22

 黒野は、不意安の傲岸な宣戦布告に対して、戦くことすら出来ないでいた。話の余りな厖大ぼうだいさに、現実感を喪失したのである。

 そこで彼は、ぼんやりと目の前の光景を眺めてしまいつつ、頭を搔き毟っている白沢はさぞかし苛ついているのだな、などと他人事のようなことばかり思っていたのだったが、このムスリムは、突然気が付いたように顔を上げると、

「イロハ婦人!」

 彼が縋るように燃え立つ福音主義者を睨み付けたことで、残りの者も思い出した。そうだ、そうだよ。そこの狂った優婆夷が暴力に訴えるのだとしても、此方には、何をも恐れぬ障壁術師、五郎八姫が居たではないか。

 皆からの、そういう期待の伴った視線を集めたイロハであったが、しかし当の彼女本人は猛っているでも怖け立っているでも無く、まただからといって、いつもの大物らしい鷹揚を示しているでもなかった。鉤状にした人差し指を脣だけで嚙むようにしつつ、沈思黙考している。

 妻がなんら反応を見せないことに、痺れを切らしたかのような蟠桃が、

「実際のところ、イロハさんと不意安が一騎討ちすれば、どうなるか分からんとは思うよ。イロハさんの障壁は完全無欠ということになっているが、しかし、これまで相手をしてきたニュートン力学的衝撃や冷熱といったものを超越する、『時空歪曲』に何処までそれが耐えられるのかは、さっぱり見当がつかないのだ。不意安の意志の伝達をし折って、その魔術の発動を破綻させられるのかも知れないし、はたまた、紙屑みたいに障壁の方が粉々にされるだけかも知れない。――学者の端くれとして興味が湧かないと言えば嘘になるが、生憎、試してみないとさっぱり分からん。

 だが、とにかく、……残念ながら、不意安は一人でないんだよな。」

 蟠桃が、厳かに、音高く剣を抜く。それから瞬く間に翻された、透明に輝く刀身には、霞む陽炎が纏わっており、剣から迸ってしまう寸前の一杯一杯まで彼が魔力をそこへ籠めていることが、黒野以外へ瞭然だった。露骨な、臨戦態勢。

「御両人のタイマンなら分からん訳だが、しかし、俺が加われば簡単になる。俺とイロハさんとで、五分五分とは言わねども四分六分か三分七分程度には力が拮抗しているのだから、戦力として互いを打ち消し合うことになり、……つまり、残った不意安が、一人で綽々と全員を薙ぎ倒せるだろうよ。」

 国士として、類い稀なる叡智と強さを兼ね備えると言う男、蟠桃。彼が鬱屈した生涯を通じて病的に鍛え上げてきたそれら、彼の「強さ」が、今こそ、構えられた剣と吐かれる言葉によって晒されて、場の者を威圧するのだった。黒野が盗み見れば、イロハすらも、その身を僅かに慄然としている。

「そう、だよ、」呆然と目を屡叩いていた煝煆が、泡を喰うように、「そうだよ蟠桃! 確かにお前等は、それぞれ比肩する、障壁術と消術の練達たる夫婦として高名であった訳だが、……そうだよ、だろ! しかもお前からイロハの想いは、尋常な愛情と言うよりも、最早憧憬、――愛は愛と言っても、本来なら神へ抱くようなもの、お前が失った信仰心を埋め合わさんとする程のものではなかったのかい? そんなお前がどうして、イロハへ仇を為してまで、不意安の肩を持とうというのだ!?」

 蟠桃は、悩ましげに何か猶予ってから、

「正しい目的の為には、愛や恩義を乗り越えねばならないことも有るだろうよ。……いや寧ろ俺は、イロハさんへこの上ない恩義を抱いているからこそ、彼女の悲願でもあるより良き世界を、どうしても実現させねばならないのだ。もしもそれが、彼女や他の市民諸君へ、激烈な痛みをもたらすとしてもな。」

