「最後の夜に見たもの」


 望月さんには今でも鮮烈に残っている幼少期の記憶がある。まだ戦後間もない頃の話だ。


 四歳の望月さんが暮らしていた家は、汲み取り式便所が外にあるような古めかしい日本家屋だった。そこに両親と親戚とで賑やかに暮らしていたのだが、ある時から急に両親の様子が変わった。

 当時具体的に何があったのか、望月さんにはもはや知る由もないが、父母が何事かひっそりと相談事をしている姿を何度か見かけたし、親戚の誰某だれそれという見たこともない客がこの頃から頻繁に訪れるようになった。


「なんだか妙だな」とは思ったが、幼い望月さんにはどのみち大人の事情など関係ない。元々のんびりとした気性であったので、特に首を突っ込むでもなく今まで通りに過ごしていた。


 ある春先の寒い日のこと。その日も自宅には親戚が何人か訪れていたが、望月さんは親戚の女性に手を引かれ、母屋の西端の部屋へ連れて行かれた。


「今夜はお酒も入ってお父様たちが遅くまで騒ぎなさるから、こっちに布団を敷いて寝ましょうね」


 望月さんはいつもより少し早めに、一人きりで寝かされた。この部屋で寝かされるのは初めてではないが、普段寝ている仏間に比べて随分と寒い。

 くりやへ行って湯たんぽを用意してもらおうかとも思ったが、布団から抜け出したら父母に叱られるような気がしてやめた。冷たい足をさすりながら、ひたすら眠気が訪れるのを待つ。

 と、急に周囲の気配が変じた。


 なんだろう、と目を開く。

 望月さんはすぐ違和感の正体に気づいた。つい先ほどまで、父や親戚たちの話し声が聞こえてきてやかましいほどだったのに、それがぴたりと止んだのだ。家の中は異様な静寂に包まれ、重苦しいほどだった。

 ――誰もいない?

 望月さんにはそうとしか思えなかった。

 飼い猫が出入りできるようにと襖を少し開けていたが、その隙間からやんわり漏れていた電気の明かりもすっかり消えてしまっている。


 当時の望月さんの家は、本当に人が多くて賑やかだった。夜中に起きて厠へ行く時でさえ、居間の辺りを覗けば誰かが火の番か何かで起きている。一人ぼっちの心細さも、真っ暗でひと気のない家が恐ろしいのも、望月さんには初めてのことだ。

 幼いなりに頭を働かせたが、結局「自分だけを残して家族が消えた」という不安より「早くここから逃げたい」という感覚のほうが勝った。


 望月さんはひとまず外へ出ようとした。が、四歳の望月さんには電気がつけ方がわからない。玄関に至る長い真っ暗な廊下を歩くのは怖いから、布団のすぐ横にある障子窓を開けてそこから出ようとした。ところが、障子を開けてみるとなんだかおかしい。


 障子のほうには妙なところはない。いつもと違うのは、障子の先にあるガラス窓のほうだ。

 くもりガラスのあちら側には、外の濃くて深い黒色が広がっていなければならないのに、仄かに明るい感じがする。望月さんは窓の一角を塞いでいる外置きの洗濯機を思い出しながら「何か白っぽいものが外に置いてある」と感じたらしい。


 もうひとつ気になったのは、望月さんの目線の高さに手形のような跡が二つあったことだ。それは人間の手形に見えたが、おおよそ人間の皮膚の色ではありえない鮮やかな青色だった。


 外へ出るのにも怖気づき、布団を被っているうちに眠ってしまったのか、気づいたら朝になっていた。

 身体を起こして窓のほうを見ると、障子は半端に開いている。昨晩望月さんが開けたまま、誰も触っていない様子だ。ただ、窓をいくら眺めてみても、あの青い手形はどこにも残っていない。



