第7話 格技場
駿は真っ白な格技服に着替えるとグローブを装着した。
防具もあったが、なしでやるという。
グローブだけでは本気で打ち抜く事はできない。ジャブなら多少痛い思いさせるだろうが、怪我はさせずにすむはずだ。左を主体に右はセーブして打てばいい。
駿は右の拳を左の手のひらに叩き付けると、「ヨシ」と気合を入れた。
更衣室の扉を開け、畳の上に足を進めた。
畳の上には正方形が描かれ、中央には見知らぬ女性が立っていた。女性ながら精悍と言える顔つきでTシャツから覗いている腕は筋肉の塊だった。
その女性の前には膝の上にグローブを並べた由宇が正座をして待っていた。
「私は整備隊長の小田原2尉。審判をさせてもらいます」
駿が由宇の前に立つと、その女性が言った。
駿は黙って肯いた。
由宇が静かに立ち上がる。
「これから行う試合はグローブをつけてもらいますがスポーツではありません。戦闘だと考えて下さい。どちらかがタップした時、あるいは戦意を失ったと判断した時点で終了とします。場外以外では試合を止めることもしません」
ほぼノールールだということだ。駿は「くっ」と声にならない声を上げた。なるべくダメージを与えずにポイントを取ればいいと思っていた。だが、簡単に終わりとはさせてもらえないようだ。
駿は目をつむって覚悟を決めた。
心の中で「仕方が無い」とつぶやき目を開くと水島が由宇に歩み寄って行くのが見えた。彼は何やら由宇に耳打ちしている。何かアドバイスしているのだろうがそんな事はどうでもいい事だった。
ギャラリーは神酒と分遣隊の二人だけだった。彼女らは三人そろって由宇の側に立っている。どちらを応援しているかは自明のことだった。当然といえば当然だろう。
「両者、前へ」
水島が離れると小田原が声をかけた。
間近で見ると由宇は本当に華奢に見えた。
ボクシングは階級制なので、体格の大きく異なる相手と戦うことはない。それに慣れた駿には今から目の前の少女と戦うのかと思うと、一旦決めた覚悟が揺らぎそうにも感じた。身長差はそれほどでもないが、体重では五六階級の差では済まないだろう。
しかし由宇の瞳はそんな駿の逡巡は必要ないと語っていた。そこには、リングでも見たことの無い激しい光があった。
「私にも負けられない事情があります」
由宇が唐突に口を開いた。駿は何と返したものか思いつかなかったので、ただ肯くだけにした。駿とすれば、由宇が何と思おうとこんな少女が戦場に行くことを見過ごすことはできなかった。
「ゴメンなさい」
由宇が小声で言った。駿には確かに由宇がそう言ったように聞こえた。だが直ぐに「礼」と声をかけられたので、その言葉の意味を考える余裕はなかった。
駿が頭を上げると、由宇は瞳を閉じて何かを呟いている。
「構え!」
駿は右足を引き腕を上げる。由宇は駿とは逆に左足を引きサウスポーで構えた。
それと同時に駿は「うっ」と小さな声を上げた。見開いた由宇の瞳が闇に浮かぶ猫の眼のように金色に輝いていたからだ。
あの時の眼だ。それは新宿で見たものと同じだった。やはり見間違いではなかった。
もしかして、あの薬なのか?
