第2話 平和条約締結
カデシュの争いは、長らく一進一退を繰り返す攻防になっていた。ついに終結の時、
アリーズは落胆することになった。
クジャ王子に言わせれば。
「俺たちは勝っていた。やはりアリーズは天才だ。なのになぜ負けなければいけない」という言葉になる。
その報告がもたらされたのは、戦争に傷ついた兵士が数多く横たわるヒルデダイト軍陣営でのことだ。朝とも夜ともわからない薄暗い空の下で、戦車を動かす準備をしていた兵士たちにまじって、アリーズもそれを聞くことになった。
「国王ムワタリ様が停戦の指示を出したということです」
さすがにアスタロトの情報は早い。
「ミツライムと停戦出来るとは思えない。僕たちはお互いに今日まで兵士、いやお互いの友人や家族を殺し合ってきた。クジャ王子を見ればわかるだろう。誰もこの怒りを抑えられない」
アリーズは、「どういう経緯だ?」とそれを問う。アスタロトの笑い顔はまさに聞いてくれと言わんばかりだったからだ。
「イザリースですよ。第一王子のラバシリがイザリースに駆け込んだそうです。イザリースといえば、アースガルドとヴァナヘイムの戦争でも平和条約を結ばせています。あそこならば、どんな大国をも鎮めることができると踏んだのでしょう」
「イザリースか。だがあそこがエデンと呼ばれたのも遙か昔のことだ。未だにその権威があるとは思えない」
「ヒルデダイトはべったりですけどね。イザリースの属国に加えてもらって創造主から火の神を戴いたとか。歴史からみると最近の話です」
「相手がヒルデダイトであれば、イザリースに権威があるのは認める。だが相手はミツライムだ。兵士たちには気をゆるめるなと伝えておけ。事態が好転しない場合、わかるだろう?」
「先手を取るのでしょう?」
「そうだ。我々はこの戦、勝てる」
アリーズは、この和平交渉はうまくいかないと思った。
ただ歴史の流れは速い。
早朝になれば、また景色が変わってしまう。
「アリーズ様」
アスタロトが声をかけてきたのは、戦闘装束で馬車に乗り込んだアリーズが、その体勢でクジャ王子と雑談していた時だった。
「アリーズ様の祖父殿がきていて、アリーズ様を探しています。どうなさいますか」
というのが問題の事件だった。
「どこに来ているというのか。ヒルデリアか? 祖父はイザリースにいるはずだ」
「だから、そのイザリースの連中がこの戦場に来ているんですよ。アリーズ様がここに来ていると聞いたようで、アリーズ様の心配をしているようです。アリーズ様の妹君もご一緒で……」
「まさかこの戦場に来たというのか?」
アリーズはそれを聞いて、戦車を「出せ」と命じた。
「おいおい、ミツライム軍はどうする? 戦車部隊全軍でいかないのか? 俺たちだけでは戦争はできないぞ」
とクジャ王子が駄々をこねる急な展開だった。
「祖父とアーセナを迎えに行きたい。少しの間、戦車を借りる」
「もしこれが敵の罠だったらどうする?」
クジャ王子は問うが、
「それを確かめる必要がある」
アリーズは迷わなかった。
なぜなら
「罠なんてありませんよ。イザリースの連中に成りすますなんてミツライムの連中にはできませんからね」
アスタロトが言う通りだからだ。罠はない。もしミツライム軍がイザリースを演じたとなれば、イザリース本国も黙ってはいないだろう。ヒルデダイト軍と戦争中のミツライムがここでイザリースをも敵に回すとは思えなかった。
本物のイザリースが絡むとなれば、ひととき停戦状態になるだろう。
アリーズが戦場の中心で見たものは、
平和条約が締結される光景ではなかった。
その戦場でミツライムのファラオと、ヒルデダイト国の王が対面し、平和を約束したことは事実だ。だがアリーズの目に焼き付いたのは、そこに至るまでの光景——。