「それからが大変だったようなんですが、私はまったく覚えていないんです。以後の私は祖父母と暮らすようになり、あの家があった場所には一度も行っていません」


 望月さんが中学生になった頃、母方の親戚で警察官をしている洋一おじさんが、ようやくあの晩のことを語り聞かせてくれた。


「一くちで言えば集団自決だよ。遺書にはハッキリとは書いてなかったけど、良くないところから借金をしたせいだろうってことで落ち着いたらしい」


 望月さんはあまり驚かなかった。

 父はかなり広大な土地を持っていたはずだから、そういうこともあるのかもしれない。若いながらにそう思えた。

 しかしそれよりも気になる点がある。


「集団自決って、家にいた人が全員自殺したの?」

 洋一おじさんは難しい顔をしたが「どうせ調べればすぐわかる」と開き直り、当時の状況を教えてくれた。


 彼の話によると、縁側の軒先では望月家の血筋の者が六人首を吊っていた。縄の端は瓦屋根の天辺てっぺんに取り付けられ、そこから約六メートルも下に彼らはぶら下がっていたという。

 なぜ、わざわざそんな面倒な場所を死に場所に選んだのか、詳細はわかっていない。それでも全員が遺書めいた覚書を残していたため、自殺と断定された。


 一方居間では、望月さんの父親が首を吊っていた。母親の遺体だけは井戸の底から見つかったが、やはり両者とも遺書があり、自殺とみなされている。

 なぜその日に決行されたのか、具体的な理由は誰もわからない。計八名による、奇妙な集団自決だった。


 おかしい、と望月さんは眉をひそめた。

「八人なわけないよ。お手伝いさんか親戚か知らないけど、あの家にはずっと、僕ら家族のほかに二十人くらいの人達で住んでいたんだ。僕を布団に寝かせたあのお姉さんはどこへ行ったのさ」


 そう言うと、洋一おじさんは困った顔をした。警察の調べでも、現場となったあの家に望月さんの親戚が出入りしていたことは判っている。けれど、事件が起きた晩に家にいたのは、亡くなった八人と幼かった望月さんだけで間違いない。


 洋一おじさんの説明は、とても望月さんにとって腑に落ちないものだった。とはいえ、自分の記憶の方が非現実的だとも思う。

 望月さんは当時、家にいた女性達のことを皆まとめて「お姉ちゃん」と呼んでいた。名前で呼ぶにはあまりに数が多く、一人一人の区別がつかなかったのだ。

 それほどの人数があの家に住まっていたというのは、確かに奇妙である。


 現在はイマジナリーフレンドという言葉もよく聞くようになったが、望月さんも「単なる子どもの妄想」と自分を納得させることにした。それきり、忌々しい事件のことは努めて忘れることにした。


 日本社会はまさに高度経済成長期へ突入しようというときだった。十年以上前に起きた陰気臭い集団自決事件などに、若い望月さんは気を取られてはいられなかったのだ。



 高校卒業後、知り合いの伝手つてで関東の製造会社へ入社した望月さんは、二十五歳のとき結婚した。新築マンションの三階に居を移して間もなく妻の妊娠が発覚し、二人は大いに喜んだ。

 しかし、その頃から妻が奇妙な仕草を見せるようになった。やたらと背後を振り返ったり、時には熱心にベランダの下を見つめている。彼女の落ち着かない様子が気になり、望月さんはどうしたのかと尋ねた。


 妻は「別に大したことではない」と前置きし、こう説明した。

「妊娠してるせいか最近眠くて。私、いつもここに座ってウトウトしてるでしょう。そういうとき、ベランダより下から手がぬーっと生えてきて、あの窓に青い手がペタッてくっつくのが見えるの。後ろ側の窓なんて見えるわけないんだから、夢に決まってるのよ。でも、気になってつい窓を見ちゃうのよね」


 それを聞いたとき、なんとなく望月さんは嫌な予感がした。

 望月さんは妻とその両親に土下座するように説得をし、なんとか子どもが生まれる前に離婚した。妻には旧姓に戻ってもらい、妻との間に授かった子ども達も妻の姓にしている。

 珍しい父親別姓家族ではあるが、それ以外は普通の家族となんら変わりない。現在は妻と息子夫婦、孫二人の六人で、毎日賑やかに暮らしている。


 青い手は、望月さんの妻が妊娠するたび現れていた。しかし子ども達が大きくなるにつれ、それを見ることもなくなった。


 来年、望月さんは喜寿を迎える。形式的には、彼が望月姓最後の末裔だ。

 あの青い手と望月家とのあいだに、何かしらの因縁があるのかは、未だ不明のままである。



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