この状況で薬が使える理由は分からなかった。だが、そうとしか思えなかった。だがそれ以上の思考は「始め」という号令に中断させられた。
駿は軽くステップを踏み、小刻みに体を動かせた。対する由宇は静かに構えたまま動かない。
こんな女の子を戦場に向かわせない。そのためには多少痛い思いをさせても仕方が無い。そう覚悟を決めたはずだったが、いざとなると間合いは詰められなかった。駿はステップを踏みながら右に回った。
由宇は駿の動きに合せてゆっくりと摺り足で向きを変えている。
必要以上のダメージを与えないためにも自分から打って出た方がいい。そう思った瞬間だった。唐突に由宇が踏み込んできた。
由宇は素早かった。それでも駿も遅れはしなかった。ジャブを打って突き放す。
リーチは駿の方が明らかに長い。突き放せるはずだった。だが駿のジャブは空を切った。由宇は僅かに左に回って拳をかわしている。
それを認識した瞬間、わき腹に衝撃を感じた。由宇が右胴突きを放ったのだった。
だが体重差のおかげで痛みは大したことはなかった。駿はバックステップで間を開け、態勢を整えた。
そして再び由宇が踏み込んでくる。駿も再びジャブを放つが、結果は全く同じだった。
由宇は駿のジャブを僅かに左にかわす。駿が攻撃をし難く、サウスポーに構える由宇にとっては攻撃のし易い体勢だ。そしてそこから右胴突きを打ってくる。
由宇の胴突きは腰の入ったものだった。それでも、その拳は根本的に軽く、駿にとっては耐えることが可能なものだった。
三度目の攻防、またもや駿のジャブは左にかわされた。だが、今度は下がらなかった。わき腹に拳を感じながら駿は右のフックを振って由宇のボディを狙う。
リーチのない由宇が胴突きを打てる位置にいるのだ。由宇が素早く下がらない限り駿のフックは由宇を捉えられるはずだった。左手を引きながら放った右フックは確実に由宇を追っている。だが追いきることは出来なかった。由宇は更に踏み込み、駿が腰を回し切る以上に駿の左側に回っていた。
駿は思わずボクシングでは反則になるバックブローで由宇を払おうとした。しかし、それが届く前に由宇の右面打ちが駿の顎を捉えていた。
軽量とは言え肩と腰の捻りを効かせた面打ちを受けると、脳を揺さぶられ一瞬平衡感覚が狂う。
その間に、由宇は駿の間合いから遠ざかっていた。
駿は歯噛みした。今のは追加のコンビネーションを入れられてもおかしくはないタイミングだった。実際、駿は左の直突きを警戒して両手で顔面をガードしていた。
由宇はその後もヒットアンドアウェイで駿を痛めつけた。駿から踏み込んでも結果は同じだった。駿の拳は寸でのところでかわされ胴か顎に一撃を受けた。グローブがなくても立っては居られたろうが、それだけだった。これがボクシングの試合であれば駿はたったの一ポイントも取れてはいないうちにボロボロだった。
「降参するか?」
駿が追い詰められ場外に逃げた際、試合を止めた小田原は言った。
「いいえ!」
駿は吐き捨てるように言った。
「両者中央に」
駿が開始線に付いて構えると、小田原は再開を告げることなく水島に視線を送った。
駿は由宇の瞳を見つめた。相変わらず鋭い視線を送ってくる。その金色の瞳はまるで駿の心の内を照らし、全てを見透かしているかのようだった。
だが駿にも仕掛けは分かっていた。心の内を見透かしている訳ではない。ただ由宇には駿の動きがスローモーションで見えているだろうということだ。
自分でも体験したことだったが、ここまで一方的になるとは思っていなかった。自分の見込みが甘かったのか。駿がそう思った時、水島の声が聞こえた。
「もういいだろう。新月2曹、制限を解除する。左も足も自由に使うがいい」
思わず「なっ」という叫びが口を衝いて出た。駿はこの瞬間まで全力で戦っていた。だが相手は腕一本で戦っていたと言うのだろうか。確かに思い返してみれば駿は右の打撃しか受けていなかった。
駿の目の前では由宇が右構えから左構えに変えていた。利き腕を使い易いようにワザとサウスポーにしていたのだ。それにそれまで握っていた拳も開いている。
「くっ」
駿は背筋に冷たいものが走るのが分かった。
「はじめ!」
小田原の声が響いた。
反射能力を強化された相手に後の先を取る事は不可能だ。駿は自分から打って出た。
