第10話 黒豆珈琲と姉御とあの子

 5月も下旬に差し掛かり、毎年多数の救急車を出動させる灼熱の怪物の吐息が、街にかすかに吹きかかるようになった。面倒くさがり屋なトオルも季節には逆らえず、部屋の窓を開けたり、夏物の服を買い揃えたりと、夏に向けてゆっくりと生活や装いにグラデーションをかけている。


「よし、レポート終了っと」


 そんなそよ風吹き抜ける自室で、トオルは椅子に腰掛けながら、ぐーっと伸びをした。貯めに貯めたレポート課題を一気に終わらせた爽快感はとても気持ちがいい。緩衝材を絞って一気に鳴らしたときのそれに似ているような気もする。開きっぱなしのパソコンに目を落とすと、羅列されている蟻の群れのような黒い文字が確認できる。これを自分が書いたと思うと、意外と物書きに向いているのではないかと錯覚してしまうほどだ。


 時刻は午後2時になろうとしていた。トオルはベランダに出て、洗濯物の乾き具合を確認する。まだTシャツの脇の部分がほんのりと湿っているようだが、下着やタオルはすっかり乾いているようなので取り込むことにした。そうして洗濯物を腕に抱え、ふと眼下を見下ろすと、お土産袋を手に持った観光客が楽しそうに道を行き交っている。新緑の京都の日曜日、しかも金閣寺に面す西大路ともあれば活気があるのも当然だろう。


「……なんか暇だな」


 洗濯物を部屋に放り投げた後、ベランダのフェンスに腕を預けたトオルは、観光客を見ながらそう呟いた。


 洛楽倶楽部の活動は平日に行なっている。休日は観光客で溢れかえり、ゆったりじっくりと観光をすることができないからだ。今見ている観光客の数を見ればその判断は正解だと言えよう。そういうわけで、レポートを終えたトオルはこれからどう暇を潰そうかと考え、歩いていればそのうち行きたいところも見つかるだろうと思い立ち、部屋をあとにした。


 外に出たトオルはとりあえず金閣寺に向かうことにした。西大路を北に進み、ラーメン屋を越え、ハンバーガーチェーンを越え、さらに進んでいくと、ドラッグストアのある交差点に差し掛かる。たかだか数メートルしかない横断歩道なのに当たり前のようにある歩行者信号は赤を示していた。待つのが馬鹿馬鹿しく思えてしまうけれど、法を犯すわけにはいかない。トオルはやれやれといった様子で歩道に立っていると、視線の先に驚愕の光景を見た。


「うっわ、えげつな……これは無理かな」


 横断歩道の先にあるバス停「金閣寺道」は、祭りをやっているのかというくらいの人で溢れかえっていた。バス停がこれだけ混んでいるのだから金閣寺もさぞ混雑していることだろう。人の濁流に呑まれ、ゆったりと金閣寺を見ることができないのは本意ではない。トオルはまだ赤いままの信号を渡らずに、歩みを東に向けた。


 しばらく歩いて行くと、住宅街の中にポツンと町屋のような建物が見えた。軒先には白い旗や看板が掲げられている。少し気になったトオルはその町屋へと向かった。


「黒豆珈琲?」


 町屋に近づき白い旗に書いてある文字を見ると、そこには大きく「黒豆珈琲」と記されていた。珈琲というからにはここはカフェなのだろう。実際、旗の横の黒いボードにもメニューらしきものが書いてある。思い返してみれば、神社仏閣と同じくカフェもあまり行ったことがない。京都はパン文化だし、カフェもそこら中にあるから、ここらでカフェを開拓するのもありだろう。それに黒豆のコーヒーというのは大変に興味をそそる。コーヒー豆でないコーヒーとはどんな味なのだろうか。トオルは期待に胸を躍らせながら扉に手をかけた。


 少し重めの扉を引くと、さすがは日曜日、店内にある5つのテーブルはすべて埋まっていた。カウンター席もなさそうだし、日を改めることにしようとトオルが身を翻したとき、「いらっしゃいませー!」というはっきりとした清々しい声とともに、店の奥から店主と思しき背の高い女性が歩いてきた。エプロンを見に纏い、茶色い髪の毛を後ろで縛った姿は、まだまだ若そうなのに肝っ玉母さんのような雰囲気だ。


