第3話 Side-A

 どれだけ頭をひねっても基調となる色合いが決まらず、僕はイーゼルの前から立ち上がり、洗面所でパレットを丁寧に洗う。水が跳ねて周囲を汚さないように、パレットの広い面に水を貯めてから、古い絵筆で絵の具を柔らかくこすっていく。黒、紺、茶、本当ならばもう少しの時間使われるはずだったそれらが入り混じって、宇宙人の血液のように濁り始める。僕は時間をかけて、それを流しの端から流してみる。血液は、白い斜面を思いがけない速さで、途中の水分を吸収し枝分かれしながら滑り落ちていく。

 道具を長く効率的に用いることに厳しかった先生が見たら、「そのようなもったいない使い方は論外だ」と憤慨するだろう。先生がケチだったとか貧乏だったとかそういうことではなく、道具のつくり手に対する敬意を重んずる人だったのだ。

 洗面台に青黒い血を一筋残したまま、僕は再びイーゼルの前へ戻る。アトリエの中は、描きかけの絵や没になった絵が立てかけられ、作りかけの彫刻も雑然と並んでいる。先生と共同で使っていたアトリエだが、今は僕専用のものとなっていた。

 イーゼルの絵には、雨の川辺が描かれている。重く並んだ雲の群れから濁った雨粒が鼻たれ、それらによって広がる水紋を、すべて巻き込みながら川面がうねっている。この絵は、色を何重にも粗く重ねて描こうと決めており、すでに二度、比較的明るい色合いで塗り終えている。三度目からは、少しずつ色の重厚感を増して雨らしさを表現するつもりだが、その配色に迷っているのだ。青を基調に冷たさを含ませた方がよいのか、それともグレーを基調にほの暗さを含ませた方がよいのか、現時点では判別がつかず、こういったときは得てして一度筆を止め、頭をリセットすることが求められる。

 この絵は、先生と出会った日の光景をモチーフにしている。母のつまらぬ一言に腹を立てた若かりし僕は、雨の中散歩に出かけ、そこで先生と出会った。

 その日はそれほど激しい雨降りではなかったから、水位も上昇しておらず、大丈夫だと踏んで河川敷まで下りてみたのだ。絵のことでいら立っていたにも関わらず、絵になりそうだな、などと性懲りもなく考えながら川辺を歩く。自分のほかに誰もいないと思っていたが、河川敷に群生した木陰に先客――先生がいた。

「絵になる風景だね」と先生は豊かな白髭を撫でながら言った。僕は面識のない人と話すのが苦手だったし、僕の考えていることを言い当てられたような気分になって、しばらく口をきけなかった。不自然な間をおいて「そうですね」と絞り出したが、すでに先生は別のことを話し始めていた。

「雨の川を描くことは絵のいい練習になる。そうは思わないかい? 厚ぼったい雲、背景によって見え方の違う雨粒、濁った水面、そこに浮かぶ水紋、川底から沸き起こる土煙、どれをとっても一筋縄ではいかない。単一のタッチ、単一の技法では太刀打ちできず、誰であろうとも手札の駆使に迫られる。それこそ、自分が苦手だと思っている技法であれ」

 もっともらしいことを言っているようにも、はぐらかしているようにも聞こえたが、僕にとって重要なことは、具体的な内容ではなかった。

「絵の先生ですか?」

 気が付くと、僕は一歩彼に近づいて問いかけていた。普段ならば決して考えられないことだが、僕はその時、絵に対する思いを分かち合える人物を渇望していた。

「いかにも」

 彼はそっけなくうなずき、また絵について語り始めた。水面を色鉛筆だけで表現する方法、水紋をグラデーションで描き分ける方法、今にして思えば、堆積した膨大な知識と思考について、存分に語ることのできる相手を先生も欲していたのだろう。