 この、同僚が綽々と吐いた言葉に籠められた、常軌を逸する信念に対し、煝煆がなんとか、狂っているよ貴様も、と毒づけば、光栄だね、と彼も返すのだった。

「……蟠桃、」

 それだけ、どうにかと言う体で呟いたイロハの方へ、黒野は振り返る。最早体のみでなく声まで慄えていたので、どれだけの悲歎や恐怖を彼女の姿に拝むことになるのかと、彼は不安になりながらそうやって翻ったのだったが、

 しかし、

 イロハはその実、杖を握っていない方の手で腹の辺りを押さえつつ、……しているのだった。そこから流石に憚って、歯を喰い縛るようにはするのだが、しかし両頬は露骨に吊り上がっており、歯の間からは尚も笑いの息が漏れている。

 つまり、慄えとは言っても、その実大笑を押さえ切れていないだけだったと言うことが判明して、一座はぎょっとした。なんだ、…… 何が、こんな情況でそんなに可笑しいのだ?

 彼女は尚も笑いを嚙み殺しつつ、陣頭指揮を取るかのように、その短い杖の先で夫を指しながら、

「蟠桃! もう、茶番は宜しいでしょう。何せ世界二つが転覆せんと言う、これ以上もない瀬戸際なのです! けちけちせずに、貴男の本音を皆様へ吐き出したらどうですか!?」

 この楽しげな障壁術師は、しかし、夫が躊躇っていると見ると、

「ならば、いっそ私から語りましょう。ええ、昨日、白沢さんと氷織さんのお二人が、言葉の定義によっては実際の『夫婦』ではないと判明した訳でしたが、……実は私と蟠桃も、似たようなものだったのですよ。」

 イロハの突拍子もない哄然によって、すっかり威を洗い流されてしまった感の有った不意安が、秀眉を持ち上げつつ、

「ええっと、つまり、貴方方御夫婦も肉体関係をお持ちではない、と? 禁欲を美徳とする点で我々と共通点を持つ、貴女方プロテスタントですが、しかし梵網ぼんもう戒や具足戒では戒められつつも聖書では許されている性行為についてまで、イロハさんは個人的に遠慮を為されるのですか?」

 これを聞いたイロハは、只管に愉快そうだった笑いを潜めさせると、今度は、含蓄深い微笑を泛べながら、

「いえいえ、信心は全く関係有りません。そもそもですが、この私が、と同衾することなど、どうして有り得ましょうか?」

 この、さらりと吐かれた言に、不意安は何か聞き違えたかと眉を顰め、首まで傾げたが、しかしイロハは一切の訂正を行わぬまま、

「私は、帝王にならねばならぬ、高貴極まりない家の一人娘として生まれたのです。そんな私が、多少のを獲得したとは言え、殆ど野猿に過ぎぬ出自の男と契りを結んだ挙句、体を重ねるなど、……想像しただけで、身の毛がよだつではないですか。」

 これを聞いた不意安は、瞠った目をぱちくりしつつ黙然としてしまう。

 そこで、恰も手番を代わったかのように蟠桃が、剣は構えたままなれど悄然しょうぜんと頭を搔きつつ、

「つまり、……イロハさんは、こういうお方なんだよ。お近づきになってから暫くして、俺が、貴女と一緒になれたらこの上無いですね、なんてことを冗談めいて言えば、ええ構いませんよ、なんてことを即答してくれた訳だったが、……まぁ、それには中々手厳しいコンテクストが纏わっていた訳だ。つまり、俺と言う結婚相手は、イロハさんの偉業の一つ、『啓蒙団』の掃討を市井へ思い出させるのにいとも好もしく、また、諸教会へ喧嘩を売るのにも良い口実だった訳だよ。前者はそのままイロハさんの名声、つまり議員や名士としての『実力』となるものを強め、そして後者も結局、果断なる弁者イロハという像を強化するのに、中々役立ったわけさ。」

 ここで氷織が、夫を押しのける勢いで前へ出て来つつ、

「そんな、馬鹿な話が有りますか? つまり、蟠桃のことを欠片も愛さず、それどころか人間以下の(氷織は、この言葉を吐いてから一瞬脣を嚙んだが、とにかく続けて、)……猿だのなんだのと吐き捨てるという、この上なく醜い人種主義の悪意をぶつけておいて、挙句偽装結婚を申し出るなど、……なにが結婚ですか! 何が夫婦ですか! 貴女のような女に、これらの清らかな言葉が僅かにでも汚されたこと自体すら、私には我慢なりません!

