花にわずらい恋焦がれ

綿津サチ

本編

 楠木雫は「いい人」だ。いつもにこやかで優しくて物腰が柔らかくて、頼まれ事は断らない。

 ずっと「いい人」と呼ばれ続けた楠木にとって、それが「善人」を示すのか「都合のいい人」を示すのかはわからない。気になりはするけれど、世の中には知らない方がいいこともあると曖昧なふたつの違いから目を背けて生きてきた。だいたい三十年と少しほど。


「恋人とか居ないんですか?」

「うん。昔は居たけど、『雫くんって誰にでも優しいよね』って言われてフラれちゃってね」

「あー……先輩、言われそう。確かに」

「納得した顔しないでよ、ひどいなあ」


 困ったように楠木は笑う。それなりの賑わいを見せる社員食堂でB定食をもくもぐと食べながら後輩はコップのお茶に口をつけた。

 目の前でのんびりしながら「美味しいね」と笑ってる楠木は、優しい人だ。後輩だから、俺だから特別という訳じゃない。誰にだって、同じように優しいのだ。

 うーん、そうだなあ。後輩は悩ましげに唸って腕を組む。随分悩ましげなその姿に、楠木は小首を傾げた。

 

「なにか気になるの?」

「まあ、はい。先輩優しすぎるから、いつかふらっと消えちゃいそうで」

「なあに、それ。大丈夫だよ、仕事も楽しいし人間関係も良好だからさ、悩みもそんなにないもの、ほどほどに幸せだよ」

「"そういうところ"な気がするんすけど……もうちょっとワガママに生きましょうよ 」

「人並みにワガママに生きてる気がするんだけどな」

「ぜーんぜん!悟りでも開いてるんですか?って感じっすよ」


 カラカラと笑う軽い言葉に苦笑いを浮かべながら、ともかく恩返しをしたいと言ってくれる気持ちは嬉しくて、楠木はおとなしく後輩の話を聞くことにした。謙遜や遠慮が時に相手の気持ちを無碍にしてしまうことは、それなりに長い社会経験で学んでいる。


「先輩、趣味とかないんですか?そういう話、ほとんど聞いたことない気がします」

「ううん……趣味、趣味かあ。なにかあったかな……」

「え、趣味とか無いんですか!?」

「んー……登山とか?休みの日とかにね、気が向いたら山まで登ってスケッチしたりしてる」

「それはもう立派な趣味ですよ……」


 呆れた顔をした後輩に申し訳なくなって、ごめんねと思わず謝った。別にいいですけど。つん、と唇を突き出して拗ねる後輩は、どこか実家の柴犬を思い出させる。思わず頭をぽんぽん撫でてしまうほどに。

 成果、今度聞かせてくださいね、とため息混じりに零す柴犬、いや後輩の姿に楠木は苦笑いをする。何か、随分心配されているようだった。




「……そういえば、そんな話もしたっけな」


 ある日の夕飯時、食事をしつつだらだらとネットニュースを流し見ていた楠木は後輩との会話を思い出した。明日は休みだし、ちょうどいいかもしれない。

 どこか遠い世界のように思えるニュースを閉じて、明日の全国天気予報を見る。天気はどこもかしこもおおむね晴れか曇り。さて、どこに行こう。明後日は普通に仕事だから、あんまり遠くには行けない。

 とりあえず北の方に行こう、とは決めた。この頃ちょっと暑くなってきたから涼んでみたい。クールビズだなんだで硬っ苦しいスーツは少しゆるくなっているけれど、それでも暑いものは暑いので。ああ早く、コンクリートジャングルを抜け出して緑ばかりの山の中に飛び込みたい。


「……よし」


 以前から目をつけていた山に決め、ルートを割り出す。今晩のうちに準備をしておいて、明日の朝いつも通りの時間に出れば良さそうだ。余程のことがない限り、山の中でゆっくりしても夜には帰って来れる。目当ての山自体初心者の子供やお年寄りでも登れるような場所だから都合がいい。


 ザックの中の登山道具を確認しつつ、すっかりここ最近は開かなくなったスケッチブックと文房具を手に取る。色褪せた表紙をするりと指先で撫でて、ぱらぱらとかつてを流し見た。明日、新しい景色を描けると考えるとどうしようもなく心が昂る。

 楠木は特別絵を描くのが好きというわけでは無いが、写真で残すよりも絵に描く方が記憶や感覚に残ると幼い時に気づいたのだ。それ以来ずっと山に登ってはスケッチを行っている。習慣のようなそれは気づけばひとつの儀式ようにもなっていて、なんだか破るのがはばかられるのだ。

 別に都会が嫌いというわけでもない。……ないのだが。機械とアスファルトに囲まれた日々は現代的な人間にとって快適過ぎて、もっとさんざめくように響いているはずの生命の音を忘れてしまうようで。時々何かが詰まるように息苦しい。

