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 彼の背負う煝煆は、しかし何も言葉を発さない。果たして彼女は今、憤っているのだろうか、困惑しているのだろうか、悲しんでいるのだろうか。いずれにせよ、やはりその金眉は顰められているのだろうか。

 そんなことを思う黒野も、何も口にしないでいると、耐えかねた様子の白沢が、

「貴男が煝煆嬢のことを糺弾するとは驚きですが、……根拠を、話して見てもらえますか?」

 黒野は、白沢の疑わしげな顔を見たことで触発されつつ、

「まず、初日深夜、或いは二日目未明の出来事を思い返してみて下さい。白沢さん、丁度貴男と氷織さんが一旦追いつめられることになった、あのエピソードです。

 あの時自分は、先にずっとそうしていた煝煆さんに促されて屋上を見上げたことで、貴男のことを見咎めたのでした。しかしその際、最初は星々しか見えませんで、まもなく日の出を迎えたことで漸く貴男の姿や船体が見られるようになったのです。」

 それで?、と、白沢が怪訝そうな顔つきだけで促せば、

「良く考えると、これはおかしいんですよ。……自分を促した煝煆さんは、そもそも、、何を見詰めていたのでしょうか。」

 蟠桃が、半ば叫ぶように、

「ああ、そうか気づかなかったな。人間では咎められぬ筈のものを知覚したと言うことは、如何にも怪しい様子ではないか!」

 ところが、そこからすぐに怪しんで、

「しかし黒野君、……少し、君の論筋はおかしいぞ。先程、緊張の極致に有る『悪魔』の必死を云々と宣っていたが、その情況は寧ろ気の緩みに聞こえるし、そもそも、曙光の直前であれば、電光眩い学語世界で目の萎えた君よりも煝煆わたしの方が物を見透せるだろう、と強弁されては、その先が上手く続くまい。」

「ええ。ですので、その未明での出来事は、あくまで、自分から煝煆さんへの疑義を増幅させるに過ぎませんでした。」

「増幅?」守谷から、「すると、黒野殿が煝煆殿を初めて怪しんだのは、それ以前であったと?」

「はい。自分も、まっさらな気持ちであの深夜の出来事を迎えていたら、見逃していたかも知れません。小さなきっかけが、それ以前に一応有ったんですよ。」

 彼は、一息大きく吸ってから、

 。」

 突然黒野から尊大な口調で、しかも訳の分からぬことを述べ付けられたと感じたらしい氷織は、一瞬蛇共を不穏に靡かせたが、しかしすぐに落ち着いて、

「それは、……確か、私からの明王崇拝への攻撃に対して、煝煆の為した反論ですね。」

「はい。……今の科白ですが、確かに煝煆さんが述べていたと言うことでいいですよね?」

 問われたムスリマは、無表情のまま、しかし雄弁に首を振ってから、

「馬鹿を言わないで下さい、そんな、一言一句までは憶えておりません。……しかしまぁ、確かに概ねではそのようなこと述べた筈ですので、そこまでは保証出来ます。」

 そこから、はっとしたかの如く顔を歪めて、

「しかし黒野、だからと言ってなんだと言うのです? ハンバリ学派やスーフィーについては我々から説明が有ったのですから、別に煝煆がそれを語っても不審な点は、

「そこですよ氷織さん。」

 さしはさまれてぎょっとする氷織へ、

「確かに、ハンバリという法学派については、白沢さんから説明が有りました。……しかし、その内容はこの様だった筈です。

 ――姿――。」

 黒野の論旨を諒解したらしい白沢が、喰い入るように、

「ええ、ええ、そのような説明は実際した筈です! ……そして確か、その直前の煝煆嬢は、伊斯蘭の諸派とはスンニかシーアと言う話ではないのか、などというどうも素人臭いことを述べていましたね! だからこそ、私が説明を行った訳ですが、」

「成る程!」蟠桃が、ますます元気となって、「すると、煝煆から氷織へ為された反論はおかしい訳だ! 伊斯蘭の諸法学派について、白沢は名前を上げるくらいしかしていないのに、何故だかその直後の煝煆は、ハンバリ派が一等偶像崇拝や個人崇拝に厳しいと言う、指摘をしたのだからな! つまり、白沢が説明しようとしていた言外の意味と言うか香りを、『ハンバリ派』という言葉に纏る歴史を、『嗅ぎ付けでもしていないと話が通らない訳だ! 成る程成る程、感心したよ!