 そして何より、……蟠桃! 何故貴男は、そんな婚約など受け入れたのです!?」

 蟠桃は、寂しげに舌を一つ打ってから、

「俺だって、別ににっこり幼気に受け入れた訳ではないさ。そりゃ、とにもかくにもイロハさんと一つ屋根の下で暮らせることは至上の喜びだったが、しかしやっぱりそう言う、軽蔑と言うか、部族が軽んじられるのは辛かった訳だしな。

 しかし当時の俺にも、条件と言うか希望が一つ、婚約に際して提示されたんだよ。……この私を、見返して見せろ、ってさ。」

「……は?」

 そう呻く氷織を無視して、蟠桃は、イロハの顔を真っすぐ指し示す。

「つまりだ!」絶叫。「俺は、イロハさんと本当の意味での夫婦になる為に、そして、イロハさんとの間に子を儲け、彼女の叡智と強かさと高貴さを受け継いだ神童を育てると言う、これ以上もない栄誉に浴する為に、イロハさんの鼻を、どうしても明かさねばならないのだよ! 俺のことを、そして何よりも人間と言うものを見直させて、本当に、俺を言う人間を愛してもらう為にな!」

「馬鹿を言いなさい!」氷織が、此方を向けとばかりの勢いで、「イロハを見返す為に、或いはイロハと結ばれる為に世界を転覆させては、何も意味が無いでしょう! 目的と手段の顚倒てんとうなど、蟠桃、貴男ほどの男がそんな愚かしい真似を

「じゃあどうしろってんだよ、氷織! 命の一つや二つ、……、懸けないで、この方を見返せるなど思っているのか!? 昨日何か悲劇を披露してはくれたがね、しかし結局、幸福に愛を謳歌している貴様等は知らないんだ! この上なく愛しき女性と、毎日寛いだ姿で顔を合わせて、毎日食事も共にしているのに、しかし、本当の意味では全く心を開いて下さっていない、その瞳の冷たさを、身を凍らせるような厳しさを! ……最も近いのに最も遠いという事態の、残酷さを!」

 そこから先は、引き絞られたように悲痛な声で、

「当然に、俺はあらゆる手を尽くしてきたんだよ。何やら、有り難いことに俺は国士と呼ばれているが、とんでもない! 解放後の俺はただ、イロハさんの為に、イロハさんに俺のことを見て頂くために、生涯を捧げてきただけなのだ! それが国や科学の発展に繫がっていようが、知ったことか!

 でも、……駄目だったのだ。俺が何を達成しようと、どう国を扶けようと、イロハさんは俺を認めて下さらない。ならばもう、もっとでかいもの、……だろう!? そしてそれくらいの話を打ち上げれば、イロハさんも肝の一つくらい潰して、きっと俺を認めてくれるだろうさ! 永年悶々としていた俺の前にある日現れた、不意安、狂える老獪な優婆夷は、まさに、俺にとって天使か神かだった訳だよ!」

 煝煆が、信じられぬと言う顔で吃りつつ、

巫山戯ふざけるなお前、そんな、下らない痴話喧嘩に世界を巻き込むな!」

「何を言うかね煝煆! 俺に言わせれば、下らない妄想で世界を台無しにしているのは、貴様等妄想家の方だ。……何が神だ、何が仏だ、巫山戯やがって! 貴様等は、馬鹿な妄言で、どれだけの数の人生を毒せば気が済むんだよ!?」

