャンプ用品セットの中には鉄板もあった。意外と軽くて、最近の技術は凄いんだなと思った。


ソースのいい香りが漂って、いざ盛り付けというタイミングで、2人が雑木林の中から顔を出した。


「おはよう2人とも」


「おはよう玲央くん」


「なんか美味しそうな匂い……」


僕は2人に、焼きそばを盛り付けた紙皿と割り箸を渡した。驚いたような顔をする2人を見て、その経緯を説明する。


「玲央くんさすが!ありがとう!」



食事を済ませたあと、蓮は急用があると言って帰って行った。じゃあ僕らも帰ろうかと思ったその時、羽純が僕の腕を引っ張った。


「玲央くん。今日がなんの日だか知ってる?」


「8月9日だけど」


「3時9分、過ぎちゃったね」


僕は、その時間考えていた事を羽純に話した。世界は思っていた以上に綺麗なもので溢れてるってこと。


「僕、羽純には感謝してるんだ。羽純がクラスの女子に言い寄られてた時、僕は本音でぶつかれた。あの時は、"僕のイメージが"って思ったけど、今はこれで良かったと思ってる」


晴れた顔で言う僕を、羽純はそれ以上の晴れた顔で見る。僕は今、とても清々しくて綺麗な気持ちだ。


「最初から殺す気なんてなかったんだな」


「あれ、気づいてた?」


小さく舌を出しながら、彼女は優しく笑ってみせた。彼女が殺したかったのは、僕が抱く、この世界に対しての悪の心だ。


「私が人生楽しそうなのは、世界の綺麗なところに目を向けて生きてるからだよ」


「うん、それもちゃんも理解したよ」


羽純はきっと、恵まれていないわけじゃない。恵まれようとしている女の子だ。本当に恵まれている人は、世界が綺麗で美しいことを知っているんだと思う。


「羽純が僕のためにしてくれたこと、全部全部大切な思い出だよ」


羽純は照れたように笑った。

それから僕は1番伝えたかったことを言った。


「あくあ、僕を殺してくれてありがとう」


「初めて下の名前呼んでくれたね」


「ダメかな」


「そんなわけない!むしろ嬉しい!」


僕はもう、楽しそうな彼女を憎んでない。それ以上に、僕は彼女に素敵な思い出をもらったから。


「僕、もう少し生きてみるよ」


「本当?やったー!約束した通り、殺心できた!」


約束を数字に表すと、8939。

つまり、8月9日3時9分。約束8939殺人殺心ってわけだ。

なかなか粋なことするなと、少し関心した。

見事に僕を殺してみせた彼女の笑顔を、いつか本当に死ぬ日まで、僕は一生忘れない。

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約束の殺人 翠柘。 @suzaku_0805

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