涙雨

夢咲彩凪

第1話

 天が、さめざめと泣いている。


 涙の雫はまるで祈りを捧げるように優しく雨音を奏で、地に降り注ぐ。



 拝啓。

 もう二度と会えない、初恋の人へ。


 大好きでした。



 かつての逢瀬の時に思い馳せ、目を瞑る──。



 ***



 コンコン、ココン。

 

 鮮やかな白色をした扉を、軽快なリズムにのせて叩く。3回目のは短く、というのが俺たちのルールだ。

 

 チリン。


 かすかに聴こえた鈴の音。彼女からの入っていいよ、という合図。その余韻が消えるより先に202号室に滑り込む。

 

「おひさしぶりですね、椛田もみじだくん。全然会えなかったから、寂しくて泣いちゃいましたよ」


「はい、こんにちは、雨音あまねさん。今俺はお昼を食べに行ってきただけなので、正確には二時間ぶりですね。泣かないでください」


「ほほう、返事にセンスがある。椛田くん、やっぱり君は面白い! 採用!」


「ありがとうございます、社長」


 彼女はいつもこんな調子で冗談ばかり言っては、ころころとよく笑う。


 可憐な容姿と明るい性格。きっと学校に行けば、人気者だっただろう彼女は真っ白いベッドから上体だけを起こしている。



 一年ほど前、高校一年生のときだった。雨音と出会ったのは。

 