 そこまで叫んでから、はっとした様子で、

「と、失礼、お前は棄教したんだったな。とにかく、……どうでしょうかね、イロハさん! 少しは、俺も貴女を見返させつつありますか!?」

 イロハは、まるで夫婦の尋常な会話であるかのように、いたって寛然と、

「ええ。……些か、驚かされました。成る程、確かに私の手にすら負えない事態を引き起こしつつある訳で、蟠桃、貴男への評価は少々改めねばならないでしょう。」

 これを聞いた蟠桃の顔が、確かに綻んだ、

 その刹那、

「惜しい、実に惜しいですね蟠桃。あと、ピースが一つ足りないだけでしたでしょうに。」

 イロハは、この一言で、夫の莞然かんぜんを綽々と破壊してから続ける。

「貴男は美事、私に感づかれぬままこんな大悪事を企み、そして、『悪魔』騒動という想定外の事故すら利用しつつ、目的を成就させつつあります。いやはや、その果断さ、その発想、執念、理性、……そして何よりも、狂気。全てが、本当にお美事です。……ですが、」

 文面は称讃であったが、それを載せる声音は、凍てつくように冷たい。傍聴しているだけの黒野が、身顫いしてしまう程の冷然だった。

 彼女は尚も、稜々りょうりょうたる言葉で、戦慄の舌で、空気を刻み続ける。

「惜しい、本当に惜しいですよ蟠桃。あらゆる備えを為せていた貴男は、しかし、私の本当の力を見たことだけは無かったから、必要な戦力を計り誤ってしまった。

 なんでしたか、貴男と私の力が、三分七分? ……鹿。」

 イロハが、その短い杖を突き出す。

 

 我にNoli me触れるなtangere


 そんな瞬く間の詠誦が済んだ刹那、巨大な円卓が

 彼女の足下から、眩き琥珀色の障壁が生成されたのだったが、巨大な牙のごときそれは、尖端部の分子単位に及ぶ鋭さと、神域に及ぶ成長速度によって、分厚く岩乗がんじょうな木材の繊維質を、まるで流体の如く綽々と嚙み切ったのである。

 皆が、突然の光景に絶句しつつ、支えを失った天板の緩慢な落下を見守ってしまう中、イロハは障壁を、上から下へ幕をしまうように解除した。それによって、彼女の、自信の汪溢した傲岸な笑顔が晒される。一本のほつれも無く固められている、月白色の髪に覆われた莞然たる相好は、黒野にすら何か神々しきものを見出させる、圧倒的な威を誇っていた。

「不意安さん。貴女は何やら随分と、爪を隠していたことを御自慢にしていたようですが、しかしそんなことは本来、魔術師ならばわざわざ威張るほどでもなく、そして結局、秘していた力の程度も私に遙か及ばないのですから、最早傍ら痛しの極みであり、……いやはや、言葉が有りませんね。」

 矢庭なイロハの絶技に、少女の如く目を剝いていた不意安は、しかし、口許を押さえていた手を外すや否や、

 

 南無、阿弥陀仏


 俄に吊り上がった両頬から、神速の口称が行われると、無事であった円卓の残り半分が、――触れられもせずに、宙へ泛かぶ。

 見た目上は花盛りな娘である彼女が扱うには、余りにもおおきい筈のそれは、しかし軽々と回転させられつつ、瞬く間に、撚りの如く捩れて行く。最早一本の手綱にされてしまった円卓の成れの果ては、毛糸玉の如く丸く編まれると、そのまま宙で、一顆の黒真珠にまで凝結させられ、次の刹那、新星のように華々しく弾け飛んだ。

 轟音と衝撃が迸り、木っ端と木の香りが舞う中で、優婆夷も、無表情となったイロハへ危殆な笑みを差し向ける。

「ならば、……みますか? この若造が、」

 イロハも、しかし、露と怖じずに睨み返す。彼女が、最早蟠桃へ一瞥もくれない様は、こんな情況下ですら、夫を軽蔑することへ病的に殉じているかのようであった。

 方や菩薩。方や耶蘇。それぞれこの上なく敬虔にして傲慢なる、女帝達。その二人が、残んの者に取っては絶望的な、まさに一触即発の対峙を演じ始めた、

 その刹那、

「待ちなさい貴様等!」

 氷織の、ガラガラ声である。

 イロハは、いとも大儀そうに、不意安の方は、子供の駄々に付き合うが如く憐れみ深く、つまりいずれにしろまともに一人前に扱わない態度で、このムスリマの方を見やったのだが、

