真白の恋

紫月 真夜

人魚の涙

 ぽたり、ぽたりと頭上に雫が落ちる。突然降り始めた雨。折り畳み傘は家に置いてきた。急いで屋根のある場所を探すが見当たらない。今日一日ついてないな、と沖野真奈はため息をついた。

 朝折り畳み傘を鞄に入れ忘れたのは全て寝坊のせいである。昨日目覚ましをかけた気でいたのに、携帯の充電が切れてしまっていたのだ。母にたたき起こされ、口にパンを突っ込み急いで家を出た。もちろんそんなだから今日提出の課題も家に置き忘れ、休み時間ごとに先生に怒られては謝る一日。

 真奈は精神的に強いタイプではない。典型的な自己肯定感が低い人間だ。そんな人間が何度も先生に怒られて耐えきれるだろうか。答えは否。

 昼休み、真奈は空き教室に逃げ込んでいた。言わずもがな先生に説教されるのに耐えられなくなってである。一人の時間が精神を落ち着かせる。どうして携帯を充電に繋がなかったのだろう。どうして課題をきちんと鞄に入れておかなかったのだろう。どうして――。

 自問自答するうちに己の不甲斐なさに視界がぼやけ始める。それが目から零れ落ちるその瞬間、それはこつんという音を立て床に散らばった。白く艶やかな光沢をもつ球体――真珠だ。真珠の零れ落ちる音がさらに彼女の思考を暗く染めていく。こつん、こつんととめどなく落ちる真珠に真奈の涙も止まらなくなった。

 真珠は人魚の涙とも呼ばれるが、真奈は決して人魚ではない。だがいつの間にか彼女の涙が真珠に変化してしまうようになった。それがいつだったか明確に記憶に残っているわけではない。ぼんやりと記憶にあるのは、小学生になってから起きるようになったということだけ。

 この症状を病院や何らかの医療機関で診てもらったことはない。親ですらも知らないかもしれない。というのも、こうなってしまってから真奈は人前で泣くことをやめた。研究機関をたらい回しにされるかもしれない恐怖か、泣いているところを人に目撃され軽蔑される恐怖か。いずれにせよ、真奈は人前で泣こうとは思わなかったし、泣きそうになったらすぐに一人になれる場所に駆け込んでいた。

 真奈が逃げ込んだこの空き教室もそういう場所の一つであった。たまにある授業でしか使われず、滅多に人がやってこない。そう思っていたのに。

 ガラガラと扉の開く音が響いた。聞こえるため息。入ってきた男子生徒と教室の隅で泣いていた真奈の目が合う。「え、泣いて……」と男子生徒が言った瞬間、真奈は教室を駆け出した。泣いているところを見られてしまった――そのことで彼女の脳内はいっぱいだった。幸いゴミ箱の前にいたため形跡は残っていない。涙も走っているうちに乾いた。だが懸念点はそれだけではない。真奈はあの男子生徒に見覚えがあった。

 あれはこの学校の次期生徒会長だ、と真奈は確信する。まだ一年生である真奈とは縁のない人だが、選挙のときは人を引き込む巧みなスピーチとそのかっこよさで全校生徒を魅了していた。真奈は学校の有名人である彼にこのことを広められてしまわないかと心配になっていく。

 そんな想像をされているとはつゆ知らず、高等学校の次期生徒会長である桜田湊は放心していた。……一目惚れだった。真ん丸に見開かれた目とそこから流れ落ちる一筋の涙、桜色の唇。そして、こぼれ落ちる真白の真珠。湊はつい先程まで彼女がいた場所に立った。コツリと靴に何かが当たる音がする。湊はそれを拾い、丁寧に鞄の中に仕舞い込んだ。


 次の日から二人の生活が劇的に変化した、というわけではない。ただ少し、ほんの少しだけ、関係性に変化が生じた。例えば、それは廊下で二人がすれ違うとき。湊が少しだけ歩くスピードを落として、彼女をちらちらと見るようになった。真奈はそんな彼を見かけるとすぐに顔を伏せ、早足で通り過ぎる。それを見た真奈の友達は彼女の様子を心配したし、湊の友達は彼の様子を茶化した。

 別に真奈が湊のことを意味もなく嫌っているわけではない。ただ、誰であっても知らない人が急に自分のことを見つめるようになったら怖がるだろう。ましてや、彼は真奈の秘密を知ってしまった。多少知っている人であっても近付きたくないと思うのは道理だ。


