ジャムを煮る人、苺を摘む人

ふじこ

ジャムを煮る人、苺を摘む人

 苺を買ったことがない。苺は買うんじゃなくって、家を出てすぐの畑や、少し歩いたハウスに入って、葉っぱの合間に赤く実っている小さな果実を摘んで、食べるものだった。売り物になる実は食べてはいけない。小さすぎるもの、熟れすぎて腐り落ちそうなものだけ食べる。だから、摘んですぐに食べる苺は、酸っぱすぎたり甘すぎたり、素直に美味しいとは言いづらかった。

 ジャムの方が好きだった。摘んで食べるのと同じ、売り物にはしづらい果実が選り分けられると、家で食べるためのジャムが作られる。ジャムを作るのは決まって兄だった。一つ年上の兄。兄さんとかお兄ちゃんとか兄貴とか、そういう呼び方をしたことがない。蜜、と名前で呼んでばかりいる。

 蜜は頭がいい。人づきあいが嫌いだ。体を動かすのも嫌いだけど運動神経は悪くない。容姿も多分悪くないから、中学校の頃、告白するのを手伝ってほしいと同級生に頼まれたことが何度もあった。仲が良い子なら引き受けたり、そうでもない子なら断ったりしていた。蜜が告白されて、女の子と付き合ったところを見たことはない。高校は別々になったから分からないけど、高校でも、大学でも、そんな相手はいなかったのじゃないかと思う。蜜は、人づきあいが嫌いだ。私と逆。私は頭はそんなによくない。人づきあいは好き。運動は得意じゃないけど体を動かすのは好き。容姿のことは分からないけど、ときどき、似ているきょうだいだと言われるから、きっと悪くないんだと思う。確かに、二重の大きな目と、大きめの口は似ているかもしれない。

 ときどき、よく、実が男の子だったら良かったのにね、と親戚に言われた。母方からも父方からも。実が男の子だったら、後を継いでもらえたのにね、と残念そうに言う親戚に、両親がどんな顔をしていたのか。思い出せないけど、きっと、うれしそうではなかったのだろう。だから私は、農業高校に行って、卒業してすぐに苺農家を手伝いだした。そうしたら、それまでよりももっと、苺をつまみ食いしやすくなってしまった。ジャムにする苺を選り分けるのも早くなった。

 蜜との連絡に使っているのは未だにメールで、新規メールの宛先に蜜のメールアドレスの一文字目を打ち込むと、すぐに、候補として蜜のメールアドレスが表示される。表示されたメールアドレスをクリックして、題名に苺の絵文字を入力する。本文には「今年、初収穫」とだけ。送信して、五分も経たないうちに返信があった。「明日帰る」と書いてあった。来るのが早いなと思ってカレンダーを見たら、今日は土曜日だった。

 蜜が住んで、働いているのは、公共交通機関なら二時間ぐらい掛かるところ。最寄り駅まで車で行って、新幹線の駅まで出て、新幹線で三駅か五駅。遠すぎるほどではないが、近くもない。蜜は、私や両親が連絡したときにしか帰ってこない。高校進学のときに実家を出てから、御盆にも正月にも、自分から帰ってこようとはしなかった。人づきあいが嫌いというのは、家族にも当てはまる。でも、決して人を嫌っているというわけではない、その塩梅が外から見ると分かりにくい。蜜を迎えに最寄り駅まで行ったら、ちょうど、蜜が改札を出てきたところで、おみやげらしい紙袋を下げている。前に蜜が買って帰ってきて、母が「美味しい」と言ってから、蜜は毎回同じおみやげを買ってくる。チルドの豚まん、八つ入り。

 蜜は、何も言わずに助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。金具が留まるカチャリという音を合図にして車を発進させると、蜜が「結婚おめでとう」と言った。わたしは、ハンドルを握りながら、目を瞬かせる。まさか、真っ先にそのことを言われると思わなかった。

「ありがとう。クニちゃんから聞いた?」

「ああ。退職するって言うから退職祝いに飲みに行ったときに。結婚式は秋頃?」

「まだ落ち着いてる時期だろうから。来てくれるの?」

「当たり前だろ」

 きょうだいなんだから、と続けて、蜜は笑った。

 私が結婚することになっているクニちゃん、邦彦は、蜜の同級生で、友人で、多分親友と呼んで差し支えない仲だ。小学校と中学校が同じで、中学校から、蜜とクニちゃんだけが同じ高校に行った。実家からはぎりぎり通えないぐらいのところにある、男子校だった。大学は別々になったと聞いたけど、交流は続いているはずだった。お見合いで会ったクニちゃんとは、兄の話ばかりしたような気がする。

