第10話 再びの森?

 玄関のドアを開けたとたん、家の中がいつもと違うことに気がついた。

 あちこちきれいに片付けられ、念入りに掃除されている。

 台所のテーブルに置かれた一枚の便せんでその理由がわかった。

「当分、お祖父ちゃんお祖母ちゃんのとこにいます。

 食事は、冷蔵庫に作り置きしときました。

 お金をいくらか引出しにいれてあるから、それで買物はしてください。」

 茜への母の置手紙だった。書かれているのはただそれだけ。

 灯りもつけずそれをしばらくながめていた。

 母はひとりで家を出て行ったのだ。

 わたしは見捨てられたのだと茜は思った。


 夜中ドアを乱暴に開け閉めする音がして、父が帰ってきたのがわかった。

 ドタドタ、台所に行ったと思ったら、急に物音がしなくなった。

 そのままにしておいた母の置手紙を読んだのだろう。

 何も手につかず横になっていたが、ベッドの中でもまったく眠れない。仕方なく起き上がり机に向かった。

 部屋の灯りも点けず、暗闇の中ぼんやりあの鍵を取り出して見ていた。

 

 片方の丸いガラス細工を見つめているとふいに、自分が森の中を歩いている情景が浮かんだ。

 夢の中の景色のような、それでいて、変に現実味を帯びた情景だった。

 そして、なぜか、「また、あの場所に戻りたい」と思った。あの場所?あの場所ってどこ?

 突然浮かんできたいくつもの顔。男の子。女の人。お爺さんたち。

 記憶の断片がパズルのように組みあがっていく。

 そしてすっかり思い出していた。

 夢?いいえあれは夢じゃない。

 握りしめた鍵を額に押し当てて、思わず呪文のように唱えていた。

「お願い、わたしをまた、あそこに連れて行って。」


 鍵がその願いをかなえるかのように、ゆっくり身体が宙に浮き上がる感覚がして、茜は気を失っていった。

 

 どれくらいそうしていたのか、ふと気がつくと何かが頬にあたった。

 ちくちくするけれどやわらかい。

 茜はうつぶせに倒れこんでいた。

 身体を起こすと、そこは思っていたような景色ではなかった。

「ここは、いったい、」

 暗い夜の水辺だ。池の淵の草地だった。

 水面に月が浮かんでいる。

 見上げると、きれいな満月だった。

 

 座り込んで見回すと、池は黒々とした森の中にあった。

 静かな月夜の晩に、木々の間を時折風が吹き抜ける音がする。

 ここはあの森なのだろうか。こんなところ前にはなかった。

 またあの人たちに会えるのだろうか。いや、きっと会える。

 祈りにも似た思いだけがあった。

 掌に握りしめていた鍵をもう一度確かめる。

 この鍵が連れてきてくれたんだとそう確信した。

 

 背後にガサガサ草を踏みしめる音がした。

 あっ、きっとあの子、ノリだ、ノリに違いない。

 茜は目を見開いた。

 人影はふたつあった。ひとりはノリのようだ。

「にいちゃん、おうちにかえろうよ。

 おかあさんとこ、かえろうよ。」

 間違いなくノリの声だった。

 お兄ちゃん?お兄ちゃんって今いったよね。そうかお兄ちゃんと会えたんだ、よかった。茜は心の底からそう思った。

「ノリ、」呼びかけた茜の声は、ふたりには届いていなかったらしい。話し声が続いている。

「ノリ、お前がこんな山の奥に入り込んじゃうから、僕たち迷子になっちゃったじゃないか。

 うちの家どころか、じいちゃんちにだって帰れないよ。

 ほんとに、ばかなやつだな」

「ぼく、ばかじゃない。ばかじゃないよ。えきにいきたかったんだ。

 でんしゃにのって、ぼくたちのおうちに、かえりたかったんだよ」

 小さな声はいつか泣き声にかわっていた。

「ノリったら、」もう一度茜は呼びかけた。

「ひとりでかい。

 だいたいお金も持ってないのに、どうやって電車に乗るつもりだったんだよ。

 それに駅はこっちじゃないよ。いいからもう泣くな。このへんで休んでいよう。

 朝になったらきっと、だれか探しにきてくれるよ」

 兄らしい男の子は、七つか八つくらいだろうか。

 

 ふたりは茜に目もくれない。まったく気付いていない。

 気付いていないどころか、すぐ横、茜の腰に触れていったのに、何事もなく水際まで進んでいった。

 月明りにあたりはよく見わたせているにもかかわらず。

 こちらにはふたりの様子も話し声もはっきり聞こえているというのに、この子たちには自分の姿も声も届かない。

 茜は声も出せずに目を見張った。

「お月さま、きれいだ。ほら、みてみろよノリ。

 なんだ、眠くなってきたのか。仕方ないな。」

 兄は木の根に囲われ、草が生い茂っているところへ弟の手を引いていった。

 そうして風をよけられそうなくぼみに、茜に背を向け腰をおろし、弟を膝枕していた。

 

 千代さんや山じじ様たちはどこだろう。ノリがお兄さんと一緒だということは、千代さんももしかして、もう家に帰ることができたのかもしれない。とそう考えている その一方で、自分が、まるで透明人間のようになっていること。この場にまったく存在していないことになっている、そのことに大きな衝撃を受けた。

 わたしの居場所は、ここにもないの?


 

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