第2話

 死刑を望み通りに執行されて死んだ弟。

 弟はもちろん、僕も納得したはずだった。


 なのに、僕は弟のことを思い出しては、どうしようもない苦しみを感じる。

 何もして欲しくない、という弟の意志を汲んだはずなのに、何かできたのではないか、と思ってしまう。



 仕事に行って帰るだけで精一杯で、何も手につかない。

 最初は励ましてくれた恋人だったが、僕も負担を感じるし、恋人も負担を感じる。

 恋人が別れを考えているのを察して、僕は自分から別れを切り出した。

 関係を修復しようとする気力もなかったが、相手から別れを切り出されるのも辛いという打算。大学時代から10年近く付き合ってきた恋人だったのに、僕は相手のことを考えていなかった。



 家庭も荒れ果てていた。母親も僕も家のことなんてする気になれなかったし、会話もしたくなかった。


 母親は自分の子供を失った痛みに苦しみ、救いを求めた。

 死刑希望制度が出来てから、真白のように将来を悲観して死刑を希望する若者が多くいたから、母親のように子供を失った親も多かった。そういう母親たちは繋がりを求め、集会に出たり、ネットで情報交換をしたりしていた。


 弟がなかなか最初の言葉を喋らなかったり、幼稚園で周りについていけなかったりして、他の子と違うことが分かり、母親は色々な所に助けを求めに行った。

 家庭のことはおざなりになり、父親との関係は悪化した。

 結局、小学校の進路を決めるときに意見が割れたことが決定的になり、父親は家を出て行ってしまった。

「これからは3人で助け合って生きていきましょう」と母親は僕と弟に言った。


 その言葉通り、3人で助け合って……実際は母親と僕の2人で真白を支えてきた、というのが近い。

 学校に何か言いに行くときに母親についていったりするなど、僕は真白の父親代わりを務めた。


 今も、母親を支えるべきなのかもしれない。でも、もううんざりだった。


 真白が死んで数か月経ったある日、何でもない頼みごとをしてきた母親に言ってしまった。

「あのさぁ……俺に頼るんじゃなくて一人で何とかしてくれる? 余裕ないのは分かるけど、真白を産んだのも、真白をああいう風に育てたのも、全部母さんの選んだことの結果じゃないか? 俺は関係ないのに、自分が辛いからって負担押し付けんなよ」

 母親の顔は見なかった。反応を見る勇気がなかった。



 次の夜、母親が笑顔だった。疲れてそうではあったけど、笑顔なんて見るのは真白が死ぬ数日前以来だ。

 ちょっとだけ片付いた部屋で、母親の作った料理を食べながら、母親の報告を聞いた。

「死刑課に行って真白と同じやつを申し込んだよ。明日キャンセルができたからできるって……真白のメッセージかな? こっちおいで、って言ってくれているみたい」


 僕は真白のときのように積極的に肯定もしなかったが、否定もしなかった。疲れていて、何の感情も出てこなかった。

 母親が死んだあとの色々な手続きの面倒さのことなど考えてしまった。


 翌日、真白と同じ流れで母親が死んだ。


 子が死刑を希望したことで、子を失った親が同じように死刑を希望して死ぬ、という事例が多発していることが社会的にも問題になっていた。


 母親が死んで、悲しいとかは思わなかった。

 僕の中の悲しみを入れるコップは真白の分しかなかったし、他のは全て割れていた。


 ただ、冷たくなった母親の感触と真白の感触を思い出し、一緒だな、と思った。

 僕だけが違うんだな、とも。




 ……仕事と家の往復で、関わるのも仕事関係の人だけという生活になった。


 僕の部署に他部署から緑川という男がやってきた。僕よりも一回り年上の人で、前の部署で上司と合わずにここに来たらしい。

 一応リーダー職である僕がメインで教えていくことになったが、とにかく働きが悪くて、言ったことをやってくれない。

 指摘すると「その言い方じゃ分からなかった」と言う。説明し直すと、何十個も質問が来る。それに答えていたら締め切りに間に合わないので、結局僕がやることになる。

 締め切り後に質問の回答集を渡したので、次回同じような仕事を頼めばやってくれるだろう、と思ったが、次回も同じことが起こり、僕の手を離れない。「前も説明しましたよね?」と聞くと「全く同じではないから分からない」と返されてしまう。


 コミュニケーションも最悪で、現場作業に行ってもお客さんを怒らせてしまう。それだけでなく、緑川自身も何気ないことで激昂してお客さんを怒鳴りつけたりする。

「もうあの人を連れて来ないでください」とこちらに連絡が来る。


 尻拭いをする日々の中で、疑問が芽生えた。


(こんな人がずっと同じ会社に居続けることができているのに……なぜ、真白は死ななければならなかったんだろう?)