「あの、1人なんですけど……この感じじゃ入れないですよね。また日を改めて来ます」


 トオルは店内をぐるりと見回し、再度席がないことを確認すると、店主にペコリと頭を下げて、扉に手をかける。


「ああいやいや!大丈夫よ。うち外にテラス席があってな、ちょうど今片付け終わったとこなんよ。お客さんが嫌じゃなければなんやけど、そこにしはる?」


 そう言うと、店主は先ほど出てきた店の奥に手を向けた。そこには竹垣に囲まれ、爽やかに緑が植えられた落ち着きのあるテラスがあり、広いテーブル席が1つ用意されていた。心地よい外の空気に当たりながらコーヒーを飲むのも一興だろう。願ったり叶ったりだと思ったトオルは迷わずに、お願いします、と返事をして、テラスへ案内してもらった。


 店主がどうぞと促すと、トオルは椅子に腰を下ろした。椅子が4つあるテーブル席は1人で座るには広く、なんとなく申し訳ない気持ちになる。


「あの、僕1人で占領してしまってもいいんですか?日曜日だしこれからまだ人が来るんじゃ……」


「そんなん全然気にせんくてええよ。元々テーブルが少ないからね、早い者勝ち!」


 だから大丈夫、と店主はニコリと微笑んだ。トオルはお店の人が言うなら遠慮なく座らせてもらおうと、椅子に深く座り直し、メニューに目を落とした。


「この……黒豆珈琲っていうのは、コーヒー豆じゃなくて大豆の黒豆を使ってるってことですよね?」


 トオルはメニューに記されている黒豆珈琲の字を指差して一応尋ねた。もしかしたらコーヒー豆に黒豆という品種があるのかもしれない。


「うん、そうそう。それに、黒豆珈琲っていうと、コーヒーの味により近づけるためにコーヒー豆をブレンドしてるのもあんねんけど、うちのは黒豆100%でやらしてもらってます」


「へえ!それは面白そう!結構珍しいですよね、黒豆珈琲って。僕初めて知りました」


「珍しいと思うよ。まあコーヒーが好きな人は普通のコーヒー飲まはるからね、知名度低いのもしゃーなしかな。お客さんはコーヒー好き?」


「ええ、まあそれなりには」


 喉が渇いたときに自販機やらコンビニやらで買う飲み物は、大体コーヒーというくらいにはコーヒーが好きだ。ただコーヒーに関して少し困ったこともある。


「けど、一時期コーヒー飲みすぎて、全然眠れなくなったりとか、動悸がしてなんでか分からないけど不安感というか、そういうのが湧き上がってきて落ち着かないっていうことがあって、しばらく離れてた時期はありました」


 トオルは恥ずかしそうに頭を掻きながら笑う。高校3年時、受験のストレスに晒されてコーヒーを過剰に摂取し、体調を崩した時期があった。おそらくカフェイン中毒の一歩手前まで行っていたのだろう。


「そしたら黒豆珈琲はほんまにおすすめよ、ノンカフェインやし。まあコーヒー飲んでくれても全然ええけどな、私コーヒーもめっちゃ好きやからこだわってるし」


 店主が言い終わると、トオルは再度メニューに目を落とし考える。確かにコーヒーは好きだし、今はカフェイン摂取による症状も出ない。ただ、正直言えばコーヒーなんて今飲まなくたってどこでも飲める。となれば選択肢は一つだった。


「いや、ぜひ黒豆珈琲をお願いします!すげー興味あります!」


「お、ありがとう!それじゃすぐ持ってくるから待っててな」


 店主はトオルに向けて指ハートを作ると、店内のキッチンへ向かい、黒豆珈琲を抽出し始めた。人当たりの良い店主のおかげで、トオルの緊張はほぐれていた。


 テラスに売っている野菜を眺めていると間も無くして、店主がカップを乗せたお盆を持ってトオルの席へやってきた。


「お待たせしました!黒豆珈琲と、これは豆乳ね。カフェオレみたいにしたいときはこれ入れてな」


「おお、これが黒豆珈琲ですか」


 トオルは目の前に置かれた黒豆珈琲を覗き込むようにして見た。白いカップに入った黒くさらりとした液体は、おおよそコーヒーにしか見えない。湯気と共に鼻腔を刺激する芳ばしい香りも、コーヒー豆で抽出されたコーヒーのそれと遜色ない。これは期待ができそうだ。


「なんか意見があったら遠慮なく言ってな。そういうのも参考になるから」


 店主はお盆を抱えたままトオルをじっと見つめていた。黒豆珈琲のことについて聞いたとき少し話していたが、この黒豆珈琲は店主がコーヒーの焙煎や挽き方を1から学び、試行錯誤の末に誕生したものらしい。それだけに黒豆珈琲に対する愛情も、それを飲んだ人の反応に対する不安も大いにあるのだろう。怯えたライオンのように見えて、なんだか可愛く思えてしまった。


「それじゃあ、いただきますね」


 トオルは店主へ向けてカップを少し上げると、黒曜石のように美しい珈琲を一口ズズッと啜った。そして、満遍なく黒豆珈琲の味を享受できるように、舌全体で転がした後、鼻から長めに息を吐き出した。


 ––––––お、これは!


