ある音楽会の悪魔

清水出涸らし

ある音楽会の悪魔

 私が中学二年生のとき、冬の音楽鑑賞教室というのがあった。私の中学からさほど遠くないような位置にそれに適した市民ホールがあるので、そこに楽団を呼んで音楽会を開いてもらう。それを毎年の中学二年生が聞きに行くという行事だった。

 三年の兄が言うには、「大して価値を感じない退屈な時間」とのことだから、私としてもあまり期待をしないでいた。なにより、この年頃の男子はそういうことに期待をしているのが恥ずかしいような気でいるから、より一層に興味をなくした感じで私はバスに揺られていた。

 あるいは、せいぜい片道数キロの道を送迎するバスのほうにこそ一抹の期待をよせていた気がする。想い人という訳でもなかったが、隣に座る女子は物静かで顔が整っていた。クラスでの相関図で言えば私と対極におわすような関わりの無さから、どうせ恥をかくだけだと思い、別段話かける気も起きなかったが、窓の外を眺めるふりをして横顔をチラチラと拝むせこい真似を繰り返した。今思えばバレていて然るべきやり口だったけれど、彼女はずっと、特に新鮮味もないだろう車窓からの景色を眺めていた。


 ホールの広々とした寒さに私は早くも感動を覚えていた。学年主任の教師が首尾よく座らない生徒たちに向かって怒号を飛ばすと、馬鹿のように響いた。あまりに馬鹿みたいに響いて教師が少し恥ずかしそうにしたのでみな笑った。笑い声の響きにすら感動を見出すことができた私は、もうすっかりその空間に取り込まれていた。バスの彼女とはまた席が隣だった。私は心の芯のあたりがしんと冷えていくのを感じた。

 少し高級感のある椅子と暖色の間接照明が映画館を思わせた。「映画館みたいだね」というのを誰かが言ったので、心のなかで「当たり前だろ」と意見を変えた。

 暗くなって、幕が開く。ざわめきが遠ざかって、後ろの大きな扉から出ていった。静寂が支配する空間を一瞬の寒気が走る。演奏が始まった。

 私は、会場が一回りずつ大きくなるのを確かに感じ取っていた。ぐんぐんと広くなっていく後方の闇の深さに、一種の恐怖さえ感じた。その恐怖をも吸い取って成長する私の感動はとどまることを知らない。ほとんど宙に浮いたような万能感で、視力と聴力とが底上げされたような感じがした。

 いくらか生徒に配慮したのか、聞きなじみのある曲ばかりが演奏された。それでも名前のわからないのを、少し恥ずかしく思った。なんだか最初に宣言していた気もするのだけど、わからない。名前のわかる楽器がピアノとバイオリンしかなかったので、どれからどの音が流れているのかがわからなかった。なんとなくこの音はこれと割り当てていくと、音の数がいくつか余ったりした。

 なにもかもわからなくて、それでもたぶんわからないのが楽しかった。時折知ったような顔で目をつぶったりした。薄目をあけて彼女の横顔を見た。舞台上の橙色に照らされて尚、暗い色に澄む瞳が前を見つめていた。彼女だったらわかるのだろうか、と思っていた。でもどうせわかっていなかったに違いない。あの場に居たみんなが、私と似たような感じだったのだと今では思う。


 プログラムが五番だかを過ぎた頃、急に、緊急性を帯びた欲求が私に生じた。どうしてそんなことを考えるのかが不明なまま、そんなことを考えた。欲求は抑えつけるほどに暴れて外に出ようとした。喉のあたりに溜まってもどかしい。意識するほどに、今度は足がもどかしく、ばれないように組み直す。

 私は無性に大声をあげたくなった。どこまでも広い会場に張り詰める緊張が心をおかしくしたのか、原因は未だわからない。どんな奇声でもいい、出来るだけ意味を伴わず、ただその場を破壊するためだけの大声で喚き散らして、なにもかもを台無しにしたくなった。そんな声が出したくて、聞きたかった。音に溢れたその空間で、その音だけが私を満足させるものだった。

 いまやどれだけ後方にあるのかわからない、(恐らくは永遠に近い距離のある、)その扉の外で待つ喧騒を呼び戻したい衝動。これは全くもって抑えられる気がしなかった。別に私が普段からそういう子供だったのではない。むしろ静寂に我慢強い子供だった。なにか魔力がそうさせたのだと思っている。ともかく、私はそれに襲われていた。

 何を思ってか、縋るように彼女の横顔を見た。依然として整った顔で前を向いている。楽しんでいるのかそうでないのかが一目でわからない表情。なんと彼女は、私が意味不明な欲求に苛まれていることなど露ほども知らないのだ。隣に悪魔の座るのを、全く意に介さないのだ。それが腹立たしい気がして、私はなお欲求を強めた。彼女の顔が嫌悪で歪むのが見たくなった。もうそれはほとんど憑かれたような異常だった。どうしたらいいのかがわからなくなって、私の顔は泣きそうになった。

 もういっそ大声で叫んでしまえば楽だろうと振り切った気持ちになるたび、その後の学校生活のことが想起されて、私の心は一時の落ち着きを取り戻す。しかしこんな誤魔化しは長くはもたないだろうと思った。ホールはまだまだ広がりを増していく。私の中には、今叫ぶべきか、曲が終わった後に叫ぶべきかという訳のわからない二択があった。


いいや、今叫んでしまおう。


 その刹那、左前方、ステージの下あたりで何かが動いたのを見た。目を凝らすと、隣の組の男子生徒が、身をかがめて申し訳なさそうに歩いていた。こそ泥のようなその様子に、私はすぐピンときた。天啓! 暗雲を突き刺す神光のようになって、彼の姿は私を焼いた。私はそれにならってすぐに学年主任のもとへすり寄り、「お手洗いに行きたいのですが」とひとこと言った。


 存外、その非常口は私のすぐそばにあった。それを目にして尚、間違いなく広がっていたと思えるそれを外側から見た。自分の家を外から見た時と同じような不思議が内に湧いた。そしてその不思議のそばに、まだ悪魔が棲むのを私は見た。

 私はてっきり、会場の外へ出てさえしまえば欲求は消え去ると思っていた。安直だった。むしろ焦燥感は増し、それこそ手洗い場に辿り着くか着かぬかの時のひっ迫した欲求のようになって喉を衝いた。個室に飛び込んだ私は観念した。嘔吐のように小気味よく喉を滑り出る奇声に身を任せる。アともオともつかない、不快な音が響く。

 隣の個室であからさまに驚く声がして、申し訳なくなる。私を救ってくれた彼だろう。いや、本当、申し訳ないことをした。もしかすると彼も同じ欲求をもっての行動だったのではないか、なんて思いもしていたが……。安堵と後悔と満足が混じり合った溜息をつくと、心の窮屈な感じが消え去った。いや、消え去るのを感じたことで、「私は心を窮屈に感じていた」と気が付いた。つい先ほどまで悪魔と同居していたのだ、という感じがした。


 帰りのバスでも相変わらずに彼女の横顔をちらちらと見た。行きよりもいくらか騒がしい車内においても、彼女の興味は車窓にある。少しだけ感動をたたえたようなその顔に、心中で「さっきまで隣に悪魔が居たのだ」と語りかけた。なぜかこちらを向いた瞳に、すべてがわからなくなったのをよく覚えている。

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ある音楽会の悪魔 清水出涸らし @Degarashimizu04

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