夏雨のラジオ塔に浮かぶ魂。

井黒 灯

夏雨のラジオ塔に浮かぶ魂。

三十歳を目前に、下腹が目立ってきた私は毎朝のジョギングを始めた。

私の性格上、一日のサボりが日課の崩壊に繋がることは目に見えていたので、余程の台風でもない限り、雨の日でもレンイコートを着てジョギングする事を己に課していた。


その甲斐もりジョギング習慣は長らく続き、季節が夏休みに入るとジョギングコースにしている大きな公園の広場では、いつの日からか近所の子供達がラジオ体操を始めていた。公園一帯にラジオ体操特有の爽やかな音楽と、子供達の若干眠そうな、しかし元気な声が聞こえてくる。


そんな子供達を横目に、私はジョギングを続けていたのだが。ふと、子供達が体操をしている広場の端に一人の老人が立っていることに気がついた。

八十歳前後に見えるその老人は、伸びる木陰の下で杖を支えに静かに運動する子供達を見守っている。その様子に別段怪しいといった所は無く、その日は気に止めず公園を後にした。


それから次の日も、そのまた次の日も老人は同じ木陰の下に立っていた。

老人は毎日同じ場所に立ち、何をするわけでもなく子供達を遠目に眺めているのだ。


その変わらない姿勢に若干の違和感を覚え、私は改めて老人を見る。すると老人の手には杖と一緒に小さい袋が握られていることに気がついた。

遠目なのではっきりとは分からないが、袋の中には個包装のお菓子がいくつか入っているようであったので、それをみて私は「ああ、あの子供達の中に孫でもいるのかな」と自己完結し、それ以上は何も考えず毎日のジョギングを続けることにした。


その日は雨が降っていた。

私は、ジョギング用のレインコートの上から一向に変化しない下腹をさすり、例の公園に入る。この雨でラジオ体操は休みらしく、公園の中では雨の音だけがしんと響いている。

いつものコースを走り、例の広場の前に差し掛かったところで私が無意識に広場を見ると、私は少し驚いた。あの老人が同じ位置に立っていたのだ。

老人は傘を刺し、いつも通り小さな袋を握り、杖を支えに木陰の下に立ち尽くして遠くを眺めている。もちろん公園のどこにも子供の姿はない。


流石に不審に思った私は公園を横断するいつものルートを外れ、老人の近くまで行ってみる事にした。


「おはようございます」

減速しながらそう挨拶する私に、例の老人は一瞬だけ目線を合わせ「どうも」と小さくお辞儀をし、また遠くを見つめる。霊的ものだったらどうしようと心どこかで想像していた私は、返事が帰ってきた事に軽く胸を撫で下ろし、そのまま老人の側で足を止めると再び口を開く。


「今日はラジオ体操お休みみたいですね」

挨拶だけでなく、見知らぬ他人に話しかけられたことに、その老人は少し戸惑った表情をしながら「そう、みたいですね」とだけ軽く返す。どうやらボケているわけでもないらしい。


私は、そこまで確認すると、これ以上心配するような事もなさそうなのでもう行こうかとも思った。しかし、相変わらず遠くを眺める老人の横顔がどうしても気になり、思い切って訊ねることにした。


「どうして毎朝ここに立っているんですか?」

私がそう言うと、老人は少し怪訝な顔でこちらを向く。


「いつもこの時間に公園をジョギングしているんですが。その、なんだか気になったので…」「そう、でしたか…」そんな歯切れの悪い会話を続けていると、ついに老人の方から口を開く。


「いえ、見ず知らずの人に話すような話でもないんですけどね…」

枯れた声でそう言うと、老人は背後を振り返り私に問いかける。


「この後ろにあるもの、何かわかりますか?」

老人が見つめる木の間には、3~4メートルほどの大きな灯籠のような建造物が枝に埋もれるようにして立っていた。正面に空いた穴は格子で閉じられ、頭頂部にはアンテナのようなものが伸びている。こんなものがあった事すら知らなかった私が首を捻っていると、老人は続けて話し始める。


「これはラジオ塔と言って、まだラジオが普及していなかった頃設置されたものなんです。今ではテレビや携帯電話が一般的になり不要なものになってしまいましたが、昔はここからスポーツ中継や民間放送が流れたんです。だから当時の私たちは、このラジオ塔の前に集まって色々聞いていたんですよ」

「へぇ…」と簡単に相槌を打ち、ラジオ塔と言われたそれを改めて眺める。


「このラジオ塔がどうかされたのですか?」

私がそう聞き返すと、老人は広場に向き直りまた遠くを眺め、語り出す。


「あれは私がまだ小学校の先生をしていた頃です。もう50年くらい前ですかね、このラジオ塔の下でラジオ体操の監督をしていたのですよ。このラジオ塔には毎朝ラジオ体操の音源が流れていましたからね。夏休みに入ってから毎日、教子の子供達を集めてはこのラジオ塔から流れるラジオ体操の音に合わせて体を動かし、集まってくれた子供たちにハンコをあげて菓子を配る。そんなことをしていたのです」


