第4話 Side-B

「黒風船症候群ですね」

 主治医の木村先生がそう言ったとき、私の頭を「やっぱり」という思いがよぎった。

 まだはっきりとした原因も、治療法も分かっていないのだ。国の偉い人たちが審議しているらしいが、現時点では医療保険の適用も怪しい。これから、どうしたらよいのだろう。

 母は私よりもずっと落ち着いていた。

「もしやとは思っていたけれど、やっぱりそうなのですね」

「ええ、最近この辺りの地域でも増えています。皆さま、発作のような呼吸困難と心臓の痛みを訴えられます。ですが、日本全国、いえ、海外の事例でも、この病気で死者はまだ出ていません」

 初老の紳士、といった風貌の木村先生は、言葉を選びながら、私と母に説明をしてくれる。私の頭も少し落ち着いてきた。

「この病気の原因ははっきりとは分かっていません。しかし、発症されている方には、『黒風船』の名の通り、共通点があります」

 木村先生の言葉に、数年前の記憶がよみがえる。

「やはり、あの事件ですね」

 木村先生は、ゆっくりとうなずいた。


 東海地区の上空に巨大な円盤が現れたのは、ある年の暮れだった。三県にまたがるほどの巨大なそれは、鈍いエンジン音を響かせながら浮かび続けた。

 下から見上げると、雲の上に、かすんだ黒い影が見えた。空が鉄の蓋で覆われているようだった。何のためかは分からないが、所々でピカピカと光る電球のような装置があった。遠くてはっきりとは視認できなかったけれど、たまに、通気口と思しき丸穴からガスのようなものが噴き出ていた。

 とてつもない大騒ぎになったことを覚えている。円盤を目視できる地域では、安全が確認できるまで外出が制限された。有害な放射線が出ているというデマが流行り、買い物に行くときにはサンバイザーやフルフェイスのヘルメットを身に付ける人が増加した。自衛隊と専門家チームが、空気汚染や放射線の有無を調査し、結局人体に有害な要素は何もないと結論付けられた。一方で、宇宙人との交信や陰謀論を唱える新興宗教が数百も興され、中には壮絶な集団自決事件まで起きた。

 同様の事態が、諸外国でも起きていた。アメリカのアリゾナ州、インド全域、オーストラリア北部、中国の北京周辺、アイスランド。私が覚えているのはそれくらいだが、もっと多くの地区で、円盤が滞空していた。

 人間とは強いもので、半年経つ頃には、円盤のある生活に慣れ始めていた。円盤のせいで常に夜のような暗さだったが、急ピッチで電線と街灯が整備され、経済活動も再開された。

 新しい文化のようなものだったのだと思う。観光地やテーマパークは競うようにイルミネーションへ力を入れ始めた。飛行機を飛ばせないので陸路と海路が移動の主流となった。不思議なことに、バックパッカーが増加したという。

 一方で、農業は打撃を受けた。日光と雨の遮断が、想像以上の不作をもたらしたのだ。結局、従来の農業様式からの脱却が求められ、給水システムや植物育成ライトの完全配備を目指し、国が多額の補助金を出した。

 私の家では、父が運送会社で働き、母と私が畑をやっていた。そのため、厳密にいえば農業だけが収入源だったわけではない。しかし、父の稼ぎが安く、また、畑もそれなりの量を出荷していたため、国の補助対象として認定を受けることができた。

 不自然に明るく照らされたビニールハウスの中で、私と母は野菜を育て続けた。

 その日はトマトの出荷が迫っていて、朝早くから収穫に追われていた。

「外が暗い中で収穫するって、やっぱり慣れないわぁ」

 腰をさすりながら、母が顔をしかめる。私もいっぱいになった箱を脇に寄せながらうなずいた。

「そうだね。ライトの下だと、色の見え方も違うし」

「年寄りは目がチカチカしちゃって嫌だわ。早く宇宙人さんがどこかに行ってくれればいいのに」

 そんな話をしている中、世の中ではちょっとした騒ぎが起こっていたらしい。もちろん、私と母がそれを知る由もない。

 後からテレビで何度も見ることになるのだが、円盤から、黒い風船のようなものが無数に膨らみ始めていたのだ。それも、日本だけではない。世界中の円盤で、黒い風船が確認された。

 半年以上、何の変化も見られなかった円盤が、初のアクションを起こしたのだ。戦闘機が偵察に向かい、外出禁止が声高に叫ばれた。

 黒い風船が破裂したのは、それが確認されてから三十分後のことだった。

 私は、最初どこかで花火でも上がったのかと思った。家の近くでも、若者がふざけ半分に打ち上げ花火を行うことがあった。ビニールハウスの中にいたからか、音は小さかったが、破裂音そのものは十分以上続いたように記憶している。さすがにおかしいと思い、母と共に外へ出ると、空は赤色と緑色で覆われていた。

 風船の中には、何らかの粉末が含まれていたらしい。それが、破裂と共に、上空へまき散らされたのだ。東の空が真っ赤になっている。西の空は、深い緑色だ。粉の色が違うのだ。

 粉の隙間から、黒くて長い何かが蠢くのが見えた。私は、触手だ、と思った。粉の上に伸びていたそれが何だったのかは、今でも解明されていない。

 私と母は、すぐに家の中へ駆け込んだ。粉は遥か上空にあり、私たちは浴びたわけでも吸い込んだわけでもなかった。

 鈍い振動音が外から聞こえる。直感的に、円盤が移動するのだと分かった。それは当たっていたようで、翌日、私たち一家は、数か月ぶりの青空を見ることができた。

 しかし、すべての不安が払拭されたわけではなかったのだ。事件当時、外に出ていた人々のうち数パーセントが、身体の異常を訴えるようになった。当初、心理的な問題と疑われていたが、そう断ずるには、症状の個人差が少なかった。

 それが「黒風船症候群」だ。

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