 その二人がして、目を、月のように瞠って絶句した。

 杖を没収され、つまり魔術師としての武器を持たない、この場では黒野に次いで無力であった筈の氷織は、白沢から預かったのらしいナイフ一本で、二人の魔帝を凍りつかせたのである。

 氷織は、その美麗なアラビックナイフを、ゴーグルのベルトに当てていた。より言えば、顳顬とベルトの隙間へそれを挿し込んでおり、蛇髪ゴルゴンの膂力をもってすれば、一瞬裡にゴーグルを切り飛ばせることが明らかな状態だったのだ。

「少しでも、馬鹿な真似をしてみなさい、……生き残った方を、私の目が殺します。」

 不意安がたじろぎつつ一歩退いてしまうと、氷織は、その間を埋め合わせるかのように声を張りつつ、

「どうやらお二人とも大層、魔術の展開速度に自信が有るようですが、……視線と言う光速度の武器を、果たして追い越せるのでしょうか?」

 最早緊張を解いてしまった不意安が、少し呆然とした後、かぶりを振りつつ、

「参りました、……ちょっと参りましたねえ。それは、

 イロハさん。この情況は果たして、私と貴女のどちらが蛞蝓で、どちらが蛙なのでしょう?」

 不意安の漏らした暢気によって、此方も少しほっとしたらしいイロハは、半ばまで捧げていた杖を下ろしつつ、

「流石に、虫拳を興じたことはないですがね。

 それはともかく、不意安さん。……思うのですが、こうなれば互いに、手を引かざるを得ないのでは? そもそも貴女が狼藉を諦めてくれれば、私も暴力的な真似をせずに済むのですから、誰も、邪眼の怒りに浴する必要が無くなるのです。」

 大人しくなっていた不意安は、しかし、ギンと、まるで自身も邪眼の力を持つかのようにイロハを睨み付けると、その錫杖で音高く床を打つ。

 一瞬怖じてしまったイロハへ、琳琅りんろうたる余韻を背景にしつつ、

「そうは、参りませんでしょう! 情況をお忘れになりましたかイロハさん、未だ我々は、船内に『悪魔』を抱えているのですよ! 私共が矛を収め、そのまま大人しくしておれば、全員と☆△□王国へと運ばれた挙句、下手をすればそのまま破滅なのです!」

 威を毀たれ掛けたイロハは、懸命にそれを保とうと肩を張りつつ、

「それは、そうでしょうが、……だからといって、どうしろと?」

「これはこれは、……貴女程の方が、そこまでお忘れですか! つまり、それによって私と黒野さんと言う被疑者を消すことが出来るのですから、私の願う通りにさせて下さいと言うことですよ! 私は法の世界の為に命を使うことが出来る、皆様は25%の可能性で悪魔を排除出来る。黒野さん以外にとってはどちらにしても望ましいですし、彼にとっても、故郷へ戻る貴重なチャンスではないですか!

 黒野さんと関わりの深い蟠桃も、彼の身柄よりも、貴女、イロハさんを一度でもぎゃふんと言わせることの方を望んでいるのですし、それに貴女に至ってはきっと、蟠桃にとってよりも更に、黒野さんのことはどうでも良いのでは?」

 この執拗な説明を一挙に述べられたイロハは、うそ笑みを見せつつ、

「とても、優婆夷とは思えぬ発言ですが、」

「俗世に住まう皆様のお気持ちを、想像しての言葉で御座います。

 とにかくですよ。イロハさん、……貴女にとって、今、脅威となりうるのが私と氷織さんしかいないのならば、此処は一つ手を組んで、共に氷織さんを排除しませんか? そうすれば何も憂慮することはなくなり、遺憾なく、私は黒野さんとの遙かな旅路を試みることが出来るのですから!」