 仕事ができないと悩んで死刑になることを望んだ弟のことを僕は支持していたのに、今の僕は勤務中の多くの時間と労力を仕事ができない緑川に割いている。

 そのことに気づいた僕は、耐えられなくなった。


(緑川が自ら死刑になることを望むようにしなければならない)



 僕はパワハラにならない程度に緑川に辛く当たった。

 緑川には最近結婚した妻がいる。僕はその仕事ぶりを妻に知られたら恥だ、という内容のことを繰り返し伝え、プライドを折り続けた。

 同じグループのメンバーにこっそりお金を渡して、協力してもらった。



 グループ内だけではなく、上司の協力も必要だと僕は判断した。

 部長である赤津に味方になって欲しかったが、どうすれば協力してもらえるか悩んだ。

 赤津はすごく仕事ができるのだが、パワハラで一度処分を受けたことがある。パワハラをした実績があるというのは長所だが、よっぽどの旨味がなければ、わざわざもう一度リスクを犯したいとは思わないだろう……


 とりあえず、本当に困っているんだ、という顔で何度も赤津のところに相談に行った。その流れで僕と赤津は外でも会うようになり、さらになぜか体の関係まで持つようになった。

 初めて服を脱がせたとき、赤津は恥ずかしそうに「固太りなの」と言ったが、真白に比べるととても柔らかかった。それでも、体型は似ていたから、僕は抱きながら真白のことを考えていた。


 赤津の顔が、真白の顔に見えてくる。

 表情の分からない真白のぼやけた顔に、僕は誓う。


(真白……俺は、絶対に、お前を裏切るようなことはしない)


 その後、何度も僕は赤津と関係を持ったが、その度に真白に同じことを誓った。

 生前はもちろん真白と体の関係なんて持ったことはなかったが、自然に赤津と真白を一緒に感じながら一つになっていた。



 赤津はとても上手に緑川を追い詰めて、ついに緑川を退職に追い込んだ。

 それだけでは心許なかったから、真白と同じように「キャンセル待ち」をすれば早く死刑を受けられることをさりげなくアドバイスを送った。

 言ったことをやってくれない人だったはずの緑川は、なぜかそのアドバイスはちゃんと聞いてくれて、1か月も経たずに死んだ。


 赤津に「キャンセル待ち」のアドバイスを緑川にしたことを話すと、彼女は僕をゴキブリを見るような目で見た。

「仕事辞めさせたかったわけじゃなくて、殺したかったんだ? ……あんた、おかしいよ? もう関わりたくない」


 赤津に避けられ、居づらくなって、僕も退職した。



 緑川が現れてから、僕は真白のために緑川を死刑にすることばかり考えていた。

 赤津と真白を重ねてしまったりもした。赤津の体温を感じながら、真白が生きているような気さえした。

 おかげで真白がいない悲しみを忘れることができていた。


 緑川が死に、赤津が去り、1人になって、僕は真白のことを思い出そうとした。

 でも、上手く思い出せない。

 死んでからずっと、苦しいほど思い出していたのに……真白の顔も、近くにいたらどんな匂いで、どんな感触だったのかも思い出せない。

 嫌でも思い出していた、死んだときの様子すら……何も思い出せない。



 母親が死んだときから、何かおかしくなった気がする。


 今更気づく。


(真白は、俺がずっと母親と仲良く暮らし、当時の恋人と結婚し、仲間と協力しながら仕事を続けて欲しいと思っていたはずなのに……)


 何もかも失った。

 それだけではない。母親には心無い言葉を掛けて、それで真白と同じ死に方をしても、特に悲しいと思うことすらなかった。

 さらに、明確な殺意を持って、年上の部下を精神的に追い詰めて、また真白と同じ死に方……絞首台に送った。そんなこと、真白は絶対に望んでいなかったと今なら断言できるのに。


 僕はもう、真白に見合う人間ではなくなっているのだろう。

 真白は僕に自分のことを思い出すことすら許さない。だから、真白のことを思い出せない。


(真白に会いたい……)



 翌日、僕は市役所に行った。死刑課に行くのは初めてだった。

 廊下を何度も曲がった先の、行き止まりに死刑課はあった。日当たりが良く、観葉植物が幾つも置いてあり、想像していたよりも明るい場所だった。市内のペットショップの札が掛かったアクアリウムまである。