 ……しかし黒野君、徹底的に確実な論理や証拠、という君の自己評価は、少々大袈裟な気もするが、」

「ええ。先程も述べましたが、この法学派の話もあくまで、自分が煝煆さんへの疑問を抱いたきっかけに過ぎません。

 自分がとうとう確信を持ったのは、もう少し過去の出来事を思い返してでした。蟠桃さん、例の無線を受信した瞬間のこと、憶えていますよね?」

 蟠桃は、少し目を剝きつつ、

「ああ、」

「その、受信内容は、」

「ここに有るがよ、」

「今一度、学語で読み上げてもらえますか?」

 怪しむように眉を寄せながらも、懐からそれを取り出した彼は素直に、

「貴船において、不一致が――ええっと――発見、された。八人であるのに魂が七つと測定されたからには、『悪魔』の同乗している可能性が濃厚である。目的地は、……科学を、……受け入れ、ず、彼らの理解出来ないことを、――ええい畜生――排除?するような国柄であるから――えっと――どのような目に遭うか、分かったものではない。よって、……可能な限り速やかに戻って来るか、さもなくば、悪魔を見つけて殺せ、……だとかなんだとか、」

 辿々しくも漸く読み上げた後に、ああ、糞、本当に訳の分からん古語ばかり使いやがって、と文句を述べた蟠桃であったが、しかし、ふと目線を上げると、

「ちょっと待てよ黒野君、……確かあの時、煝煆は君へ、」

「はい。」

 黒野が四度よたび、生来の記憶能力を披露し始める。

 高僧の読経のように、澱みなく、

、『

 ……受信室での煝煆さんはこのように、いとも滑らかに読み上げてくれました。」

 蟠桃の横で立ち上がったままだった不意安が、彼から紙葉を分取ってそれを睨み付けると、これ以上もない緊張下でいがみ合っていた筈の氷織も、そこへ駈け寄って覗き込み始めた。イロハと言えば、顎の辺りを触りつつ少し見上げて、既に読んでいたその内容を顧みている。

 三竦みが崩壊した中で、黒野が続ける。

「その時の煝煆さんは、蟠桃さんから一旦奪った紙葉を、慌てふためきつつ手放した後、まもなく、自分の為にわざわざ読み上げて下さったのでした。つまり、その、晦渋かいじゅうにして古風だとされる文章について、事実上初見であったのです。にもかかわらず煝煆さんは、蟠桃さんとは比べ物にならぬ程巧みに、そして流暢に解釈しては、その内容を学語に直して下さったのでした。……学語のネイティヴである自分ですら意味を解せず音通り復唱するしか無かった、古めかしい語彙をも自在に使いつつ、です。」

 肩を寄せ合っていた不意安と氷織が、揃って黒野の方を、信じられぬものを見る顔、殆ど白痴の顔で見やった。しかし当然、注目されているのは彼ではなく、彼の背負う容疑者なのである。

 黒野は前を向いたまま、恩人が、背後から大きく一歩寄って来たことを悟った。別に物音が立ったのでもないのに、どうして自分は気づくことが出来たのだろう、などと、彼が取り留めの無いことを思っていると、

「どうしたんだ、塔也、」母親からのような、優しげな声。「どうしたんだ、突然訳の分からないことを。……何か、私が気に障ることでもしたか?」

 どれほど苛烈な反撃が来るのかと、顔を背けつつも十全に備えていた黒野は、しかし、こんな無量の情合いは覚悟しておらず、つい、その場で蹌踉よろけかけてしまう。

 だが、そんな彼を声のみで支えんとするが如き、蟠桃の矢庭な大声。

「何、嘯いてやがる煝煆! 巫山戯ているんじゃねえぞ!」

 黒野は、まるきり肝を潰す。先程まで寧ろ楽しげであったのに、あまりに突然な、その、擦り切れそうな声音と、燃えるような双眸には、蟠桃の明白な怒りが籠められていたが、しかし単に、騙されたとかお陰で命を危険に晒されているとか、そういう素直で即物的な怒りには、彼には見えなかった。なんだ? ……なんだろう、もっとこう、

