第21話 本物のマナーとは

「あらヨシダ、なんだか久しぶりね」


 城の未亡人は笑顔で出迎えた。喪服も鮮やかな菫色で、心なしかお洒落になったような気もする。


「あなたの化粧品のおかげで肌に艶が出て来たの」


 未亡人には吉田がおぼろげな知識で作った化粧水や乳液のテスターをお願いしているのだが、どうやら順調に効果が出ているらしかった。


「あの国王が即位してから掌返してた連中まで“若返りの秘密はなんですの?”と尋ねてくるようになったの。ほほほ。良い気分だわ」

「それは良かったです。奥様は元々の素材が良いので羨ましい限りです。

ところで、奥様がご指導くださった使用人たちもホテルで無事活躍しています。さすがの手腕ですね」


 吉田は未亡人の御機嫌取りのため散々煽ててから「一つお願いがあるのですが」と切り出した。


「テーブルマナーの講師を引き受けてくださいませんか?」」

「テーブルマナーって要はホテルの料理の食べ方でしょ? 殆どあなたが決めたようなものじゃない」

「仰る通りですが、私は貴族でもありませんし、他の場面で通用するかどうかわからないのです。それにこう言うものは誰が教えたかが重要になります。私のようなしがない平民より、貴人である奥様の方から教わった方が箔が付くのではないでしょうか?」


 そう言うことなら、と夫人は快く引き受けてくれた。


 許可を得た吉田は早速料理長らに経緯を説明する。


「これから寒くなれば宿泊客は減ります。こうしたイベントは集客にもなりますし、宣伝にもなると思います。是非テーブルマナー講座を開催したいのですが」


 ホテルでテーブルマナーを教えることは珍しくない。吉田の勤めていたホテルでも、コロナ前は修学旅行で来た子どもたちにそうした講座を行っていた。

 客を料理だけで持成すと言う提案に、料理長をはじめ、スタッフたちは乗り気のようだ。


「でも、ホテルの宿泊客もいるだろ?」

「ディナーでなくランチ、つまりお昼にやればどうでしょうか。その日は勤務が長くなりますが、特別手当をお支払いします」

「それ、参加は三人だけか?」

「どうせならたくさんの人に来て欲しいですね。食材もたくさん仕入れると少し安くなりますし」

「俺らも習いたいっす!」

「そうですね。当日の人員や食材を元に計算してみましょう。従業員に対しては別日にセッテイングしましょうか」


 老夫婦のことが頭にあった吉田は、できるだけ参加費を抑えたかった。人数を多く集めれば、それだけ一人当たりの金額が安くなる。吉田は料理長らと綿密に相談し、当日は見栄えは良いが食材が安いものや、短時間で調理できるものを出すことにして、宿泊客や街の商工会等に宣伝を始めた。

 すると、当初は二十人程度を見込んでいたものの予約が殺到し、途中で受付を停止する羽目になった。




「このフィンガーボウルは主に殻付きのロブスターやエビ、カニを食べる際に用意されるわ。指先が汚れたら片手ずつ、指の第二関節までをボールに入れ、こすり合わせるの。

バシャバシャ音を立てたり、掌まで入れて洗ってはダメよ。濡れた指は、膝上のナプキンで拭くの。それから……」


 テーブルマナー講座当日。


 老夫婦の三人の息子を含めた三十人の客たちが食堂に集まった。 

 夫人が説明しながら中央の一段高くした席で実演し、それを手本に客たちが料理を食べる形式だ。吉田たちスタッフは料理を出しながら持ち方などを指導する。


「何か質問があれば遠慮なく手を挙げて仰ってくださいな」


 未亡人が声をかけると、客の一人が手を挙げた。


「唾を吐きたくなったらどうすればいいすか?」


 そこからか、と吉田は頭が痛くなる。


「唾を吐くとき、必要以上に遠くに飛ばすのは良くないわ。洗面器に唾を吐くのもマナー違反ね。食事中に吐きたくなったら、まず使用人に入れ物を用意してもらえるか聞いて、ダメそうなら床下に吐きなさい。痰が混じっていたら、人がそれを見て気分を悪くしないようによく踏みつけておくことね」


