第7話 名前を呼んで

「えっと、今日は如何されましたか?」


「今日は……」

 言葉を押し殺してじっと木掛さんを見つめた。

 木掛さんは続きが気になるように、のどを鳴らす。


「資料だけをお届けにきました」


「そ、そうですか」木掛さんは、無駄な緊張から解き放たれたように頬を緩ませる。「それではお預かりさせて頂きますね」

「こちらのパンフレットを商品バイヤーにお渡しください」

「では、今日は入館はされないということでよろしいで……」


「木掛さんっ!」


 緊張のあまり彼女の言葉を遮るような形になってしまった。


「は、はい。なんでしょうか?」


「これもお渡しください」内ポケットから名刺入れを取り出すと、スッと彼女にわざとらしく見えるように名刺を渡した。「『グローブ製薬の営治』です。名刺にアドレス、携帯番号が入っています。どうぞ商品バイヤーにお渡しください」


 丁寧にお辞儀をしながら、この前のカナコとのやりとりを思い出す――。



 ◆◇◆◇



「ようはね、相手に印象付けなきゃ、なにも始まらないじゃない。まずはそこからよ」


 確かに。これは営業の基本中の基本。

 とにかく商品よりも、自分を売る。全てはそこからなのだ。

 相手の好感度を上げるには、相手の要望に応えるのが一番の近道だが、そもそも顔すら覚えてもらえなかったら要望も何もやってこない。

 まずは顔を売り、最低限、自分を認知してもらうことから始まる。

 現に、カナコは出会った当初から強烈なインパクトを与えて、強引とも言える『カナブンの妖精設定』を反論の余地すら与えず、押し通してしまったわけだ。


「じゃあ、名刺でも渡せばいいのかな?」

「だめだめ」わかってないな~コイツと言わんばかりに砂糖水をぐびっと飲む。「ほら、おかわり」

「は、はい」

「ぐずぐずしない。そういうとこ木掛さんに見られてるよ」


 こいつ……。


 すでにカナコに提供した砂糖水はコップ五杯に達していた。空になる度にイチから作るのが面倒くさいので、今度はコーラでも買っておこう。とにかくカナコは甘い水が好きで、ごくごく飲む。ここまでくると、頑なに自分に課した設定を守っているのでなく、本当にカナブンの妖精なんじゃないかと疑いたくなる。


「いきなり名刺なんて渡したら、なんかこの人勘違いしてるかも、ちょっとうざいって思われちゃうじゃない。ノンノンよ。そんな直球勝負は今じゃないな。タイミングが大事よ」

「じゃあ、どうやって自分を売るのさ?」



「名刺を渡せば簡単じゃない」



 ずこーっとこけそうになる。さっき、ノンノンとか言っていたのは誰だよ。


「ノンノンよ。どうせ、『今、さっき名刺渡すのはノンノンって言ったじゃん』って思ったでしょ?」

「はい」思ったけど。

 ふっとカナコは呆れたように髪を揺らす。金髪から覗く翡翠のイヤリングがちらちらと妖しく光った。

「名刺をね、彼女に渡すんじゃなくて、彼女を経由して、なんとかバイヤーに渡せばいいわけさ。そしたら自然と名前を憶えてもらえるでしょ」


 な、なるほど! 


 まさに盲点。そんなうまいやり方があったとは。ものは考えようとはまさにこのこと。

 どうよとカナコは得意気なご様子。

「これを毎日やってみてよ。そうしたら、向こうだっていやでもエイジさんの顔と名前は一致するはずだよ。あとね、必ず彼女の名前を呼ぶこと。名前ってね、呼べば呼ぶほど、呼ばれてる側からすれば、その人に親近感をもつものよ」


「わかりました」

 いつしか、カナコと俺は、恋の教授とその生徒という構図になっていた。

「だから、わたしのことも名前で呼んで。わかった?」

「はい」

「はい、じゃなくて、カナコちゃんってね」

「はい、カナコちゃん」


 俺から名前を呼ばれると、カナコは少し照れたようにコップをくるくる回した。コップに注がれた砂糖水が縁の周りをいったりきたり揺らいでいく。


「まあ、なんだ。やっぱり名前で呼ばれるのはいいもんだね。ねっ、エイジさん」


 彼女からそんなこと言われると、名前で呼ばれるのって素敵なことだと思ってしまった。いいもんだな、名前って。でも、あんまり自分の名前でいい思い出はないけどな。なんせ、名字と名前が紛らわしいし、名前っぽい名字だし。それで――。


「ねーねー、カナコって名前どう思う?」

「どうって」

「ありきたりすぎた? カナブンだからカナコ。まんまかな」


 まんまと言えばまんまだが。


「でも、それって親から名付けてもらったんでしょ?」

「うーん。親はいないかな」

「いない?」

「うん。見たことない。土の中にいたしね。栄養のある土や落ち葉とか食べてたよ」


 うーん、少しこんがらがってきたぞ。今一度、確認しようか。


「えっと、カナコは子供のころ土の中にいたの?」

「そうよ。だって幼虫だし。てゆうか、もうカナコって呼び捨て。早くない?」


 キャっと頬を赤らめたカナコと、唖然とするおれ。


「人間になったのって、いやいや妖精になったのっていつなの?」


 うーんと彼女は小首を傾げる。「言われてみたらいつからなんだろう」


「ええっ? わからないの」

「うん。知らない」

「じゃあ、なんで人間の形というか、妖精っていうか、そんな風になっちゃったわけ?」


 いつの間にか彼女の妖精設定に納得しつつ、疑いつつ、いや信じてあげねば可哀そうだと思う良心と、いやいや、んなアホなと思う常識とのせめぎ合い。ああ、なんでこんなことで思い悩んでしまうのか。

 この根本的な問いかけに彼女はゆっくりと目を閉じた。何か思いを巡らしているように眉間に皺を寄せて、深く考え込む。そして辿り着いた答え。それは――



「なんかね、から、いきなり人間みたいな感じになったのよ。まあ人間じゃないし、じゃあ妖精かなって、そんな感じ? んで、名前ないのも変だし、じゃあカナコって決めたよ。つまり、名付け親はわたしなのさ」



 そんなもんよとにっこり笑って胸を張る。


 日本語って便利だよな。その、っていうのが一番重要なのに。



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