第5話 青い童話


 不意打ちのようにその皇子さま、という言の葉が甘く、甘く熟れすぎた杏のように切なく感じる。




 私の地元に伝わる、太古の伝説が急にロマンチックな青い童話へと色めいていく。


 散々、地区のおばちゃんやおじちゃんから聞かされた、伝説だ。


 お伽の国の皇子さまも今の君のように深く、湖の底が割れるまで懊悩されていたんだろうか、とふと思う。




「狭野尊の伝説でしょう。お父さんから散々、聞かされたけれども、あんまりしっくりこないの。こんな田舎でそんな逸話があったとも思わなくないけれども、おじちゃんたちは熱心に話すよ」


 まさか、その伝説がぞっとするほどの哀しい秘話が含まれているなんて思いもしなかったけれども、それは君には言えない。


「小学生の頃、地区のおじちゃんたちが紙芝居で教えもらったら、お兄ちゃんが『女装している! 皇子なのに!』と叫んだことしか覚えてないな」




 お兄ちゃんは中学受験する前はただの能天気な男子だったのに中学受験してから私の家の空気はたちまち、険悪になった。


「出口に彫像があったでしょう。私、あの像を女の子の像だと思っていたよね。昔の人は男でも女でも髪の毛を伸ばしていたんだね。私はショートカットのほうがいいな」


 君は不適に笑みを零した。


「真依ちゃんは女の子らしい髪形も似合うよ」


 嘘だ、と私はばれないようにひそひそと口から洩らす。




 私に似合わない。


 小さい頃には髪の毛は長くしていたけれども、クラスメートから大いに茶化され、お兄ちゃんからもお前は男みたいなのに長くして、つまらん、と指摘されてからから、我を張るようにずっと、短くしたままだ。




「お兄ちゃんとゴーカードに乗って遊んだこともあったけど、お兄ちゃんが中学受験のために塾に行くようになってからは遊んでいないの」


 話題を変更しよう、と苦戦した私のそれなりの返答だった。


「僕も高学年になれば、ほとんど塾にしかいなかったから、こんなところでのびのびと遊びたかったな」


 塾通いか。


 お兄ちゃんだけ、中学受験に参戦したから、その苦悩は何となくだけど、想像できる。




 お兄ちゃんは都城(みやこのじょう)市内の塾に約四十分もかけて塾へ通い、中学受験した結果、不合格となり、渋々、高原中学校に通っている。


 幸い、不登校にはならなかったものの、悔しさを加速させたように四六時中、机にカリカリと向かっている。


 今のお兄ちゃんの第一志望校は何と鹿児島県にある、全国的にも有名な男子校だった。




 君は私の家に居候する前、福岡の私学に在籍していたようで、身に纏っている学ランもその私学の制服だった。




「この公園の下に滝があるの。皇子滝」


 朽ち果てた、石畳みの階段をゆっくりと身を構えながら、下りて森の底を歩く。




 色のない、涼やかな風が照葉樹林を包み込み、紅葉はまだ、本格的には始まってはいなかったけれども、暑さは和らいだ、と確実に伝えられるまで葉脈が変色しつつあった。


 岩清水が勢いよく流れる、縷々とした水音がここまで聞こえる。細かい水泡と流れの速い水域が触れ合う大きな音。




「ここの下に滝があるんだ」


 皇子滝まで行くには、長い石畳みの階段を注意しながら、下りないといけない。


 膝頭がじりじり、と微妙な痛みを覚えた。




 霧島山から湧き出た、真水が黒い岩から流れ、急峻な川岸にはたくさんの石が落ち、よく見ると、火山地帯の証でもある、軽石もあった。




 この滝から溶岩が流れ出た、悠久の歴史をつぶさに物語っていた。


 肌触りの良いクッションのような、ふわふわの緑苔も生え、皇子滝から砕け散った、目映い雫が極彩色に光る。




「気持ちがいいよ。いいね、こういう場所は」


 小学生のときからここは何度も訪れ、顔なじみの場所だったけれども、君となら来て良かったな、と素直に思えた。


 白い飴玉を紐状に伸ばしたような、水が滝壺に落ちていく。




 穴の底は控え目に言わなくても、相当深いだろう。


 水面も暗緑色で、古びた杉の大木が大胆に奥部を裂きながら垂直に折れ、谷底にある、皇子滝を跨いでいた。


 滝壺は凄みのある、濃藍色で一瞬、その底知れぬ、深さを目前で感じ取れ、しかし、水流は踵を返すように奥底を見えなくしていた。




「ここで水浴びをしていたんだって。その皇子さま」


 私もここでお兄ちゃんと遊んだことがある。


 石蹴りをして、暗くなるまで遊んだ。透明な水が背中を叩いたときの、清々しさはやってみないと分からない。




「ロマンチックだね。こんな森の中で。水もすごく綺麗だよ」


 今でもこんな山奥なんだから、サバイバルハンターみたいな感じだったんじゃないかな、と正直なところ、そんな的外れた感想が浮かんだ。




「お兄ちゃんとキャンプしたことあるけど、大変だよ。本当にサバイバル生活なの」


「いいね、家族でキャンプか。真依ちゃんは仲のいいお父さんとお母さん、お兄ちゃんと幸せに生きてきたんだね」


 水飛沫が頬に当たり、哀しい水を浴びた、秋の風が背中を押してくる。




 晩秋へ誘おうとする、木漏れ日が溶けた、水晶の屑のような雫に乱反射し、透明度の高い濃絵硝子(だみえがらす)のエメラルドグリーンが生まれた。




「真君は最近、何の本を読んだの?」


「何も読んでいない」


 声は小さく、夜露のように消え、葉裏が無造作に擦れる音が耳の中に木霊し、夕方の到来を告げた。


 皇子滝も白い靄がかかり始め、次第に夕靄から夜霧へと誘われつつあった。


 帰らないと迷子になってしまう、という恐怖感が胸に宿り始め、私はその場で棒杭のように立ちすくんだ。




 ここは森の底だ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が襲来し、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を奮いながら、異界へさ迷う黄昏時、私は待ってよ! と叫んだ。




 もう、遅かった。


 まばたきを繰り返す間もなく、君は山道なのに突風のように走っていった。


「僕は常世の国(とこよのくに)へ行くんだ。今から」

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