 それ以降、僕は彼を「先生」と慕い、時折絵の手ほどきを受けるようになった。最初は川辺で説明を受けるだけ、その次は、描き途中の画板を見せてもらうだけ、高校に上がったころに初めて自分の作品を見てもらえ、指南を受けた。

 先生の指導に一貫していたのは、「自由に描け」というスタンスだ。先生の方からは決して舵を切らず、何を表現したいのかを弟子自身が見極める必要があり、芸術家には珍しいタイプの指導なのでは、と当時の僕も思っていた。一方で、僕が表現を望みながらも思うように描けていない点については、頑なに妥協を許さなかった。その表現を僕が成しうるまで、筆の動かし方、色の混ぜ合わせ方、それこそ「白をあと0.2ミリ足せ」というレベルまで要求した。

 先生は、全国的にはそれほど有名ではなかったものの、地元では地域出身の芸術家として認知されており、僕が先生と師弟関係を結んだことを両親も喜んでいた。先生は断ったものの、月謝として毎月いくらかを包み、時折僕に果物を持たせた。僕もその頃には、そういった親の干渉に対して必要以上に嫌悪的になることもなく、社会的礼儀の重要性も分かり始めていたので、そんな母たちの行動も疎ましく感じられることはなかった。

 先生の信条は、一言に「自由」だった。何でもかんでも全てがアリ、ということが難しい世界であることは十分承知の上で、それでも可能な限り自由でありたい、というのが先生の望みだった。それは、誰のどのような作品でも可能な限り認めていきたいという思いの裏返しであったように思う。

 ある日、何かの拍子に、先生とゲームの話になった。そういったものに縁のなさそうな印象だったが、しかし、先生は雄弁だった。

「最近、ゲームの過激な表現について、記事を漁っていてね」

 その頃は、ゲーム機器が一家に一台あって当たり前になり始めていて、多様なコンテンツが産出されていた。一方で、世の識者とされる人々やPTAから、過激な表現に対する拒絶反応が噴出していた時期でもあった。

「似たような話は、漫画やアニメなどで昔からあった。過激な表現が、子どもを歪めてしまうのだそうだ。確かに、暴力的な場面を見た後で、子どもはそれを模倣しやすいという研究もある。ただね――」

 僕は人並みのゲームユーザーであり、こういった世の流れに少なからず困惑していた。世の中のユーザーが全て犯罪に手を染めるわけでもなく、ましてやゲームに原因があるというはっきりとした根拠はないのだ。

 先生は髭を撫でながら続けた。

「それ自体を禁止するのはナンセンスだ。ゲーム自体に罪はない、使い方が悪いのだよ」

 先生の表現は、僕の胸にすとんと落ちた。

「ゲームがトリガーになったと思しき事件もいくつか調べてみた。個人的な感覚としては、ゲームが原因でそうなったとは思えない。事件を引き起こした人間には、明らかにショーシャルサポートが欠けていた」

 ソーシャルサポートという語はよく分からなかったが、社会的な支援、ととりあえず脳内で変換してみる。

「過激なゲームを制限できない家庭状況、あるいは、ゲームと現実は違うのだと教えてやれる人間の存在、不満や愚痴を吐き出せる友人の存在、それらに言及せずゲームに原因を帰属するのは、好ましくないね。だから、私自身としては、ゲームの年齢制限とやらには両手を上げて賛成だよ。物事には順序がある。それを飛び越えていきなり過激なものに接触するのは好ましくない」

 先生は過去に、芸術大学の同級生から、自分の絵を罵倒されたことがあるのだ。あなたの絵を見ると暗い気分になる、もう二度と書かないでくれ。以前聞かされたその話が、僕の脳裏をかすめた。先生はいまだにそのことを引きずっているに違いない。だから、絵が悪いのではない、嫌なら見ないでくれ、日常の不満を自分の絵に当てつけないでくれ、いつも声なき声でそう叫んでいるのだ。

 後に、認知症を患ってからは、その体験に対する執着に拍車がかかっていった。

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