「戦争は駄目」
幼い声でアーセナが叫んでいた。両手を広げてなんとか身体を大きく見せようとするが、子供の声は届かず、その姿は戦士達には見えないかのようだった。
見えていたのはアリーズとイザリースの天使たちだけなのかもしれない。
アリーズは戦車を降りた。咄嗟にアーセナに寄り添おうとしたが、アーセナが居る場所こそ戦場の中心だ。
可愛い妹が敵兵の脅威にさらされている。
「イザリース? そんな国は知らねえ。俺たちはヒルデダイトの連中に兄弟を殺されている。かばいだてするならば、それは俺たちの敵。ミツライムの敵だ」
ミツライムの褐色の筋肉を鎧のように着込んだ戦士がアーセナのいる丘にあがっていた。鉄の鎧を着込んだヒルデダイト兵士が、彼の前ではまるで骨と皮のようにも思える、そんな大男だ。
「あれがミツライムの神か」
そう思えばこそ、アリーズはそれ以上近くづくことができなかった。男の太い足が大地を踏みしめる、その反動だけでアーセナも自分も潰されてしまいそうだった。
目の前で純真無垢な妹が殺される。何の罪もなく、ただアリーズを兄と慕っていただけの妹が、神の敵だというだけでだ。
守りたくても動けない。これほどの絶望があるだろうか。
「戦争は駄目ぇ」
ただ独り、アーセナが気を吐いていた。
いや、もう一人子供と思われる小さな剣士がアーセナの横にいたかもしれない。だがそんなことはアリーズにはどうでも良かった。
異国の屈強な男たちに囲まれて、ただひとり、少女だけが平和を訴えていた。アーセナの横には少年剣士がいたがその姿勢はどこか不安げだ。子供がふたり戦争に迷い込んでいるだけ——。
「何を言っても無駄だ」
そんな言葉でアーセナを叱咤したのは第一王子ラバシリだった。「同じ人間のように見えても文化や言葉が違う。人間であることもあれば獣でもあることもある。獣ならば、どんな言葉も通じない」それが大人の言い分だ。
「でも」とアーセナは言うが、
「理想は誰にでも描ける。だが現実は違う。そのことを知りなさい」
これがラバシリ王子の、アーセナを泣かしたひと言だった。深い意味があるとは思えない。ただアーセナがそこに留まれば、確実に次の瞬間踏みつぶされていただろうことは確かだ。
アーセナは敵に囲まれ、味方に叱られて、泣いていた。
気がつけば、アーセナの横にいる少年剣士もだ。子供ふたりが戦場に立って泣いているのは滑稽な景色だ。
その二人で戦争を変えられる、歴史を変えられるとでも思ったのだろうか。
いつかのアリーズも同じように思ったことがある。しかし現実は過酷だ。
そんな子供がいるならば、叱る声が大きくなるのは当然だろう。
大人の声がアリーズにも痛い。クジャ王子から離れてしまえば、アリーズとてただの学生だった。そして戦車を降りれば、武器も持たない学生だ。
「あとは俺たちに任せろ」
と、ラバシリ王子が騎士たちを率いた先で言えば、アリーズに出る幕はなかった。さらにラバシリ王子が連れて来たイザリースの使者たちがアーセナを囲むように出ればなおさらだ。
白いドレスを着た乙女がドレスよりも白い頬をあげて、ミツライムの戦士たちを睨んだ。彼女は創造主だ。アーセナの頭の上から、子供を叱るでもなく声をかける。それだけで、殺気立った空気がどこかへ消えたような気がした。
「あなたにも望む未来があるのでしょう。ですが、それを実現するにはまだ足りないのです」
そんな言葉が風に乗った。
乙女は「知恵を求めなさい」とだけアーセナに呟いた。
さて、アリーズが知っている事件の顛末はアスタロトが語る内容とは少し異なる。
アスタロトは、
「太陽の剣」を語る。
創造主であるイザナミは、迫り来るミツライムの戦士たちの前で天剣を抜き放ったと言う。それは天上の太陽をおしのけて、地上で輝く二つ目の太陽だった。