「その日もいつもと変わらずに、子供達を集めラジオ体操の音が流れ始めると同時に運動を始めました。すると、いつの間にやら私の生徒ではない子が混じってるのに気がつきました。その子は、他の子と違い日に焼けておらず色白で、他の子供達とも話すことはなかったのですが、それでも楽しそうに体を動かしていました。どこの子かと不思議にも思ったんですが、人数とは多い方が楽しいもんで、私は特に気にせず毎日毎日ラジオ体操を続けていました」


「元気一杯の子供等が好きだったんですよ」と付け加え軽く笑う老人に、私は「なんだか昔懐かしって感じで良いですね」とだけ返すが、老人は直ぐに俯き少し暗い顔をすると続ける。


「その日は、今日みたいに朝から雨が降っていました。雨が降ったら中止と子供達に伝えていましたので、私も家で休んでいたのですが、ふと窓の外を見ると子供が一人、雨の中このラジオ塔の下で待っていたのです」


そこまでいうと老人は杖を持ち上げ、公園の入り口、道路を挟んだすぐ先の家を杖の先で指さす。あそこがこの老人の家なのだろう。

私は「家の目の前が公園なんて、さぞ賑やかでしょうね」とだけ返すが、老人は相変わらず少し暗い顔をしている。


「私は、その子に中止を伝える為、急いで傘をさして家を出ました。するとそこにいたのはあの色白の子でした。私はその子に向かって、今日は雨が降っているから中止だよ、風邪を引く前に早くおうちにかえりなさい。と伝えました。するとその子は、スタンプ帳を差し出してハンコをくれとせがむのです。それを見て私は、今日はラジオ体操はお休みだからあげられない、と伝えたのですが、その子はどうしてもハンコとお菓子が欲しい様子でした」


「それでも特別扱いはできませんし、そもそもその日は雨の中急いで出たのでお菓子なんて持っていませんでした。なので私は、明日またおいで。と優しく伝えたのですが、その子はお菓子が欲しいの一点張りで聞いてはくれませんでした」


「どうしたものかと思いながら改めてその子を見た時、私はあることに気がつきました。雨の中にも関わらず、全く濡れていなかったんです。もちろんその子は傘なんてさしていませんでした、しかし髪も、服も、靴さえもいつも通り乾いていたのです。乾いた瞳でこちらをじっと見つめるその子に私はなんだか怖くなり、また明日晴れたらおいで。とだけ言い放ち、半ば強引にその子を背にして公園を出ることにしました」


「私はなんとなく、家に入るところを見られたくなかったので、家とは反対方向の出口へ向かって歩き始めました、すると」


「おうちあっちじゃないの?」


「もうすでにその子のいる広場からはずいぶん離れているのに、とても鮮明に、耳元でそう聞こえてきたのです。その無垢な声に私は怖くなり、居ても立っても居られずその場から走り去りました」


老人はそこまで話すと呼吸を整え始める。

私はレインコートを打つ雨音が、鼓動に合わせて激しくなったような錯覚を覚えながら、再び老人が口を開くのを静かに待つ。


「その後、私は勤めていた学校まで行き、あの子供の事を他の教員に話してみてみました。しかしそんな子供のことは誰も知らないと言います。何かの間違えだろうと。私は恐怖に震えながら家まで帰りました、家に入る前に恐る恐る例の広場を覗いてみましたが、あの子供の姿はもうそこにはなく、結局それ以上何事もありませんでした。そして次の日以降、もう二度とあの子が姿を現すこともありませんでした」


「私はしばらく、その不思議な体験に恐怖を感じていたのですが、あの子もただ子供達の中に混ざりたかっただけなのではないかと思うと、あの時自分がした行為に罪悪感を覚えました。家の場所を私に囁いたのも、私を怖がらせる為ではなく、私が家と反対方向に歩き出す私をみて、お菓子を取りに行ったのではない事に気がついたからではないかと。そう思うと申し訳ないことをしたなと思うのです」


そういうと、老人は手に握るお菓子の小さな入った袋を見つめる。


「あの子がその後どうなってしまったのか、もう違うところに行ってしまったのか、それとも成仏してしまったのかはわかりません。でも、次いつ来てもいいように、私は子供たちが夏休みの間は、あの時あげられなかったお菓子を持ってここに立ってるんです」


彼はそれだけ言うとまた遠くを見つめていた。その視線の先に何をみているのか、私には分からなかった。


私は話を聞かせてくれた事にお礼だけ言いうと、それ以外にはお互い何も言わず、しばらくして私はジョギングを再開した。


そして、私は今日も下腹をさすりながら公園を走る。

広場では子供達が相変わらず元気にラジオ体操をしている。


そんな広場の端、木陰の下。

あの老人の姿は、いつの日からか無くなっていた。

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