第4話「優しい味のクレープ」(前編)

「はい、先輩。どうぞ」

「あ、ああ」


 突然の再会に驚きを隠せずキョドっていた俺を希美は、病院の屋上まで強引に引っ張っていった。

 促されるまま俺がベンチに座ると、希美は自販機で購入した缶コーヒーを手に隣に座り、缶コーヒーを渡してきた。

 それを断るのは失礼な気がして、でも、言葉が見つからず、無言で受け取った。


 渡された缶コーヒーを開ける気持ちにはどうにもなれず、気まずさと共に希美の横顔をこっそりと見る。

 丁寧に開けられた缶コーヒーに軽く口をつけた希美は、真剣な顔でこちらを見てきた。


「先輩? こっちのほうが良かったの?」


 昔と何一つ変わらないトーンで話しかけられることが、こんなにも居心地が悪いものだなんて知らなかった。

 希美は困ったように缶コーヒーを置くと、ゆっくりと息を吐き出していた。


「すいません先輩。そうですよね、昔のままってわけにはいかないですよね」

「っ」


 敬語が。その距離感が。

 現実として目の前にあることが俺の胸を締め付けた。


「先輩」

「……はい」

「……ありがとうございました」

「……え?」


 思いもしなかった一言に反射的に顔を向けると、そこには優し気に笑う希美の姿があった。


「どうして……ありがとうだなんて……俺は……」

「先輩のお爺さんにいろいろ聞いちゃいました」

「え?」


 何を聞いたというのだろう。

 俺は希美と別れたことについて、何一つ詳細を話していなかったのに。


「お爺さんに話を聞いたのは……」




 ――話を聞いたのは私が高校三年生の冬のことだった。




 第一志望の医大に合格した私は、先輩を後悔させてやるために先輩の家へと行ったのだ。

 今考えればどれだけ幼稚な話なのだろう。

 要は復讐を企てていたわけなのだ。

 けど、そうして行った先に先輩はいなく、迎えてくれたのは白髪の老人だった。


「希美ちゃんだったかね? まあ、上がっていきなさいな」

「あ、いえ。先輩がいないのでしたら私はこれで……」

「まあ、そう言わずに。……別れた彼氏のところにやってくるくらいだ。何か話があるんだろう?」

「……」


 先輩は確か、家族がお爺ちゃんしかいなかったはずだ。であるならば、事のあらましをこの人に話してしまうほうが良いのかもしれない。

 復讐心でいっぱいになっていた私は、リビングに通されるやいなや、事のあらましを話していった。真剣そのものの表情で私の話を聞くお爺さんに期待をしていた。

 私に謝ってくれるのを。先輩の行為に怒ってくれるのを。

 私は期待していた。

 ……けど。

 お爺さんは豪快に笑って見せたのだ。


「え?」


 意味がわからず困惑する私に、お爺さんは、


「すまんすまん」


 と断ってから続けた。


「希美さん。あいつは私にとっちゃかわいい孫であり、子供でもある。だから擁護するわけじゃないが、あいつは希美さんのことが心底好きだったんだろうよ」

「っ! 何言ってるんですか?」


 意味が解らなかった。自分勝手に私の気持ちをもてあそんでおきながら、私のことが心底好きだったというのがわからない。


「好きだったなら、なんであんな陰口なんかっ!」

「……そうさねぇ。あいつは本当に優しい奴で……」

「そんなこと理由になりませんっ!」

「まあまあ、最後まで聞いてくれんか?」

「……」


 黙ってうなずいて見せると、お爺さんは優しく笑顔で答えてくれた。


「ありがとう。……あいつは優しい奴でな。自分の環境とか自由なことが少ないこととかに対して、不満の一つも言わなかったんだ。いつも私のことを気づかってくれるような、優しい奴でねえ。でも丁度、希美さんと別れる少し前だかに、あいつが言ったんだ。なんでうちはこんなに貧乏なんだ。なんで俺には自由がないんだ。子供の俺にはどうにもならないようなことばかりじゃないか。……そうやって、ひとしきり自分の境遇に文句を言った後、ごめんって言ったんだよ。俺が力不足なだけなんだ。ごめんってね。それを聞いて、私は息苦しくなるほどに辛かったよ。けど、そんなことを言う子じゃないから、何があったんだろうかとは思っていたんだけど……合点がいった」

「どういうことですか?」

「話を聞くに、跡取りとして医者にならなければならないのに、勉強がうまくいってなかったのだろう?」

「……はい」

「それをあいつは、自分のせいだと思ったんじゃないかね?」

「っ……そんな」


 そんなはずはない。そう、言い切ることはできなかった。

 純粋でまっすぐな人だということを私も知っていたから。


「希美さんは、本当にあいつのことを好きでいてくれたんだねぇ」

「え?」

「好きだったからこそ、裏切られたと思って感情的になってしまったんだろう? それだけ、希美さんがあいつのことを好きでいてくれたってことなんじゃないかと思うんだよ」

「……」


 浅はかだった。何も考えようとしなかった。それがどうしようもないほどに恥ずかしかった。

 好きな人を最後まで信じ切れなかったのは自分なんじゃないかと思った。裏切ったのは自分なんじゃないかと思った。


「馬鹿がつくほど真面目でつまらんあいつが、希美さんのことになると目を輝かせていて……年相応のああいう姿を引き出してくれた希美さんには本当に感謝しているんだよ。……希美さん。あいつが別れることを決意した切っ掛け……何か思い当たるふしはないかねぇ?」

「それは……っ!」


 ハッとして立ち上がる。もう、いてもたってもいられなかった。


「すいませんお爺さんっ! 失礼します」

「またおいで」

「はいっ!」



 私は先輩の家を飛び出すと一目散に駆け出した。


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