第21話  最初からそこに座らせてくれや。

【7日目、キャンディ。悪名高いレッドバスから振り落とされる。】

            

 日の出とともに目が覚めた。多くの鶏が早朝から発声練習に精を出している。ええ声や。田園風景に鮮やかな色を付けるように上っていく朝日を見ながら、屋上に干していた洗濯物を取り込んだ。

 7時にチェックアウト。お世話になったエバーグリーンホテル。4泊5日の代金は夕飯付きで9,875ルピー。約7,123円。1泊当たり約1,780円、安いなぁ。

 ご主人がトゥクトゥクでキャンディ行きのバスが止まる、ダンブッラバスターミナルまで送ってくれた。キャンディ行きのバス停だと言う前で降ろしてくれたが、スタンドも何の目印もない。でもバスは来るんだな。

 あれがキャンディ行きのバスだと指をさしてくれたのが、ポンコツバスの王様、レッドバスだった。噂通り窓だけでなく、ドアも無く、骨組みと椅子だけ。当然行先表示もない。配車寸前の風貌でかろうじて走っている感が半端なかった。

 時刻表のない国である。次、キャンディ行きのバスが何時に来るか分からない。決意を固めてバスに乗り込んだ。

 ホームレスのような薄汚いシャツを着た車掌と思しき若い男が、後部ドア付近の通路側の席に座れと手招きする。本当は前方に行きたかったが、すでにバスはほぼ満席で、車掌が指さした席しか空いていない様子だった。荷物棚も先客の荷物で埋まっている。仕方なく足元にスーツケースを置き、着席した。

 悲鳴に近いような奇声を発しながらバスが走り出した。その様子にびっくりした私は、バスが走り出すまで待っていてくれた宿のご主人の存在をすっかり忘れていた。  

 改めて『ありがとう』を伝えなかったことを随分後になってから気づき、痛く後悔した。

 通勤路線でもあるのか、途中からでも結構な人数が乗ってくる。そして飛び降りていく。窓側の席に座っていたのは修道服を纏った細いお婆さんだった。

「日本人ですか?」

と柔らかい口調で声をかけて来てくれ、これからキャンディに行って、その後はヌワナエリア、アダムスピークと向かうんだと話していたら

「女性一人で何とたくましい!」

と目を細めてきた。いろいろ言葉を交わしているうちに、ポンコツバスに乗っているという緊張感も薄れてしまっていたのだろう。

 乗車して1時間ほど経過していた時だっただろうか。この国の運転手はカーブを曲がるときもスピードを緩めない。そもそも自動車学校なんてものも、この地方田舎には存在しないのだから、正式に習った人なんていないだろう。みんな親、兄弟、友人から簡単に指導を受けた程度。交通ルールもでたらめだし、まずあったとしても守る気もなさそうだ。


お婆さんの目的地を聞こうとした瞬間だった。


 体が浮くという体験はジェットコースターで経験済みだが、それ以上の浮力を体感したとき、私は既に外にいた。

 どうも左に大きくハンドルを切った時、全力疾走しているバスから、ほんの一瞬で足元のスーツケースと一緒に、外に投げ出されてしまったらしい。

 瞬く間に舗装されていない道路に叩きつけられた私。口の中に砂利が入り、鈍い痛みと違和感を覚えた。

 上下ジャージを着用していたせいか、幸いなことに大きな怪我はない。腕に擦り傷ができている程度で出血もほぼない状態。

運がいい。

 立ち上がろうとした時、前方から何人もの男性が、駆け寄ってくるのが見えた。その後ろにはレッドバスも止まっている。

「大丈夫か?」

「スーツケースはこっちか。」

「怪我はないか。」

 かすり傷状態の腕を見せて、OKと言うと駆け寄ってきてくれた人たちから笑みがこぼれた。彼らのうちの1人が私のスーツケースを持ってくれ、別の男性が水を渡してきた。ジェスチャーで、うがいをしろ!と言っている。口の中が砂だらけだ。ありがたくペットボトルを受け取る。彼らはレッドバスまで誘導してくれ、運転手後ろの座席に座れと指示してきた。

 運転手後方座席は、お坊さんしか座れない座席である。座席の真上には黄色のプレートが貼ってあり、お坊さん優先席と書かれている。

 私はバラモンじゃないから、と遠慮したのだが

「ジャパニーズガール、バラモンシート、シットダウン」

と学生風の男性が私の肩を押さえ、強引に座らせた。スーツケースは運転手の座席の後ろに挟んで置いてくれた。私が戸惑っていると、

「あなたは日本人だ。だから大丈夫なんだ。」

とにっこりとほほ笑んできた。

 車内が落ち着いたのを察知し、バスは再び走り始めた。

 脇に立った学生風の男性は、日本には感謝しているんだ、と語ってきた。

日本は高速道路も作ってくれたし、空港も作ってくれた。スリランカを今に近づける手助けを本当に多くしてくれたんだ。だから我々国民は、日本には感謝しているんだ。もちろん小学校では日本がしてくれたことを学ぶ授業もあるんだよ。あともう少しで君の目的地である、キャンディに到着する。少しの時間をこの席に座っていたからといって、日本人である君に対して怒るスリランカ人はいないよ、だから安心しなさいと。

 なぜ私が日本人だと分かったのだろう。あぁ、あの修道服を着たお婆さんか。私が振り落とされたとき、あの人は日本人なんだ、車内で言ったのか。

「こちらこそ、ありがとう。」

そう言ってひたすら頭を下げる私に対して、後ろに座っている恰幅のいい男性が笑いながらアドバイスをしてきた。レッドバスに乗車する際、通路側の席は旅行者には無理だと。要はうまく座るコツがあると言う。曲がるたびに体重移動が必要なんだ、と男性がおどけながらジェスチャーを交えてレクチャーをすると、車内は暖かい笑いに包まれた。

 バラモンシートとはいえ、椅子はボロボロだし、振動も激しい。投げ出されたときに打った腰に来る。

 今夜はバンテリンを入念に塗らねばならないな、と思っていたら、

「キャンディ!」

と言う声が車掌からかかった。

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