「何だ貴様、女の腐ったような――という学語の言い回しがお前へも使えるのかは知らんが――真似しやがって!」

 煝煆からは、ただ、当惑した様子の声。

「巫山戯るも何も、全く訳の分からないことを言い出されたのだから、私としては何も、」

「巫山戯るんじゃねえと、言ったばかりだぞ煝煆!」

 鼓膜を破らんばかりの大音声だいおんじょうに、黒野が両耳を庇う内に、

「これ以上俺を怒らせるな、……というよりは、落胆させるなよ煝煆! 何だ、貴様のその態度は! お前が『悪魔』かどうかだなんて、この際二の次だ。いいか、お前は、誇り高きカハシムーヌの会員であり、そして、副長なのだぞ! 無益な博聞を、透徹した論理を、有毒な機知を、厚かましい狂信を、そして何よりも、を、俺達は言葉で振るうのだ。何をなよついているのだ煝煆! 貴様が『悪魔』かどうかなんて、少なくともこの瞬間の俺には全く関係ない。命だの『悪魔』だの、……だの、そんな下らねえことに構っていられるか!

 泣き言ではなく、まともな言葉で、この情況を切り抜けんとして見せろ!」

 蟠桃が、再び剣を抜く。激論の末に剣線を踏むような狼藉であるが、しかし、そのすがすがしい憤激は、逆説的に、彼が愚行を試みている訳ではないと皆へ悟らせていた。神官、即ち学者であり、また倶楽部カハシムーヌの会長でもある男、蟠桃。そんな彼が持つもう一つの本質、イロハへの狂信でなく、論理や科学への殉道。その悲劇的な人生によって附加されたものではない、天稟の気性の方が、今こそ発露しているのだった。

 期待された通りに、暴力や危害ではなく、ただ挑戦を示す為だけに、彼は切っ先を煝煆へ差し向ける。

「まず俺からだ! 黒野君が今蓄音機のように諳んじた言葉、俺も確かに受信室で聞いたぞ! ということは、俺と黒野君の双方が不誠実である、つまり『悪魔』が複数存在するという有り得ない情況を除けば、あの時の貴様はやはり、この所々解釈困難な繁文はんぶんを綽々と読みこなしたに違いないのだ。更に、黒野君も聞いたことの無いような学語の語彙をも、やはり貴様は自らのもののように用いたのだ。……これらが、『悪魔』らしき力、つまり、俺が一旦目にしたことによって紙葉に穿たれた『意味』を直接読み取る力によるのでないならば、なんによるのだと!?」

 彼の激歎が響いたのかどうか、とにかく煝煆は、尋常な口調へ戻りつつ、

「それは、あまりの暴論だろう蟠桃。学語世界から専ら自然科学を学ぼうとしてきたお前と、仏法のみでなく錬金術から文筆法にまで至る、弘法大師の余りに広範、そして歴史有る教えを永らく追ってきた私とでは、私の方がお前より、――いやもしかすれば、塔也よりも学語の古語に慣れ親しんでいて然るべきではないか。お前達は平成の文献を当たるのだろうが、此方の原著は平安だぞ!」

 一瞬、蟠桃は参ったように黙りかけたが、しかし、顔を上げた不意安が、

「もしかすると、鎌倉仏教と平安仏教の違いは有るかも知れません。……知れませんが、しかし煝煆さん、やはり私も、ヒンセキだのキソクだのという言葉は寡聞にして存じ上げません。どの様な仏書で遭遇したのか、具体的に教えて頂いても宜しいでしょうか?」

 そして、氷織が続く。

「そもそも、仮に貴女方菩薩が古い学語の語彙に精通しているのだとしても、我々の言語による晦渋な文書をつらつら解釈出来たという問題は、どうなるのでしょうかね。……ああ、神官として貴女が官僚言葉に慣れているのだという理窟は、蟠桃が該当していないのですから通りませんよ?」

 これら、世界や互いの命を懸けて啀み合っていた筈の二人から突然束ねられた二問を受けて、煝煆は少し黙り込んだ。しかしそれは、窮したというよりも、まずは問われた内容を精査して迂闊なことを返すまいと言う、カハシムーヌの論者らしい強かさだったのである。

「まさかお前達、」

 事実黒野は、此処までを背後から聞いただけで、彼女が元通りの鋭さを恢復かいふくしていることを悟った。

「まさかお前達、そんなにも緩やかな根拠を物証としつつ、私をくびろうと、――より言えば、皆の命運を、乾坤一擲の賭けに委ねようと言うのか?」

 黒野は、ここで目頭に熱いものを感じた。佐藤煝煆の、気高さ、強さ、そして理智が、声に乗って心地よく彼のうなじを擽り、彼から煝煆に対する憧憬や愛情に近いものを今一度思い出させたのである。彼は、改めて彼女の思いやり、特に自分の為に起こしてくれた憤りに感謝し、だからこそ、覚悟を引き締めた。