 じゃあなんでクニちゃんと結婚する気になったのかって、まずは、クニちゃんの方がこの結婚を希望したからだ。クニちゃんは、蜜と同じ辺りに住んで、都会の会社で仕事をしているけど、それが性に合わないらしい。それで、苺農家を手伝いたいんだと。あれは、本気だったと思う。会社の仕事が合わないのも、苺農家を手伝いたいのも、どっちもが。そういうクニちゃんの様子を見てから、私の方も、クニちゃんと結婚する気になった。もともと知っている人だから、人となりに心配はなかった。裏を返せば、一目惚れとか運命的な恋に落ちるとか、ドラマティックでダイナミックな心の動きもなかったけど、この人となら家業も家庭もやっていけるだろうという信頼は置けると思った。見合いの後、時々デートをして、時々家に来てもらって苺農家の仕事を手伝ってもらって、クニちゃんの退職とか引っ越しの話をして、今に至る。蜜に話したなんて一度も聞かなかったけれど、話さない方が不思議だろう。それに、両親からも蜜に話していたかもしれない。私だけが、そのことをすっかり忘れていた。

 大きなボウルに苺を入れて、水を注いで手でざっくりと洗って、水を切る。ペティナイフでへたを落として、ホーローの大鍋に苺を入れていく。大きな苺は、へたを取ってから半分に切って、大鍋に入れる。蜜は、慣れた手つきでジャムを煮る準備を進めていく。鍋の脇に、ボウルに山盛りの三温糖。シンクにわたした水切りかごには、耐熱ガラスの瓶が二つと、瓶より大きめのキャニスター。とりあえず蜜が持って帰る分だけ瓶詰めするんだと。ホーローの鍋に、熟れすぎた赤色が、腐りかけた赤色が、熟すことのなかった緑色が、ぐずぐずと積み重なっていく。それを見ながら、どうして蜜にクニちゃんとのことを話さなかったのか考える。

 私は、男の子だったらいいのにと何度も言われたけど、蜜が逆のことを言われているのは聞いたことがなかった。蜜が女の子だったら、どうだったろう。やっぱりクニちゃんと結婚して、苺農家を継いでいたんじゃないだろうか。蜜は人づきあいは嫌いだけど、人が嫌いなわけじゃないし、クニちゃんとの付き合いは端から見ても長く続いていたから。クニちゃんもきっと蜜を好きだから、二人は上手くいっただろう。胸の辺りがちくりとして、ひやりとした。楽しくない想像だった、蜜が女の子になるなんて有り得ないのに。蜜は、ボウルの砂糖を鍋に振り入れて、苺と砂糖を手で混ぜ合わせている。白くて骨張って大きな男の人の手だ。来週、指輪を買いに、クニちゃんが今住んでいる家を訪ねる予定だ。そのとき、蜜にも会いに行こうかなんて、思いつく。

 火は弱火。焦げ付かないように時々混ぜるだけで、基本は放っておくだけ。蜜は、ダイニングセットの椅子を一つコンロの前まで引きずっていって、腰掛ける。片手に小さなお玉、コンロの脇には水を張ったボウル。さっきまで砂糖が山盛りになっていたボウル。灰汁をすくってボウルに避けるのだ。

 立ち上がったのと、紅茶を入れないとと考えるのと、どっちが早かったか。同時だったかもしれない。ティーポットとマグカップを食器棚から出す。いつのまにか、もしかしたらジャムを煮始めるのと同時だったのかも、コンロでは薬缶も火に掛けられていて、薬缶の口からは白い湯気が出ている。火を止めないまま薬缶を持ち上げて、マグカップの半分までお湯を注いでコンロに薬缶を戻す。百パック入りのティーバッグを二つ出して、個包装から出したティーバッグを、ティーポットに入れる。今度は火を止めた薬缶からティーポットにお湯を注いで、蓋を閉める。蒸らす時間は長くなくていい。マグカップのお湯を、シンクの中の大きなボウルに捨てる。マグカップは充分に温まっている。ティーポットから、二つのマグカップに均等に紅茶を注いでいく。嗅ぎ慣れた紅茶のにおい。すかさず、小さなお玉からマグカップに、苺ジャムのあくが注がれる。二つのマグカップに均等に、あわいピンク色のあくが注がれる。

 私と蜜しか知らない、苺ジャムを作るときにしか飲めない、ひみつのロシアンティー。

「結婚式の衣装、決めたら教えてくれ」

「どーして」

「兄として、お前に一つぐらい餞別を贈らせてくれ」

「別にいいのに」

 兄が、くすんだピンクのマグカップを手に取る。私は、くすんだミントグリーンのマグカップを手に取って、ふうふうと息を吹きかけてから、ロシアンティーを飲んだ。ほんのり甘い。苺ジャムの甘いにおい。わずかな渋みがアクセントになって丁度いい。蜜も同じように思っているんだろうか。マグカップから口を離すと、ちょっとだけ笑って、鍋にお玉を入れて、すくったあくを追加で自分のマグカップに注ぐ。「私のにも」と強請ると、仕方ないなあと言いたげに、私のマグカップにも。

 もうこのロシアンティーは飲めないんだろうな。

 何の理由もないのに急にそんなことが思い浮かんだ。蜜は私のことも嫌いじゃないはずなのに、私はクニちゃんと結婚するんだから、実家が嫌になるはずだってないのに、急に思い浮かんだことを、そんなはずないと打ち消すことが、何故だかできなくて。急に、マグカップのロシアンティーがとても貴重なものなような気がして、一気に飲むのが躊躇われて、マグカップを調理台に置く。コンロの上のホーロー鍋の中を見る。

 深い深い、熟れて真っ赤でぐずぐずにとろけた苺の赤色。

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