 全て、弟と母親と緑川が見たはずの景色だった。

 でも、僕は3人と同じようにはならなかった。

 職員の人に「キャンセルはないですね」と言われた。僕に死刑執行の許可は出なかったのだ。


 他にすることなんてないから、翌日も、その翌日も、通ってしまう。月曜日から金曜日の5日通ったら、出禁になってしまった。

 職員の人が言う。

「『死刑希望する人は健康な精神状態を有する』という条件がありますので……まずは医療機関を受診して証明書を出してください」


 この「健康な精神状態を有する」という条件は、死刑を希望している鬱病などの精神疾患を抱える人々からの反対が多い条件だった。でも、「死刑」という重大な判断をするのに、判断能力がある人でないといけないという条件は必須だというのが専門家の主流な意見だった。



 とにかく、僕は受診する気なんて起きなかった。

 引っ越しをして、隣の市に移り、同じように死刑課へ行った。

 しかし、結果は同じで、出禁になり、また隣の市に引っ越しをする……同じことを何度も繰り返し、ついに貯金が尽きてしまった。


 おそらく、キャンセル待ちなんてせずに普通に予約を取ればそんなに待たずに死刑を受けられるのだろう。

 でも、真白が僕を呼んでいるのならキャンセルが出るはずだ。それが出ないんだから、勝手なことはできない。




 この世はどんどん変わっていく。

 死刑希望制度で家族や友人などの大切な人を亡くした人たちの悲痛な声がそこかしこに溢れている。

 また、希望者の増加に伴い、執行する人手の不足も深刻だ。直接死刑に関わる人たちが精神を病むケースも多くなっている。

 僕が緑川にしたように、死刑を希望するように家族または第三者が誘導する事件も多く発生している。裁判に発展し、実刑が下ったケースもある。


 夫を亡くした緑川の妻は何を思っているのだろうか?


 このまま変わって、変わり続けて、いつかこの国は再び死刑希望制度を廃止するのかもしれない。

 誰もが不幸にならない世界なんてないのだろう……

 真白が死にたいと思わなくて良かった世界もあるのだろうか?




 僕は死を願ってばかりいる。

 それなのに、生きている限り、僕の肉体は、精神は、絶えず変わっていく。真白がいた頃とは似ても似つかないものになっていく。


 金がないので働く。深夜の冷凍倉庫内での作業だ。

 冷たい場所で無心に仕事をすれば、自分が生きている生き物であることを感じなくてすむ。勝手に変わっていく身体と精神を止められる気がする。特に夜勤が好きだ。夜に活動するのは死者に近い気がするから……


 真白は初夏に死んだから、昨年、暑くなっていく日々を地獄のように感じた。あれから1年が過ぎ、2回目の秋も過ぎていく……そのことも気に留めずに生きていた。



 とても寒い日、雪がちらつく夜にバスに乗って出勤した。天気予報は見ていなかった。

 勤務が終わり、職場から出ると……一面雪景色だった。


 まだ人が活動していない、真っ暗な早朝に、静かに雪は降り積もっていた。

 ライトに照らされた場所はほとんど誰にも踏まれていない雪……白くまばゆい光。


「真白……雪が積もったね」

 思わず、語りかけてしまった。周りに誰もいなくて良かった。


 真白という名前は、生まれた日に雪が降り積もっていたという単純な理由だった。名づけのとき、僕はもう物心ついていたから覚えている。

 でも、その日以来、温暖なこの土地で雪が降ることはあっても、積もることはなかった。


「真っ白だね」

 当然、返事はない。


 でも、僕の中で変化が生まれた。


 世界は変わっていくこと、僕も変わっていくこと、それと真白はもういないということ、すべてが同時に理解できた。

 理解できただけでなく、受け入れられる気がした。


 そして、真白の顔をはっきりと思い出すことができた。

 その顔は、笑っていた。


 はっきりと、真白が生きていた最後の日に死刑執行所の面会室であったときの顔を思い出した。やっと、また思い出せた。


 履いていた手袋を脱いで、暗闇に手のひらを差し出すと、小さな雪の結晶が落ちてくる。

 幾つか集まり、僕の手のひらを濡らしていく。その感触に、僕は真白の濡れた背中を思い出す……最後の別れのときに抱き締めた背中を……



 僕は歩いて家に帰ることにした。まだ踏まれていない雪を沢山踏みしめると、歩いた後に長い足跡ができる。


 少しずつ夜が明けていく。

 僕は生きていた頃の真白をちゃんと思い出していく……

 彼がどんな人間だったかを……



 死刑課に行くことはもうやめようと思った。

 他にやるべきことはある。償うべき人に償わなければならないと思った。たとえ償うことなんてできなくても、その事実から逃げてはいけないと思った。



 真白が死ぬ前の僕と今の僕は変わってしまったけれど、もっと変わっていかなければならない。


 変わって、変わり果てて、再び真白に見合う人間になることを夢見て……


(終)

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弟はもういなくて、僕は…… @ohaginoanko

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