 吉田は慌てて唾用の瓶を運びながら、道理でホテルの床が汚れているわけだと納得する。吐くこと自体がそもそもマナー違反だと思うのは現代日本の感覚なのか、誰もそんなこと指摘しない。


「気になる女性の前で吐くのはお勧めしないわ」


 夫人もそう言うに留めた。


「では次に……一番奥の席の方」

「はい。今日教わったマナーを、招いた人たちが守らなかった場合はどうしたら良いですか? 例えば手を洗わなかったりとか」

「どうしても困る場合はこっそり注意するしかないけど、招待客にマナー違反を指摘するのはあまりお勧めしないわ。

そもそも今日お教えしたのは、あくまでも一つの例。所変わればマナーも変わるものよ。それに……」


 何か言いよどんだ夫人の目が、テーブルに置いたままのボウルに留まる。


「例えば今日みなさんが手を洗ったフィンガーボウルですけど。ある時、貴族家に招待された客が飲み物だと勘違いして飲んでしまったの。

ホスト主人役はどうしたと思います?」


 質問を投げかけ、戸惑う客たちを見回す。


「物知らずな客に声高にフィンガーボウルの使い方を説明したかしら。他の招待客と粗野な客を笑い者にしたかしら。出ていけと恥知らずな客を追い出したかしら。


違うわ。自分もフィンガーボウルの水を飲んだのよ」


 夫人は言葉を切り、顔を上げて皆に語り掛ける。


「皆様、それがマナーですわ。

マナーとは、相手に嫌な思いをさせないためにあるもの。

自分のマナーを押し付けて相手に恥をかかせるのはマナーではないわ」


                *


 講座が終わると、客たちは口々に礼を言った。夫人にわざわざ声をかけに行く者もいた。 

 夫人はまだ三十代で、喪服姿でも十代後半の息子がいるとはとても思えないくらい美しい。集まった男たちが真剣に聞いていたのはマナーを身につける為だけではなさそうだ。


 吉田は後片付けをしながら手ごたえを感じていた。客たちの反応を見るに、大成功と言って良いだろう。


「ありがとうございました。特にマナーについてのお話が素晴らしかったです。奥様に頼んで正解でした。さすが生まれながらの貴婦人ですね!」


 客たちが帰った後で、未亡人に労いの言葉をかける。


「貴族の生まれなんかじゃないわ。私は裕福な商人の娘だったの。元王妃の妹でもあった前の奥様が亡くなって、愛人の一人に過ぎなかった私が、後継ぎを欲っしていた旦那様と結婚したの」


 淡々と身の上を語る彼女の言葉に耳を疑った。

 後で知ったのだが、未亡人は後妻として十代でガライ卿に嫁いだそうだ。


「さっきフィンガーボウルを飲んじゃった招待客の話をしたでしょ。

あれね、私の話なの。とある子爵家の晩餐会に招待された時のことよ。ボウルに綺麗な花びらが浮かんでたわ。水も透明でとっても素敵だったの。私、世間知らずだったから手を洗うものだって知らなかったのよ。


周りの客には嗤われたし、旦那様にも叱責された。惨めだった。

でもね、ホストの男性がボウルの水を飲んだの。これが当家のルールですって。とても勇気がいったでしょうに、私が恥をかかないようにしてくださったのよ。

私、救われた思いがした」


 いつの間にか外面を取り繕うことにだけ固執して忘れていた、と夫人はぼんやりと呟く。


 吉田は彼女が由緒ある貴族だと思っていた。立ち振る舞いに品があり、使用人たちへの指導も的確だったからだ。

 でもそれらは全て、彼女が馬鹿にされまいと歯を食いしばりながら身につけたものだった。生まれながらに獲得していたものでなく、後から学んだものだから、他人に教えることができるのかもしれない。


 吉田は、彼女の思いを忘れないようにしたいと思った。

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