 兇悪な共闘の気配に、氷織が流石に恐ろしげに眉を顰め、そしてそんな彼女を改めて庇うように、白沢が立ちはだかり直す。

 しかし先程とは対蹠的に、イロハは最早、この夫婦のことを気にも留めない様子で、

「誤魔化しを、

 もしも貴女の旅路とやらが成功裡に終われば、この世界は破滅し、しかも仏教一色の世界として生まれ変わると言うのですから、成功と力と信仰を謳歌している最中の私が、そんな危険性を受け入れる訳無いでしょう。」

「これは、異なことを仰言いますねイロハさん。……私が言うのも奇妙ですが、しかし、そんな荒唐無稽にして無為無策な時空旅行が、どれだけの確率で成功すると思われているのですか?」

 思慮するように顎を引く、イロハへ、

「どんなに希望的におもんみても一割、中立的に推し量れば三分か一分か、せいぜいその程度の確率だと私は思っています。ならば、その紙のような可能性が成就してしまうおそれよりも、『悪魔』を排除出来得る利益の方が、イロハさんにとっても大きいのではないですか?」

 屈んでいた黒野は、とんでもない自殺的企図に付き合わされるのだと改めて把握し、庇われつつ叫びそうになったが、しかし、喉が張り付いたようになって声が出なかった。そんな彼に気づいたのか、煝煆は、後ろ手を伸ばして彼の肩を支えてやる。

「案ずるな。何とかしてやるさ、……なんとか、」

 そう、頼もしげに呟いてはくれる煝煆であったが、しかし、蟠桃よりも更に力の劣るらしい彼女が、この苛烈な鼎談に対して何か干渉出来るかは疑わしく、実際、黒野へ伸べられた手も、力なく慄えているのだった。

 そして黒野は、こんな彼女の誠実な戦きに気づいたことによって、いとも情感を抱いたのである。自分だけではなく彼女を護る為にも、自分が、自分こそが、今こそ戦わねばならぬ。しかし、……しかし、

 ………………

 結局彼は、心奥でふくらんだ撞着によって押し出されるように、言葉を一塊吐き出した。

「一つ、有りますよ。」

 この曖昧な、しかも震えていた言葉を聞き咎めた不意安が、傲岸な流し目を寄越してくるのへ、挑みかかるように彼は立ち上がり、そして、一歩二歩と踏み出す。

「一つ、有るんです。貴女方が三竦みのままで、つまり誰の血も流さぬまま野蛮な目的地へ到着しても、八人全員が無事で済む方法が。……イロハさん、何か決断を為すのは、それを聞いてからにしてもらえないですか?」

 漸く、彼の方に視線を向けた彼女は、まるで期待していないような相好で、

「何ですか? その、夢のような方法とは、」

「指名すればいいんですよ。ここでその『悪魔』とやらを、徹底的に確実な論理や証拠と共に。」

 すぐさま向き直した彼女の横顔が、鼻で笑う。

「もしもそんなことが可能なら、勿論くは御座いませんが、」

「可能です。確実に、」

 このように彼が口走った直後、イロハがはっとした顔を改めて黒野へ向け直す一方、不意安の方は、嘲弄的に一息笑いつつ、

「余りにも、馬鹿馬鹿しいですね。これだけの識者が寄ってたかっても果たせなかった偉業を、貴男なんかが、と言っては余りに失礼でしょうが、とにかく、果たせるなど、この上なく驕僭きょうせんな妄念と言わざるを得ません。」

 黒野は、この冷然に怖じかけた。何せ、そもそも彼自身も「確実」などとは思ってもおらず、その言葉は、勢いのまま飛び出した麗句に過ぎないのであったのだから。

 しかしここで、暫く蚊帳の外に有った蟠桃が、剣を収めてから自分の椅子へ座り込みつつ、

「まぁ、取り敢えずは聞いてみようじゃないかよ不意安。それくらいの時間は、ギリギリ有りそうだぜ。」

なとど、会長の権力を思い出したかのように述べれば、優婆夷も、肩を竦めるだけで肯うのだった。

 黒野は、長い息を一つ吐いてから、

「有り難う、御座います。」

 そうして、何に対して、誰へ対してかも分からぬ礼を述べると、彼は気合を入れるように、踵の動きだけで床を一度踏み叩いた。

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