 自分が、他ならぬ自分が決めねばならぬ。自分がこの手で、舌で、彼女を介錯せねばならぬ。

 覚悟と共に、言葉を吐き出す。

「そこは、どうでしょう、か。そんな盲滅法なことも、無いと思うのですけど。」

 自分へ注がれている数多の視線が、それぞれ怪訝や希望を帯びるのを黒野は悟り取った。なんだ、まだ何か有ると言うのならば、さっさと明かすが良い。

 それらの期待へ応えるように、一語一語をしっかりと、

「我々には、まだ、切り札が残っているではないですか。」

 ……切り札?、と、恰も単語自体の意味が分からなかったかのように呟く不意安とは対蹠的に、イロハが、まるで帰郷した息子を出迎えたかの如く鷹揚に守谷の背を叩く。

「そうか!」その一言だけ口調を崩してから、「そうです! 守谷さん。貴男の魔術、嘘を見破れるそれは、一度だけしか行使出来ないと述べられていましたが、」

 彼女がそこまで叫んだ時点で、皆が一転、氷織のことを注視した。そうだ、そうだよ。確かあの時この女が暴れたせいで守谷の魔術、或いは蟠桃からの質問は、成就しなかった、

 突如沸くように緩んだ空気の中、蟠桃が、将官のごとく堂々と歩み出つつ、矢継ぎ早に指示を繰り出し始める。

「暫く噤んでいろ氷織! 万一にでも、今から俺の質問に答えた扱いになっては堪らん! ……守谷、あの魔術を再行使するには何が必要だ? 杯と水が有ればいいのか? そこらで汲んできた海水でもいいのか? そして不意安、」

 

「どうだろうかな、それは、」

 あまりに平然とした、煝煆の声。

 専ら蟠桃へ向かっていた、浮ついた注目が、この冷たい言葉によって、一挙に金眉の神官へ束ねられる。

「皆で盛り上がっているところ済まないが、守谷、一つ答えておくれよ。あの時お前の魔術は、確か半ばまでは進行して氷織の顔を白々と照らした訳だったが、……本当にそれでも、貴様の『使用回数』は保存されているのかい?」

 煮立った空気が、急速に冷えて行く中で、

「月齢がどうだとかよく分からなかったが、素人感覚では、あれは塔也の言うような『未遂』などではない。『失敗』だ。貴様は猶太式数秘術カバラに乗じた何かを確かに、そして、不様にも氷織の抵抗によって失敗したのだ。……違うかな。」

 答えを待つまでもなく、『悪魔』の目を持たない黒野にすら瞭然であった。仮借なく糺された守谷は、背を丸くし、何かを力なく口籠もるのみなのである。

 煝煆は、こんな守谷を前に、安堵を嚙み締めるような間を置いてから、

「惜しかったな、塔也。……いや、全く君のことは見逸れていたよ。私がもう少し落ち着いていなければ、君の強弁によってそのまま流され、命運を諦めてしまうところだった。

 ……しかしとにかく、残っていやしない武器を虚的に振りかざし、目的を達成しかけた、その手腕と言うか、腕力は、本当に目覚ましいものだったけどな。」

 宥めるような、上から下を見るような煝煆の優しい言葉。悠然と、黒野の論を綽々と破ったことを誇る、尊大な婆心。

 見破、られた。一世一代のブラフが、

 駄目か、駄目だったのか。確信したのに、そして決意したのに。自分が、自分こそが、真実を指摘せねばならぬと、そうでこそ、逆説的なれど、煝煆の好意に報いることが出来るのだと、思ったのに、