 だからそう、山の中で景色をスケッチするのは楠木にとってある種の儀式なのである。自然という原始的な世界に触れて、本来あるべき生命の響きを思い出すための。




 バスを降りれば五感すべてに広がる自然の気配。胸いっぱいに深呼吸をして、空を見た。少し雲行きが怪しい。もしかしたら雨が降るかもしれないから深く山へ入りすぎないように用心をしよう。せっかく来たのに残念だけど、山の天気は変わりやすいから仕方ない。

 少し気落ちしそうになった心を「また来る楽しみができた」と乗り越えて、まずは自然を味わおうと顔を上げた。命の根張る土を踏む感覚がいっそ新鮮で心が踊る。


「やっぱり落ち着く……」


 鳥の羽ばたき虫の営み葉擦れの音、五感すべてを刺激する自然の気配が鈍った世界を鋭くさせていく感覚が心地よい。しゅっしゅと砥石で包丁を研いでメンテナンスをするように、人の感覚にもこうした研磨は必要なのだろう。少なからず、楠木は自分のポリシーとしてそう思っている。

 運が良いのか今日はあんまり他の人もいなくって、ごくごく稀に人とはすれ違うけれど、ほとんどひとりのようなものだった。まるで大自然を独り占めしているみたいだ、なんてちょっとワガママな気持ちを抱いてみる。……荷が重い気がしてさっさと捨てた。


「よいしょ、と。失礼しますね」


 誰に話しかける訳でもない。人の通りが少ないこととちゃんと踏み入っても大丈夫な場所であることを確認して、手頃な岩にハンカチを敷いて腰掛けた。ちゃんと苔のむしていない場所である。

 やっぱり雨が降るのだろう。ひんやりとした岩の感覚を感じながら、ザックからスケッチブックとペンを取り出した。山中にできる限り己の痕跡を残したくなくて、楠木はいつもボールペンだけで絵を描いている。それぞれ選んだペンにもこだわりはあるけれど、今はそれどころじゃない。雨に降られてしまう前に少しでも世界を描きたいのだ。

 鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が拡がって、生命の音を拾い集める。生命の色を鮮やかにする。生命の輪郭を確かにする。がりがりとペン先で描くそれらは本物には到底及びやしないけれど、己の深いところを満たして貰えるような気がした。


「……あ」


 ぽつんと頬をつつく優しい走り雨。顔をあげればぴとぴとと雫が顔を濡らした。一瞬呆けてしまった頭を振って、慌ててスケッチブックを閉じてペンと共にザックに仕舞う。なんとかセーフ、間に合った。

 すっかりさらさらと世界を濡らすほどになった霧雨に苦笑いを浮かべつつ、楠木は腰掛けていた岩を立ってハンカチを回収した。 雨足が酷くなる前に帰ろう。山の中では無理と油断は禁物だから、帰宅の決断は早かった。

 足元と周囲に気をつけて土を踏む。湿った岩と草花に足を取られぬように、足元ばかりでうっかり木々に頭をぶつけぬように。


 そんな風に歩いていると、不意に光が差した気がした。変わらず空は曇っているのに何故だろう、と顔を上げた。ついっと視線を上げた先に咲く花に気がついて、あっ、と思わず声が零れる。


 雨に塗れてサンカヨウ。スゥと透けた君の姿に恋をした。


 ドキンドキンと高鳴る胸にめまいすら覚えそうになって、きゅうっと心が切なくなった。それから慌てた指先でポッケを探りスマホを取り出す。かじかんだように指先が震えて覚束無い。

 ようやっと開いたカメラをサンカヨウに向けて、シャッターを切る。濡れたレンズが世界の輪郭をぼやけさせた。

 僅かに白かった花弁が霧雨に触れて、恥じらうように薄く透ける。指先も届かぬ距離に居るのに、花脈すら見えそうな錯覚すら覚えた。雫の滴るその姿がうつくしくて。

 この世界で最もうつくしいのは肉眼で見る景色なのだろう。データに変わった恋し花は眼前のそれより物足りない。鼓動に根を張る透けた花、その全てを0と1の世界に変換しきれない。


 一心不乱に撮り続けようとして、僅かな理性で山中だという事実を思い出す。ああそうだ、帰らないと。ずっとここには居られない。いつも山を出る時に名残惜しさを覚えはするけれど、こんなに切なく苦しくなったのは初めてだった。

 一目惚れ、初恋、運命の出会い。人のつける名前はなんだってよかったが、退屈に転がるだけのビー玉がピンと弾かれて起動を変えるように、正しく人生を変える恋に落ちたのだ。なんだか寂しかった人生が、この出会いのためだと思えば素晴らしく思えるほどに。


 また来るからね、なんて誰に言うでもなく誓っていそいそと山を降りる。いつもよりちょっと危なっかしくて転けそうになって、これじゃいけないと気を引き締め直して足に力を入れ直して。

 これが恋とか愛とかそういったものなのか、はたまたまったく違う感情なのかはわからない。ただそう、あの花がうつくしく在るそのためだけに人生を使えるならそれはきっと、きっと何よりも幸せなことなのだろう。


 なんとか怪我もなく下山して、麓の土を踏んでほうと吐いた楠木の呼吸は──これ以上に無く、甘く蕩けていた。

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花にわずらい恋焦がれ 綿津サチ @wadatu_sachi

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