21 全汚
〈
歯が砕けそうになるくらい、食い縛り、仮面の男を睨みつける。
この男は、自分の逆鱗に触れた。
“愛した”ことが無いのは間違っていない。ただ、その事実を改めて受け入れる事により自分の未熟さと愚かさも同時に呑み込む事になる。
そうなったら、今までやっとの思いで作り上げてきた“大人”な自分が崩れ落ちてしまう。
もう、劣等に塗れた泥だらけの自分は嫌だ。
「名を名乗れ……! お前を……呪ってやる……!」
「私の? 名前ですか……」
仮面の男は顎に指を当て、しばらく置いてからこう答えた。
「ヤハウェ。呪う時は、死神にそうお告げください」
飛びかかる狼の〈
塵を振り払いながら再び
気色悪く地を這う蜈蚣を踏みつけ
身体をぐいっ、と捻って渾身の斬撃を放ち、人型を脳天から叩き割った。
「ほう……大したものだ」
この男は〈
仮面の下に隠れた顔を想像すると、腸が煮えくり返る感覚を覚えた。
――きっと、私の事を嘲笑っているに違いない。
もうそういう目で見られるのは、懲り懲りだ。
「私を殺しますか? いいですよ? だが、貴方はきっと後悔する事になる」
「後悔……?」
足元に絡みつく蜈蚣を引き剥がし、
「私の計画は、貴方のような哀れな人間を必ずや救う。苦しみ、藻掻き、それでも救われない人間を」
仮面の電子板に映る顔が、微かに歪み、更に笑みを浮かべたように見えた。
理解ができなかった。地下施設の非道な研究が、一体、どうやって人を救うというのか。
単なる好奇心から〈
果たして、他の理由とは何なのか。
蜈蚣を斬り殺しながら、アルベルトは考えを巡らせていた。
「アルベルト。貴方ならきっと分かってくれる。私は君を“リバース・トゥルフ”に歓迎するよ」
聞き慣れたようで、そうでない単語が耳に入ってきて、アルベルトは思わず攻撃の手を止める。
残りの〈
奴は怪物を従えてるとでも言うのか……?
「〈
畝る蜈蚣の頭部を力強く撫でながら、ヤハウェは語り始める。
〈
それを何故、この男が知っている――否、知ったような口をしているだけかもしれないが――。
この男は、本当に何者なのか。
「だからこうして、あなたの中に潜み、失った同胞を増やそうと尽力しているのですよ」
蜈蚣の動きが、より一層気持ち悪さを増した。こちらを煽ってくるようで、妙に苛立つ。
「リバース・トゥルフはそんな彼らを助ける為の組織だ。どうです? アルベルト。興味が湧いてきたでしょう」
その馬鹿丁寧な口調をやめてほしい。吐き気がしてくる。
アルベルトは奴を睨みつけ、視線だけで断固拒否の意思を伝えた。
「地下での研究も……〈
「えぇ。リバース・トゥルフはそういう組織ですから。あそこでの研究は計画に必要不可欠だった」
石造りの部屋、魔法陣、異端者の被験番号、培養される外怪物と異端者……。
この男が全ての元凶だと分かった途端、なぜだが心を覆い尽くしていたモヤがすっ、と消えた。
「目的を言え。一体……一体何のために。あんな施設を作った?」
仮面の顔に、再びノイズが走る。
ヤハウェは両腕を広げ、声高々と言い放つ。
「“黒き地母神”の復活! それが私の目的だ!」
「外なる母“ニグゴート”! 〈
不気味なまでに感極まった声が響き渡ると、蜈蚣達が一斉に建物の隙間へと退いていき、奴の足元の地面が、沸騰する水面のように膨れ上がってゆく。
地面が突き破られ、砂埃が舞い狂って彼女の視界を瞬く間に奪った。
アーサーブラストのトリガーを引き、灼熱の業火で砂埃を打ち消すと、目の前に広がるのは、絶句するような光景であった。
漆黒――。真っ黒な、山羊の〈
四足歩行であるが、腹部は裂けていて、内臓らしき物を黒い液体を滴らせ引きずっている。
山羊が凄まじいスピードで、尚且つ、恐ろしい形相で疾走してくる。
恐怖で身体が縮こまり、一手、遅れてしまった。
山羊の角が、喉仏を確実に捉えた。
深々と突き刺さり、反射的に嗚咽を漏らす。
ミシミシと皮膚を引き裂かれていく。
絶叫する間もなく、視界は暗黒に包まれる。
◇
気づけば、ビルの屋上にいた。
何処かのビルの屋上だ。何の変哲も無い、他のビルに比べ見劣りしてしまう、小さなビル。
夕日の傘下に晒され、自分の白い肌が、仄かに橙色へ染められている事に気づいた。
「……私……何を」
武器も持たず、ビルの屋上に立つなどあり得ない。
それに、少し視線をずらせば、目まぐるしいぐらいに色が変わり続ける電磁誘導レールの上には、一切の車が見られなかった。
「楽しい?」
誰かに、ふと、そう聞かれた。
「……楽しくない」
ふと、そう返した。本心だ。
「なんで?」
「何でか……分からない」
嘲笑うような声が、微かに、はっきりと聞こえた。
振り返れば、そこに立っていたのは、空色の髪をポニーテールに束ねた少し幼い少女だった。白いシャツを着て、ギターを提げている。
「あ……」
昔の自分だと、嫌でも分かった。
気づいた途端、物凄い吐き気が一気に押し寄せてくる。思わず口を覆い、迫りくる胃液を押し込んだ。
「私、プロになりたかった。ギターで、私の気持ちを知ってほしかった」
やめろ。
そう言いたくても、胃液が邪魔して声すら出せない。
彼女は容赦なく近づいてくる。
「私は、自分が好きだった。才能あったし、注目されたことだってあった」
やめてくれ。
ギターの弦が奏でる耳障りな音が、胃液を更に込み上げさせてくる。
「私は自分を愛してた。人を愛することなんてどうでも良かった」
やめてください。
手首を掴まれ、覆い隠す掌の上から、更に手を重ねられた。
「なんで捨てたの?」
全身が奮い立ち、彼女を蹴り飛ばした。
バラバラになったギターと共に、床へ倒れ込む彼女の髪が解け、赤色のシュシュが宙を舞った。
「お前は子供なんだよ!! いつまでも……! いつまでも……! くだらない理想ばっかりで……! 無駄な努力ばっかりして……!!」
アルベルトは彼女の腹を一心不乱に蹴り続けた。相手が昔の自分なんて事どうでも良かった。ただ、こいつが滅茶苦茶なればそれで良い。
「消えろ! 私から……! 消えろ!」
掌で蹴りを受け止められて、アルベルトは叫ぶのを止める。
小さくなった碧眼に映るのは、もう、可愛げのない少女ではなかった。
牙を剥き出しにし、嗤うようにこちらを見つめる、“碧眼の獣”が、そこには倒れていた。
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