第5話 いじめられる原因

河田の声はいつもにもまして低く、落ち着いていた。目の前のさつきはまだ下を向いている。顔を上げるつもりもないのだろう。

「君らは、街金業者みたいだな。」

父親はお茶を一気に飲み干すと、立ち上がろうとした。

「学納金の担当をしてきて、教師がなぜこんなことをしなければならないのか、悩んだこともあります。誰もこんなこと好きでやっていません。担任の森川も、督促の電話をするときはきっと苦痛だったと思います。情けない思いは正直、今もあります。でもどうして最後までお願いに上がるのか。それは子どもさんの前で、ご両親に悪事を働いてほしくないからです。たまに最後まで払わず、踏み倒して卒業していく親子も他校ではいるようですが、大倉さんにはそれはして欲しくないのです。さつきさんは、今日で中学校の課程を修了します。彼女はほとんど中学校の教育課程を学ばないまま、卒業を迎えました。だからこそお父さんの方で、この娘さんの前でしっかり教えてあげてほしいんです。お金を支払わない行為は犯罪であること。悪事であること。いかなる理由があるにせよ、購入した物のお金は支払わなければならない。それを娘さんに体で持って教えてあげてほしいのです。それが中学校の過程において、娘さんが最後に学ぶべき課題なのです。」

父親は怒りで震えていた。その振動が娘に伝わったのか、さつきはようやく少し顔を上げた。

「何が体で教えてあげてほしいだ。さつき、帰るぞ!」

父親はさつきの腕を強く引っ張った。さつきが椅子から転げ落ちそうになった。楓は急いで、さつきの体を支えた。

「こんな卒業証書ホルダーもまんじゅうも要らん。」

「どうしても支払って頂けませんか?」

「支払う意味が解らん。うちの子どもは学校に行かなかったんだぞ。なぜ支払わなきゃならんのだ。」

立ち上がった父親に合わせて、河田も立ち上がり、視線を合わせた。

「学年会計の帳簿は合わせておかなければなりませんし、保護者向けに会計報告もしなければなりません。もし大倉さんが支払って頂けないのなら、業者に支払いができません。そのため、毎回真面目に支払って下さった生徒の保護者に向けて、追加徴収のお知らせを出さなければなりません。そのプリントを受け取った親は、真面目に支払っていたのに、なぜ追加徴収されなければならないのか、納得がいくはずがないですよね。ですから、そのプリントに大倉さんの名前を掲載してよろしいですか。大倉さんが支払って下さらないから追加徴収します、と記載してもよろしいでしょうか。本日こちらが提示した金額を支払って頂けないのでしたら、弟さんが所属していた一年の学年とさつきさんが所属していた三年の保護者さん全員に、この一文を記載した追加徴収のお知らせを出します。」

「今度は脅しか!」

父親が椅子を乱暴に蹴った瞬間、さつきが悲鳴のような声を上げた。

「お父さん、支払って。私もう嫌や。いじめられるの嫌や。弟も嫌やって言うと思う。また親のせいで、いじめられるの嫌やって。これ以上、この親の元に生まれてきたことを後悔させんといて。」

か細い声だったが、しっかりと周囲の大人には届いた熱。彼女はもう、うつむくことはなかった。

父親は血管が沸騰しているような唸り声を上げた。そして鞄を弄り、財布を取り出し一万円札をテーブルに叩きつけた。

「おつりの五〇〇円です。」

「要らんわ!」

河田が差し出した五〇〇円を受け取らず父親はさっさとコートと鞄を持ち、図書室を後にした。さつきも立ち上がり、コートと卒業証書と鞄を持った。

「ねぇ、フィリピンに本当に行くの?」

私はさつきの背中に声をかけた。

「母親は一年前にフィリピンに帰りました。私はどうするか、決めていません。」

彼女は振り向かずに答えた。河田はさつきに近づき、彼女の左手に父親が受け取らなかった五〇〇円玉を握らせた。

「あなたの逃げ道は、フィリピンまでは続いていませんよ。何かしたいことが見つかったら、学校に連絡をして下さい。このワンコインはそのときの電話代に使って下さい。ここはあなたの母校です。遠慮しないで。」

 さつきは手のひらに乗せられたワンコインを、しばらくの間凝視していたが、父親の怒声が廊下から聞こえてきたのを機に、すぐにポケットにねじ込み、逃げるように図書室から静かに去っていった。

さつきは絶対に電話はしてこないだろう。でもあのワンコイン。彼女は使用しないと思う。お守りのように大事に取っておくんじゃないかな。これは教師の直観だ。


 私はテーブルの上を片づけながら、予てから河田に対して疑問に思っていたことを何気なくぶつけてみた。

「河田先生。先生は時として、今日のように大変毅然とした強い姿を見せてくれます。でもどうして、鎌田先生の前では口が取られた餓鬼のように黙りこくったり、小さくなるのですか?先生がなさってきたことは間違っていないのだから、いつも言い返せばいいのにって、歯痒く思う瞬間も、いっぱいあったんです。」

河田は片づけの手を一旦止めて、ゆっくりと振り返って私を見た。

「私はね早く死ねばいい、とか、どうでもいいと思っている人間の前では、意識して完全にシャッターを下ろすようにしているの。一度、脳内の操作ミスで、心の声の音声がON状態になっているのを把握してなくて、そのまま放送してしまってね。まぁ言っちゃったってことよ。そしたら周囲の人、唖然としちゃってね。それで前任校で居づらくなっちゃって異動希望を出したの。シャッターを上げていると、また殺人予告しちゃうわ。危ない、危ない。」

そう言うと、河田は声を上げて笑った。河田に対して抱いていたイメージからは想像できないような斬新な言葉を耳にし、私は思わず、つられて笑ってしまった。


図書室のストーブと電気を切り、窓の方に目をやった。ぴたりと閉じたカーテンの裏側が白く底光りしたようになっている。まだ雪は降っているのだろうか。

私は逃げるように去っていったさつきの背中を思い出していた。


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