 そんなことが起きてから早数ヶ月。やはり何も進展しないまま、夏休みが明けて、体育祭の当日となった。

 すでに生徒会執行部の引き継ぎが済んだ湊たち新生徒会執行部にとって、これが初めての大きな行事であった。大体は体育委員会と運動部の仕事とは言っても、生徒会執行部が全生徒をまとめているのだ。前日までの企画や準備に加え、当日も挨拶や広報の仕事、その他何か困りごとがあったら動かなければならない。

 開会式。生徒会長のスピーチと宣誓で会場が盛り上がった。もちろん真奈も生徒に混じってそれを見ていた。周りにいる女子が黄色い歓声を上げているのが聞こえる。確かに顔だけで言えば、芸能事務所に入っていてもおかしくないような洒落ていて華やかな顔立ちなのだ。だからと言って絆されるわけではないが。

 湊は午後にある学級対抗のリレーに出場する。それまでは見回りのシフトが入っていた。まったく、生徒会執行部には休みがない。とはいえ、ずっと何かをしているわけではなく、競技も多少は観れる。

 例えば、さっきの障害物競走――真奈が出場していたから何が何でも見るつもりではあったが――は湊も観ることができた。普段とは違ってポニーテールにしている彼女は、見た目の穏やかさとは裏腹に意外と足が速い。それでも走る以外のことでは鈍臭いところもあるから可愛らしい。結果的に一位にはなれていなかったが、それでも上位に入っていたのでポイントは稼げているだろう。そういえば、彼女の汗は真珠にはならないのかとふと湊は疑問に思った。

 それにしてもお祭りというものは時間が経つのが速い。すぐに午前の競技が終わり、昼休みに入って午後になってしまう。学級対抗リレーは午後に行われる体育大会の目玉だ。配点も大きく、各クラスが足に自信のある者を出場させる。湊が入場門に整列していると、彼は真奈も整列していることに気付いた。彼女のクラスは他のクラスに比べて人数が少ないから、一人が何回も競技に参加しなければならないのだ。そうこうしているうちに、入場の音楽が流れ、駆け足で入場し、第一走者がクラウチングスタートの構えをとった。

 パーン、とピストルの音が響く。砂埃を立てて全員が走り出す。観客席からの声援。コーナーで追い抜き追い抜かれ、バトンタッチで少し手こずって、圧巻の走りを見せ。一瞬で終わったような気がする学級対抗リレーで見事一位に輝いたのは、やはり三年生のどこかのクラスだった。

 退場して、湊は喉が渇いていたので水を汲みに行った。草の生えた道を通り給水器の元へ向かう。予感しない人影。草むらの陰に真奈が座り込んでいるのを見つけた。熱中症だろうか、怪我だろうか。考え得る可能性を羅列していると真奈の眦からこぼれ落ちる純白のそれ。

 突如聞こえる男子生徒の叫び声。グラウンドの方角から数人の男子がこちらへ向けて歩いてきているのが見えた。真奈の隠し通したい秘密。真奈は男子に気が付いていない。湊の手にはまだ使っていない、カバンから出したばかりのタオル。湊は心の中で「ごめん」と呟いてタオルを真奈の頭にかけた。男子たちは何も気付かずに通り過ぎていく。真奈は突然のタオルの感触に驚いて恐る恐る顔を上げた。

「ごめん、見られたくないんだろうなって思って。それ、洗ったやつだから。えっと……」

 恥ずかしさのあまりすぐにでも立ち去ろうとする湊を引き留めたのは真奈だった。

「聞かないんですか? なんで私が泣いてたか」

「失礼かと思って。もし大丈夫なら聞いてもいい?」

 真奈は涙をタオルで拭いながら頷いた。湊は真奈の横に腰掛ける。

「障害物競争では勝ってたんですけど、途中で転んじゃって。そのせいで一位になれなくて。そのポイントがあったら全体で一位とまでは行かなくても上位に行けてたのにって考えると、みんなに何か言われるんじゃないかって怖くて」

 一度止まりかけていた涙がまた零れ落ちる。湊は一瞬の後、口を開いた。

「大丈夫だよ。学校行事っていうのは一人のものじゃない。敗北も、勝利も、どちらも一人のせいとかおかげじゃないんだ」

 湊はタオルで彼女の涙を拭うと、立ち上がって真奈に向けて手を差し伸べた。

「みんなのところに戻ろう。みんな君にお疲れさまって言いたいはずだよ」

 真奈は彼の大きくて力強い手を取った。途端、強い力で引き起こされる。真奈はお礼を言うとクラスのみんなのもとへと走り出した。もう彼女の涙は止まっていた。


 何かが変化する日は何の予感もなく突然訪れる。湊の告白で二人が付き合い始めたのはこれから遠くない未来のこと。

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