 つい俯きつつ、しかし、これで彼女のことを失わずに済むのでは、と、複雑に混交した情動を抱いた黒野を、矢庭な光明が射った。

 つい、数瞬ぼんやりしてから、

 閃き。

 そうか、そうだ。……そうだった! 蟠桃さんの、言う通り、

 彼は、顔を持ち上げて、乱れそうな息、縺れそうな舌を懸命に抑制しつつ、

「まだ終わってませんよ、煝煆さん。」

 駭然と、煝煆の目が屡叩かれる。

「なんだ、」間を置いてから、憤ろしく崩れる声音。「なんだ塔也! どうしてそんなに私のことを、」

 黒野は、首を振る。彼は、、具体的なを、その目に受け止めていたのである。

「煝煆さん、」声は、慄えていない。「これから、一緒に無線室へ来て下さい。」

 なおも煝煆へ背を向けている彼が、そう叫んでから低く指差したのは、夥しい木っ端に半ばうずまりつつ、床に転がっている奇妙な物体だった。

 まるで応答になっていない黒野の様子に、煝煆はまず訝しげな声を発したが、しかし数瞬後には、蟠桃と共に呻き声を漏らす。片や驚駭きょうがいの呻き、片や感歎のそれ。

 イロハと不意安による破壊行為を奇跡的に免れていたは、天板から解放されて、今や遺憾なく全角度へ、淡いなれど美しい、海のような青光を発しているのだった。

 円卓中央に備えられていた、。それが煌々と光り、二通目の無線到来を告げている。

 堪らずに、心的にも肉体的にも蹌踉めいた煝煆へ、黒野が、最後の一撃を叩き込む。

「そして、密かなまま無線室から持って帰ってきた受信内容を、皆さんの前で読み上げてくれますか?

 ……貴女が人間なら、当然に読める筈ですよね。、機械的な印刷物であろうとも!」

 

 目を円かに瞠った煝煆が、慄える手を口許へ持って行く。その様子を黒野は、壁に掛かった絵画を覆う硝子の反射に垣間見ていた。

 そこから何も語れない彼女へ、痺れを切らしたように蟠桃が立ち上がる。

「呆れた話だよな。」本当に、心底自他へ呆れたような様子で、「不可能と言っていた手法、誰にも触れられたことのない物体で『悪魔』を炙り出すと言うそれ、その実こんなにも簡単だった訳だ。機械的に記された文字、か。……ああ、俺達はそれを知っていた、というよりも、それによってこそ、こんな騒動に巻き込まれていたというのによ。

 さて、……二人だけで行かせた挙句、無理矢理黒野君に受信紙を見せつける、とでもされちゃたまらん。大儀だが全員で向かおう、無線室は二階だ。」

「いや、」

 煝煆が、ぽつりとそれだけ口走った。いとも静やかな一言であったのに、不思議と部屋の中で力強く響き渡って、いきり立っていた黒野までも速やかに冷却する。

「それには当たらぬよ。……会長殿、」

 この告白に悄然と顰めた蟠桃が、黒野や煝煆の方へ歩み寄ってくる。

「当たらぬ、って、……まさか、お前、」

「ああ、」

 黒野は、彼女が背後から自分を乗り越えて蟠桃を出迎えようとする気配を感じた。

「私は、」

 煝煆はそのまま黒野の横へ並ぶと、充分近くへ来ていた蟠桃の手を、何か優しげに摑もうとする。

 そして、つい、彼が応ずるように左手を伸ばした、

 その刹那。

 油断していたその腕を、煝煆が、太刀を抜くかのように引き落とす!

 遺憾なく投げられ、床へ顔面を叩きつけた蟠桃の呻き声を、上書きするかの如く、

「氷織!」

 しかしこの蛇髪ゴルゴンは、わざわざ煝煆から指図されるまでもなく、不意安の項を鷲摑んでいるところだった。やや伏しぎみにされた優婆夷の若々しい顔、いつも余裕を湛えていたそれが、驚愕と痛みの予感に歪んでいる。

 断頭台の刃の勢いで、自分の腕ごと狂信者の全身を床へ叩きつけた氷織は、そのまま器用に彼女の右手を踏み躙る。堪らずに放り出された錫杖を、夫の白沢が卒なく拾い上げた。

「上出来だ、氷織。」

 この声の元を追ったことで、黒野は久々に煝煆の顔を見た。蟠桃の、伊達の為だけに抜かれていた剣を綽々と没収したらしく、それをそぞろに弄んでいる彼女の、勇ましく誇らしげな横顔は、彼女の自白が狂信者二人を油断させる為の虚言であったのだという、いとも喜ばしい幻覚を黒野へ齎してくる。

 他でもない彼自身が彼女を追いつめたくせに、そうして矛盾の酩酊に浴する黒野を醒ましたのは、とうとう目の合った煝煆の作った、落莫とした笑顔だった。

「塔也よ、」歩み寄って来たイロハへ、夫の剣をぞんざいに返しつつ、「これだけは、言い訳させて欲しいのだがな。私がお前との協力を願ったのは、別に何か計算高い真似をしようとしたのではなく、……寧ろ、どうにかしてお前も私も救われる道は無いものかと、不合理な夢をつい見てしまっただけだったのさ。」

 『悪魔』の笑み、という言葉から黒野が想像するものと比べると、その微笑は余りにも悲しげだった。

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