第3話 エーギルの館

 火のないところに煙は立たない。世界が煙にまかれて暗黒に落ちるまえに、もうひとつ火種のことを話しておこう。


 カデシュの戦いから数年後。


 イザリースからアマゾンの海を巡った先にフリズスキャールブがあった。アースガルドと呼ばれるは悠久の歴史に霞む都市のことだ。この都市の一角において、一年に一度、あるいは有事の際に神族が顔を合わせるのは恒例となっていた。


 今宵もまた、エーギルの館において天上界の住人たちが集められる。


 エルフやドワーフを交えて議論される話題は、ユグドラシルと呼ばれるところの下々の国のことだった。

 麦畑が枯れれば、新しい種を携えて天上界より天使を遣わそう。

 湖が干上がれば、空に水を蓄えて天使たちにそれを運ばせよう。

 戦争が起きれば、これまた平和になるように天使たちが説得にでかけようと言った具合で、多くの民族がそこでは創造主を取り囲んで相談ごとをしている。


 ただその日は、いつもと違っていた。


「こんなのはもう終わりにしよう」

 会議を中断させるようにして、美麗な少年がテーブルの上に腰をのせてきた。

「ポラリス」と名前を呼ばれた少年は黄金色の髪の毛をかき上げて、どこか女性を思わせる横顔で喋る。


「周囲の連中を助けてやってもきりがない。食べものをやればそれを当然のように要求するようになるし、縁を結んで結婚させても浮気はするし、知恵を教えればそれを利用して反逆してくる。必要なのは支援じゃない。支配だよ。僕たちで人間を支配するんだ」


 これを聞いてエーギルの館は騒然となった。


 ある者は、

「それは人道に反する。イザリースには王はいらない。王がいないからこそ、神の前に人は平等でいられるのだ」と正論を言うが、

「ああ、君はこないだ召使いを殺して庭に埋めていたっけ。僕、あの庭を掘り返しちゃったんだよね?」

 こう切り替えされては青ざめるしかない。続く言葉がない。


 ある者は、

「いきなり何を言い出すの。バカみたい」と罵倒したが、

「そういえば、君は小麦で商売をしているようだけどさ。農家の人を脅して小麦を集めていたでしょう。あの家族さ。食べるものを全部君にとられてさ。食べていけないからって子供を山に捨てていたよ。可哀相にね」

 そんなことが創造主に知られれば大変なことだろう。そんな目で、ポラリスは笑い返す。


 こうなっては、もう誰もポラリスの言葉を遮ることができなかった。

「ほら、みんな裏切り者さ。エデンがこんな汚い世界だなんて、先代のイザナギも泣いていることだろうね」

 ポラリスは最後には、創造主に向かい合った。


 イザナミを継承した乙女は、常に人の中心にいた。周囲の人間がポラリスに道を譲れば、彼は必然とそこに辿り着くことになる。

「君だってそうだろう。イザナ。人間の本質は醜い」

 ポラリスはイザナミをイザナと呼ぶ。


 イザナミは強い目で返事をしていた。

「ポラリス。人は誰でも過ちを犯します。わたしは彼らが正しく生きることを望んでいるだけです」

「正しいって何さ。それを君が言う?」

「正しくありたいから言うのです」


 これにはポラリスも困ってしまう。毅然とした彼女の醜い部分を晒そうと口を開いてみても、

「君にそんな資格があるのかな。うーん」

 考えたところで、「だってイザナ、君の肌は白くて雪のようだし、唇はバラのように赤くて、僕なんかが触ろうとすれば、周りの棘が飛んできて血まみれになりそうだし。その黒い髪は僕の目を惹きつけてやまないよ」まったく悪口にはならなかった。


 創造主の唯一の弱点は彼女が創造主だという点だ。創造主は想像神話以外を持たない。つまりは、敵と戦うことがない。悪魔が彼女を叩けば彼女は叩かれるままのはずだが——。

 だが、その横にブラギのオーディンがいる。

 ブラギを継いだブラギダスティはイザナミと同じ歳で、まだ若い戦士だった。だがその歳でアースガルド最強の槍使いと絶賛される男だ。


 力に訴えれば、すぐにオーディンの槍がポラリスを貫くだろう。バラの棘よりもそれは凶悪に違いない。


「だけど」

 ポラリスはまだ諦めなかった。彼女に弱点がもうひとつあるとすれば、それは、「君の弟」のことだ。彼女の弟は彼女の弱点になる。

「あの子は関係ありません」

「あいつは駄目だね。オーディンなんて呼ばれているけれどさ。持っているケニングは暴走ストーム? なんていう冗談だっけ。あいつが通ったあとはいつも嵐の後のようだっけ? 壺割ったり、机を叩き切ったり、花壇も踏み荒らしたんだってね」

「……」

 イザナミは静かだが、その心がざわつくのは誰にも感じ取れた。


「カデシュの戦いの時も、あいつが勝手に飛び出していったんだって? まったく迷惑な話さ。アーセナちゃんと一緒に戦場に出てきちゃうなんてね。ガキのくせにバカ。もう少しでみんな死ぬところだった。そうだろう」


「何が目的でしょうか?」

 イザナミはため息をついた。ポラリスがこんな話をする理由がわからない。


 さてここでポラリスは逃げることになる。

 なぜなら、ここまで沈黙していた将軍が口を開いたからだ。


「貴様は、さっき終わりにしようと言ったが、どうやって何を終わらせるつもりだ?」

 末席に座っていたのは、ブラギダスティよりも一回り大きな体格の偉丈夫だった。光を孕む髪は同じように輝く鎧の上で天使の羽のように広がっていた。フレイ、ユングファ将軍と言えば知らぬ人もいないだろう。


「なんのこと? 今は暴走ストームとかいうバカのことを——」

 ここでポラリスは茶化してみるが、すでに彼の退路は断たれていた。


「さっきからイザナミを殺す機会を窺っているだろう。貴様の目的はそれか。なぜ。いや、貴様に聞いても拉致があかない。誰の差し金だ?」

 それがフレイ・ユングファ将軍の口から出た時、


 ブラギダスティの目の色が変わった。片目を失っているからこそ、もうひとつの目が彼の感情の全てだ。


「なぜ逃がした?」

 フレイ・ユングファ将軍の最後の愚痴は、ポラリスに逃げられた後にある。


 ポラリスは、「残念。僕の神託では、創造主は今宵死ぬはずだったんだけどね。どこで間違えたかな?」と逃げる最中にも馬鹿げた口調が止まらない。だからこそ、余計にフレイ・ユングファ将軍の声が荒ぶった。


 ポラリスが潜った扉の番をしていたのは、

「ヴァルキリー総長代理」だ。


 白銀の鎧を纏った少女らしき戦士は、フレイ・ユングファに迫られてとぼける声を出す。

「あら、あたしはちゃんと門番してたわよ?」


「奴はイザナミに殺意をもっていた。ここで捕まえる必要があったのだ」

「悪いけど、あたしはそういうのに興味ないの。だいたいポラリスは口だけで他に危害を加えてはいないわ。口からでた言葉なんて千差万別。受け取り方次第でどうにでも変わるものよ?」

 ヴァルキリーの総長代理だった戦士は手をあげて、「ポラリスもそうだけど、あなたと争うのもあたしの趣味じゃないわ」とフレイ・ユングファ将軍を退ける。


 この日のことはそれほど大きな事件としては扱われなかったが、

 ただこの時から確かに世界は狂っていた——。

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