駿に有利な点があるとすれば、それは体格差と駿をボクサーだと思い込んでいる点だろう。反射能力が高くとも体格差からくる力の差は埋められるはずも無い。捕まえてしまえば勝機はあるはずだった。
駿は何度もやったように左のジャブから入った。だがこのジャブはかわされる事が分かっている。それに今までのかわし方から見ると由宇は左に踏み込んで体の裏に入ろうとする可能性が高い。
駿は途中から腕の力を抜くと同時に左回し蹴りを放った。それは正確には回し蹴りではなく、体重を乗せて伸ばした足を振り回しただけだった。それは打撃を与えるための蹴りではなく、ただ相手を捕まえるためのものだ。駿と由宇の体格差を考えればそれで十分なはずだった。
実際に由宇は踏み込んで来ていた。
捉えた。
そう思った瞬間、由宇の体が沈み込むのが見えた。駿の左回しは丸めた由宇の背に触れはしたが削り上げるように掠めただけだった。
と同時に、駿は軸にした右足の膝裏に軽い衝撃を受けた。由宇は、沈み込むと同時に裏の関節蹴りを放ってきたのだった。
駿は体の支えを失って一気にバランスを崩した。振り回した左の足先を着き何とか倒れることだけは避ける。だが眼前に由宇の姿はなく、完全に背後を取られたようだった。
そして背中に何かがぶつかる様な衝撃を感じると同時に、顎の下に白いものが見えた。それが格技服に包まれた由宇の細い腕だと理解した時、それは駿の首筋に深々と食い込んでいた。
いくら由宇が軽いとは言え、バランスを崩したまま背後に飛び掛られた駿はそのまま膝を着いた。
何とか両手で振りほどこうとはしたものの、完全に決ってしまったスリーパーホールドには指を滑り込ませる事もできなかった。体ごと投げを打とうとしても由宇の反応は素早く的確に加重をコントロールされる。肘を打ってもかわされるか、あるいは膝で受けられるだけだった。
駿は足掻きながら心の中で悪態をついた。
「こんなにあっさり負けられるか」
しかし、目を閉じたまま視界は真っ白に染められていった。
目を開けると駿の上には何人もの顔が覗き込んでいた。どうやら絞め落されていたらしい。
「タップのやり方は知らなかった?」
駿の頬を叩いていたらしい小田原が言った。
「いや、知ってましたが……」
頭を振って体を起す。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
そう言った由宇の目には、戦う前とは別種の真剣さが浮かんでいた。
「大丈夫だよ」
無理にそう言って笑顔を作ったものの、それは苦笑にしかならなかった。
「時間の感覚が分かりにくくて……」
由宇の瞳はもう普通のこげ茶色に戻っていた。
「ピルミリンを使わせた事をアンフェアだと言うかね?」
駿は頭上から響いてきた声に顔を上げた。水島がそれまでと変らぬ表情で見下ろしていた。例の薬はピルミリンと言うらしい。
「いえ。中隊長の判断が合理的かどうか賭けた訳ですから……」
駿は由宇という一人の人間に敗れたのではなく、水島の部隊編成構想に敗れたのだった。
「では賭けは賭けだ。それに君も理解しただろう。敵の想像を凌駕するものを持って臨めば、戦いを極めて有利に展開することが出来る。これは広い概念での奇襲だ。広義の奇襲には強襲と急襲、それに狭義の奇襲がある。特別分遣隊は強襲と急襲を狙う部隊だ。そしてそれを可能にする物がピルミリンとスーツだ。これらがあれば肉体的な男女差など簡単にひっくり返せる。君にも協力してもらうぞ」
そう言うと水島は踵を返して格技場を出て行った。それに続いた沈黙を破ったのは神酒だった。
「効果の程は実感してくれたかしら?」
切れ長の目を悪戯っぽく細めている。
駿は膝に掌を押し当てて立ち上がった。
「まあ、凄い物だってことは良く分かりました」
「体格差が大きな影響を及ぼす格闘においてもピルミリンの効果はその差を覆して余りあるわ。銃器を使う戦闘においては尚の事よ」
「そうでしょうね」
「それでも、モータースポーツなどの瞬間的な判断が重要な競技でも男性が優位なことも事実だわ。唯一の男性隊員として期待してるのよ。頑張ってね」
駿は女性を戦わせることに納得した訳ではなかった。だが、この部隊の可能性を認めざるを得ないことも確かだった。
「約束は守りますよ」
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