 彼女は人気のない廊下に立ちつくしていた。抗がん剤治療によって抜けてしまった長い髪の束を固く握りしめたまま。


 あの酷く残酷で、真っ白でいて透明な、衝撃的映像はどうしても忘れられない。


 あの瞬間、しかし俺は不覚にも恋に落ちてしまった。


 大丈夫ですか、と声をかけた俺を彼女が見上げる。


『もう、疲れた……』


 そう零し、力なく俺にもたれかかってきた雨音をたどたどしく抱きとめた。そうするしかなかった。



 それから俺たちは、いつからか病院だけで会う形容しがたい関係を築いていった。


 彼女を苦しめているのは『白血病』。病と闘う雨音を見ながら、少しでも彼女を楽しませることだけを考えた。


『あと何回かの治療で退院できる』


 寛解を経て、治療を続けていた雨音。ようやく訪れた知らせにとても喜んでいた彼女に、この病の再発がわかったのはつい最近のことだ。


 雨音は前にも増してよく笑う。笑うことで何もかも忘れようとしているみたいに。


 その笑顔を見るたび、俺はどうしようもない悲しみと無力感に襲われるのだ。



「寂しかったのはほんとなんだからね。今日は二週間ぶりだよ?」

「弟が病院に来るとき以外はあんま来れないんだって言っただろ。遠いから車じゃないときついんだって」

「じゃあもうここに住んじゃいなよ。そしたら絶対楽しい」

「住んじゃうか?」

「住んじゃお」


 ほらおうちだよ、と白い毛布を頭からかぶる雨音。俺もその隣にお邪魔する。


 ふたりで顔を見合わせて、笑う。


「弟さん心臓の病気だっけ? 具合は大丈夫なの?」

「ああ、最近は少し安定してる。いつ悪化するかわからないから、不安ではあるけど」

「お互いがんばろうね、って伝えて」

「サンキュ、伝えとく」


 雨音は俺の手に自分の指を絡め、ぱたぱたと落ち着きなく指を遊ばせた。それからぎゅっと握りしめる。


「……今日椛田くんが来てくれてよかった」

「どうしたんだよ急に」

「雨の日ばっかりで気分が落ち込んでたから」


 雨音がそっと視線を窓の方に向ける。梅雨らしい雨がシトシトと降り続いていた。


「雨、嫌い? 『雨音』なのに」

「うん。なんか暗い気持ちになるし、湿気でベタベタするから気持ち悪いし」

「俺は雨好きだけどな」


 ポケットからスマホを取り出す。動画アプリのお気に入りリストからひとつを選び、俺は「聴いて。好きな曲なんだ」と再生ボタンを押した。


 澄んだ音色がゆったりとしたメロディーに乗せて、響く。


「ショパン作曲プレリュード第15番『雨だれ』」


 雨音が呟く。俺は驚いて、一時停止ボタンを押した。


「知ってたんだ」

「ずっとピアノやってたから」

「へえ、ちょっと意外だった。ピアノって上品な女子がやってるイメージ」

「だーれがうるさくてガサツな女子だって?」


 雨音が俺のほっぺたを強く掴んで引っ張る。そこまでは言ってないだろ。


 もう一度曲の続きを再生すると、雨音は「ほんとに雨の音みたいだよね」と言って、目を閉じていた。


 ただ美しく、神秘的に、時間の中を音楽が流れていく。


「……そういえばショパンも私と同じように、病気で苦しんでたんだよね。なんかこの曲弾きたくなってきちゃった」

「俺も聴きたい」

「いいよ。下手でも上手って言わないと殴るからね」

「おー怖い怖い。暴力反対」


 ばーか、と舌を出した雨音の別に痛くもなんともないデコピンが俺に炸裂する。理不尽にもほどがあります雨音さん。


 雨音は少し話し続けて疲れたのか再びベッドに横になる。


 つかの間の沈黙。


 そして、唐突に言った。


「あのさ、もう来ないで」

「……は?」


 まるで世間話をするかのように、自然に、そう告げられた。


 思考が追いつかず、マヌケ面を晒す俺のことなどお構いなく、雨音は話を続ける。


「骨髄移植をするの。ドナーさんが見つかったからもうすぐ無菌室に入る。成功すればまた普通に生活できるようになるけど……死ぬ可能性はあるって」


 視界が霞む。口の中が渇く。


 ……は、と乾いた音がこぼれた。


 彼女の言葉を何度も反芻し、その度に底なし沼に引きずり込まれていく。


 雨音が「ちょっと怖いなぁ」と笑った。


「……バカかよ」

「あー! バカって言っちゃいけないんだよ」

「お前が言うな」


 いつも俺のことバカバカ言うくせに。ほんと、バカ。


「泣けよ」


 ──泣け。笑うな。強がんなよ。


 本当は怖くて辛くてたまらないくせに。


 ノックをしても鈴の鳴らない日、押し殺した泣き声と呻き声を俺が聞いてないとでも思ってたのか。


 はっと目を見開いた雨音の頬を一筋の光が伝う。


「……あっれー、なんか泣きたいかも」

「泣けばいいだろ」


 親指で彼女の頬を流れる涙を拭って。

 泣きたい自分の心に蓋をして。


 俺は……微笑む。精いっぱいの笑顔で。


 今辛いのは俺じゃない。


「わかった。俺もう来ないから。約束しよう。──生きて」


 生きて、これからもずっと生きていて。お前らしく笑ってて。


「ん」


 小指と小指がたしかな約束を結ぶ。


「私が退院したら、また会いに来て」

「行けたらな」

「絶対だよ」


 ぽん、と雨音の頭に手を乗せる。


 雨音がだいすき、と呟いてやっぱり泣いた。とめどなく流れていく涙を、とても綺麗だと思った。





 少し懐かしい病院特有の匂い。それが無性に感慨深く感じる。


 病院。奇跡が起きる場所。


 数々の奇跡の積み重ねによって自分が今ここにいることは、言うまでもなかった。


 慌ただしく行き交う看護師たちを漫然と眺めていると、ふとひとりの女性が「あら」と驚いたように足を止める。


 かつてとてもお世話になり、一番信頼していた看護師さん。「少し話せる?」と問われ、頷く。


「渡したいものがあるの。取ってくるから待ってて」


 それから彼女に渡されたのは一枚のメモ書きだった。雑に折り畳まれた紙を開くと、震えた文字でただ二言が書かれていた。


『まだ会えなそう。ごめん』


 その言葉を見た瞬間に誰だかわかってしまう。会いたいという気持ちが、どうしようもなく恋する心が、焦燥を連れてくる。


「亡くなる少し前に、これを渡してほしいって言われたの。あと……もしもの事があったら、あなたに全てを教えてあげてって」

「……もしもの事?」


 どういうことかと尋ねるより前に手が震えるのを感じた。


 待って、聞きたくない。


 酷く、嫌な予感がした。そう、が白血病を宣告された時と同じような感覚。


がずっと心臓の病気と闘ってたのは雨音ちゃんも知ってるでしょう? それが急に悪化して──」


「椛田くんの、お兄さんは……?」


 散乱した言葉たちを集めて、ようやく言葉を紡ぎ出す。看護師さんからすれば、脈絡のない質問だっただろう。


「え? ゆうくんに兄弟なんて──」


 いない、と言いかけて看護師さんは言葉を止める。困惑と動揺が手に取るようにわかった。


 ──弟は、生まれつき心臓の病気があって、心不全の症状がどんどん悪くなってる。


 彼はそう語っていた。


 ……何が弟だ。バカ。


 全部自分のことだったんだね。


 思い返せば今まで、彼の行動を不審に思うことは確かにあった。ただ自分のことに必死すぎて忘れていただけ。


 気づけば診察待ちにも関わらず、病院から駆け出していた。手にはぐちゃぐちゃになったメモ用紙を握りしめて。


「バカ」


 私に心配かけさせたくなかったから嘘ついたんでしょ? わかるよそのくらい。


「バカ」


 何が『泣けよ』だよ。自分は辛い顔なんて見せてくれなかったくせに。


「……バカ」


 ……私、約束守ったよ。たくさんの奇跡のおかげで今ここに生きてる。なのに死んだ? 意味わかんない。早く会いに来てよ。


 私の慟哭と願いは、虚しく宙に消える。もうすぐそこに彼のいない秋が迫っていた。



***



 やはり窓の外ではまだ雨が降り続いている。


 治療が終わってから初めての梅雨がやってきた。あの怒涛のごとく過ぎていった日々がまだ昨日の事のように感じる。


 でも今日で一年。私の初恋の人と別れたあの日からもう一年が経ってしまった。


 まだあの日交わした約束の余韻が、小指の温もりが、残っている気さえするのに。


 私は立ち上がり、自分が寄りかかっていた窓を全開にした。


 小さな雨のつぶが私の頬を冷たく刺激する。雨の匂いに包み込まれる。


 そして窓辺から離れ、古いグランドピアノの蓋を開けた。


 白と黒の鍵盤に誘われるがままに指を乗せ──。


 〝雨音〟を奏でる。


 雨だれ。彼が好きだといった、この曲を。



 ──椛田くん。


 私は今通信制高校に通いながら看護大学を目指して勉強しています。


 私や椛田くんみたいに苦しんでる人を救う、とか立派なことは言えないけど。


 少しでも患者さんを支えたい。その心に寄り添っていきたい。


 そういう看護師さんになりたいです。



 まだまだ伝えたいことが多すぎるから、この言葉だけを伝えます。


 ありがとう。




 響け、空の彼方まで。


 どうか、このメロディーにのせて、私の想いを届けて。


 








 ──今もまだ捨てきれない恋心を抱いて。私はそれでも前に進んでいく。


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涙雨 夢咲彩凪 @sa_yumesaki

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