「下がりなさい」
というイザナミの警告を無視して腕をふりあげた戦士は直後に絶叫した。神と言われるまでに鍛えた二の腕は、木こりが斧をつかっても切り落とすのに二日はかかるほどの太さだ。この戦士の腕が、太陽の光でかき消えた。
「野郎どもうろたえるな。突撃だ」
怒り狂った戦士が後続に攻撃を促したところで誰も動けない。
「ジャッカル、お前の矢で神の怒りを教えてやれ」
そのように呼ばれて出てきたのは、ジャッカルの頭をした戦士だった。長い腕をムチのように唸らせて弓に矢を番えれば、常人では引くことさえできない大弓が簡単にしなっていく。誰もがそこに神を見ただろうが、それは太陽がでていなければの話だ。
ジャッカルは弓から矢を外していた。
理由は簡単だ。
「太陽に弓矢を射たところで届かぬ」
これがミツライム軍の最後の抵抗だった。
後日になってアスタロトが振り返るのはそのことだ。
「太陽の剣です。あの光が世界を満たしたんです。創造主の前では誰も戦争なんてできません」
アスタロトは、「結局ミツライムのファラオ、ラメセス二世とヒルデダイト王との間で平和条約が締結されました」と顛末をアリーズに語ってくれた。
「戦争は終わりです」
それがアスタロトの語る事実だ。
対してアリーズの知る顛末は、混乱する雑踏の中にある。
アリーズが覚えているのは、ただただ押し寄せる敵兵の前で泣いているアーセナのことだ。優しく美しい妹が、なぜ泣きながら過ごさなければならないのか。幸せになるために生まれてきた最愛の妹が、なぜ苦しまなければならないのか。
今日の戦争は終わったかもしれない。だが全てが始まりにしかすぎないことをアリーズは知っている。力を持った人間はいずれ欲を出して全てを欲するだろう。
「戦争は終わりだ」と兵士達が叫ぶ中、戦車に戻ってみれば平和を歓迎する声などは聞こえなかった。
「俺たちは勝っていた。あのまま続けていれば勝てていたんだ」
悔しそうにクジャ王子は、遠間にラバシリ王子を睨んでいた。「第一王子だの俺の兄だのと言って調子に乗りやがって。俺にまかせてくれれば、ミツライムの奴らなんて皆殺しにできたんだ」それはアリーズにも共感できる言葉だった。
「ミツライム陣営は力でヒルデダイトを落とせないとわかって、戦略を変えてきたにすぎない。平和の陰に隠れて、彼らはより力をつけてくる」
それが危惧される未来だった。
「今日までヒルデダイト国はミツライムと戦ってきた。勇者たちの命を捧げ、戦士の屍の上で俺たちは剣を握り続けてきた。彼らは一体何のために死んだ? 俺は見たぞ。アリーズ、お前の妹だって泣いていただろ」
クジャ王子は、それは敵があるが故だと主張した。「敵を許してはいけない。俺たちは一生怯え続けなければならなくなる。異国の怪物たちに怯えて暮らすために俺たちの兄弟は生まれてきたわけじゃない」ここに怒気が含まれた。
アリーズは頷く。
しかし、
一瞬だけ脳裏に、アーセナの横で泣いていた少年剣士の姿が見えた。怯える表情ではなかった。ただアーセナを守ってそこに立っていただけの、それはアリーズにも理解できない存在だったかもしれない。
アリーズは些細な雑念だと首を振る。具体的に戦略を考えたところで、今は学生の身分で、何もできないことを知った。
「平和条約などみせかけだ。イザリースの連中はわかっていない。彼らの目を盗んで多くの国が不正をやっている。いつかもっと大きな戦争になるぞ」
アリーズは、これを悔しいと答えた。
青銅器時代の終わりの幕開けだった。
神の国と鉄の国の大きな戦争はこうして幕を閉じたが、
それは世界中を巻き込む世界戦争の序章にしかすぎない。
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