 トオルは、口の中で体温程度まで温度の下がった液体をゆっくりと飲み込むと、鼻から息を吸い込みながら興奮気味にこくこくと頷いた。苦味も風味も香りも全くもってコーヒーそのものであった。日常的にコーヒーを飲まない人にコーヒーだといって飲ませたら、そのまますんなり受け入れるだろうと思えるほどである。しかも大豆の良さや個性は死なせていない。コーヒーのような苦味や風味が一通り収まってくると、奥の方から煎った大豆、言うなればきな粉のような香ばしい後味がじわじわと顔を出してくる。これがまた新鮮で面白いのだ。このコーヒーはコーヒーの代替品ではなく、「黒豆珈琲」というまた別の飲み物として楽しめるように思う。


「めっちゃ美味しいですこれ!ハマっちゃうかも」


 トオルはカップを皿に置くと、目を輝かせながら店主へと顔を向けた。


「ほんま!?」


「はい!本当に美味しいですこれ。言われなきゃ黒豆で作ったコーヒーなんてわかんないと思いますし、健康にも良さそうなのがありがたい」


「そ、そっかそっか!あーよかったわほんま。ドキドキした」


 店主はトオルの感想を聞くと、安心したように胸に手を当てて、口から息を吐き出した。だいぶ不安だったようだ。


 トオルが少し揶揄うようにして笑う。


「店主さん、すごい不安そうに俺が飲んでるところ見てましたね」


「そらそうやん。まっずとか言われたらどうしようとか思っとたんやで?ほんま年上を不安にさせるもんちゃうって」


「年上って言ったってまだ若いじゃないですか」


「お、嬉しいこと言うてくれるやん。まあ実際29歳やしな、まだまだピッチピチよ」


「あら意外。もうみそ––––––」


「三十路言うたんはどこのどいつかなーー?」


 食い気味にトオルの発言を制止した店主が、売っている大根をメジャーリーグのスラッガーのように構え、トオルの顔を打ち飛ばそうとしたため、これ以上年齢の話をするのをトオルはやめた。


「まあでも、君みたいな若い子が黒豆珈琲のこと褒めてくれるのはほんまに嬉しいな。自信になるわ、ありがとう」


「いやいやとんでもない!というか普通に自信持っていい代物ですよこれ!店主さんのこだわりとかもすごい伝わってきました。家も近いんで通いたいくらいです!」


 トオルがそう言うと、店主は涙目になりながらトオルの手を取り、ブンブンと上下に振り回した。


「なんやもうめっちゃ嬉しいこと言うてくれはるやん。今日は思う存分ゆっくりしていき!あと私、丹波たんばミチビキって言うねん。店主さんってなんか距離感じるし、丹波さんとでも呼んでな」


 そんなミチビキの怒涛の勢いに苦笑いするトオルを見て、ミチビキは、ごめんごめん、と手を離すと、ていうか、と続けた。


「家近いって、君、観光客じゃなかったんやな。もしかして西大生?」


「あ、はい、そうです」


「何回生?」


「今2回ですね」


 ミチビキは、2回か、と呟くと、腕を組みながら何かを思い出すように顔を下に向けた。


「確かあの子も西大の2回やったよな……」


「あの子?」


「ああ、うちのバイトの子なんよ。そういえばそろそろ休憩から帰ってくるはずなんやけど」


 ミチビキがそう言いながら腕時計をチラッと見たとき、店の入り口が元気よく開き、1人の女性が入ってきた。


「丹波さん、ただいまです!休憩あがりました!」


「おお、おかえりアユミ」


「聞いてくださいよ丹波さん。休憩中に近くの洋食屋に行ってきたんですけどね。そこで……って、え!甲斐くん!?」


「駿河さん!?」


 トオルとアユミはそれぞれの姿を確認すると、驚きのあまり石像のようにピタリと動かなくなった。トオルが注ごうとした豆乳は標準を狂わせ、カップではなく、下に敷いた皿に注がれていた。

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