回顧的な夢から醒めた朝、書生(ということになっている)彼は、久々に主夫婦の朝食に招かれていた。

「それで、昨夜はたのしめたのかな。」

 そう流暢に話しかけてきたのは、あの、かつて彼を『神殿』で出迎えた浅葱髪の男で、つまり黒野はずっと、恰も家鴨の刷り込みの如く、この世界で最初に出会った男の世話になっているのだった。

 この人もすっかり日本語上手くなったよな、と改めて感心しながら、

「はい、それはとても。……ああいう機会、もっともらえると嬉しいんですけどね。」

 主人、蟠桃ばんとうと名乗る彼は、頭を振りつつ滑らかな発音で、

「ああ、分かってくれよ黒野君。君が『日本的』であることが、この世界でどれだけの価値を持っているのか。例えば、自分で言うのもなんだが、俺やイロハさんの学語(彼らは日本語をこう呼ぶ)が、君のお陰でどれだけ上達したものだろうか。俺達にとって学問の聖地である『日本』が、五体の隅々まで沁み渡っていて、一挙手一投足をもってそれを滲み出す人物、言うなれば『預言者』と交流出来るというだけでも貴重な機会なのに、共に住まうてくれるだなんて、この現状は本当に有り難い幸福なんだよ。……この、『有り難い』というのは字面通りでもあって、本当に『有り得難』く、『稀』なんだよ。そんな希少な幸運を、むざむざ君をこの世界の世俗に汚染させることで、抛てと俺達に言うのかい?」

 概ね予想されていた返答に、まぁ衣食住を宛てがわれているし勉強もさせてもらっているしなぁ、と、力なく肯うことしか黒野には出来ないのだった。

 食卓を占めるもう一人、学語では「五郎八いろは」と名乗る蟠桃の年上の妻は、にこやかに話を聞いてはいたものの、夫の言葉尻が気になったようで、

「『預言者』とは、気安く使ってくれますね。無神論者、しかも飛び抜けて急進的な貴男が使うと、弄しているようにしか聞こえませんよ。」

 同じく水色系だが蟠桃よりも遙かに薄い色――本人曰く、学語では『月白げっぱく』と表現して欲しいらしい――の髪を冠する、長身長髪の彼女が、基督教プロテスタント系であり、それも、教会で神父だか牧師だかと教義上の大喧嘩を演じられるほどの敬虔さと知識を持つと知っている黒野は、彼女と蟠桃のことを、変な夫婦だよなぁと常々評していた。彼女も言ったように、夫の方は宗教を軽蔑して已まず、しかし同時に二人は仲睦まじいのである。

 彼らの母語でどうなのかは知らないが、少なくとも学語では常に、年上の妻へ敬意を籠める蟠桃は、今日も鹿爪らしく、

「イロハさんの仰言おっしゃるところも分かりますがね、しかし例えば、自分の職務は一応〝神官〟と名付けられていますから。つまり、猶太、基督、伊斯蘭、仏教、儒教、道教、神道だとかなんとかの教徒を引き当てる、というか出迎えるのもしょっちゅうなのですから、やはり〝旅人〟のことは、一般に預言者と見做しても大きく過たないでしょう。」

 イロハは、茶――と取り敢えず学語訳された、渋く熱い、空色の飲み物――を一口含んでから、

「成る程、一理は有りますか。何にせよ私としては、主の教えを伝えて下さるタイプの『預言者』を招いて頂きたいものです――真剣な意味で預言者を名乗られては、教義上少々困る訳ですが、」

 蟠桃は、偶〻たまたま両手に持っていたフォークとナイフを道化て広げながら、

「それは、俺に言われても困りますね。こっちから望んで学語世界から人を連れ込むだなんて、そんな非人道的な真似は出来ませんし、そもそも方法が分かりません。あくまで、次元の遭難者というか漂流者というか、我々はそう言った人物を拾い上げるだけですよ。

 というかですね、……それ、本当に嬉しいんですか?」

「何がです?」

「貴女のように――気の毒で無為なことに――造詣も信心もいとも深い教徒が、今更誰かから基督教の講釈を何かお聞きになって、どうにかなるんですか?」

 イロハは、何か余計な一言が聞こえた気もしますが、と述べ、蟠桃に、気のせいでしょう、黒野君からちゃんと学語習った方が良いですよ、と返されてから、

「とにかく、そんなことは無いですよ。勿論アヤニヤの如く、その方が私の目から鱗を落としてくれればこの上ないですが、しかし、……愚にも付かぬ半端者な論者でも、それはそれで私にとって幸いなのです。」

 女身にしてはしっかりとした体格を持つイロハは、好戦的に片頬を吊り上げると、

「信仰心にせよ神学知にせよ、自信ばかり育って内面の伴っていない馬鹿者を叩き潰すのは、苦い教訓を得る彼にとっても、法悦を得る私にとっても、全き幸いなのですから。」

 渋い顔となった蟠桃は、肩を竦めてから、

「相変わらず、良い趣味してますよね。」

「主も申されております、『私は、平和でなく剣を地上へ齎しに来たのだ。』と、」

「……それって、若かりしカルヴァンの言葉では?」

「いえ。それはそもそも、『マタイ伝』34章からの引用です。」

「へえ、そこは知りませんで。……ちょっと残念ですね。後に50人強を直接処刑せしめた所業、そしてそもそも数多の戦乱の遠因となったことを思えば、27歳のカルヴァンは実に自身の将来を正確に予言してみせたよなぁと、酷く感心していたんですが。」

「彼の教え自体は多少好もしく思っておりますが、しかし、権力を市民から預かっている私としては寧ろ、そうやって血腥い力を振るわぬよう自戒せねばなりません。貴男や恵まれた友人達との、こうした議論は、その為に役立っていると私は思っておりますよ。様々な角度からの正義や信念を浴びせられて、良い具合に冷却させられますから。」

 蟠桃は、訝しげに眉を上げつつも、

「それはそれは。となると、……思っていたより、我々は光栄に浴していたようですね。ユグノーの如き未曾有の殺戮を、本当に防いでいたとすれば、ですが。」

 すっかり置いて行かれ、マタイデンとかカルバンって誰だ、と訳の分からないことを思っていた黒野だったが、ふと、蟠桃は思い出したように彼の方を向いて、

「ああ、今の話で思い出した。そうだ黒野君、近々ちょっと君を小旅行に連れ出そうと思っていたんだが、興味有るかな。」

「……はい?」

 話の脈絡が追えなかった彼がそう漏らすと、蟠桃は、成る程、学語ネイティヴの生返事はそうなるのか、とでも言いたげにふんふん頷いてから、

「ああ、いや。俺が社交倶楽部を主宰していて、イロハさんもそこへ加わっていることは、君も知っているよな?」

「カシハムーン、でしたっけ?」

「〝カムーヌ〟だ。」

「まぁ、こっちの言語のことは存じませんけど、」

 習得するチャンスも与えてもらってないからなぁ、という嫌みを籠めた彼であったが、蟠桃は平然と、

「いや。君の世界の言葉、亜剌比亜語だけどな。」

「……へえ、

 いやまぁ、結局そんな言語全然知らないですけどね。」

「俺も、『クルアーン』から良さそうな単語を拾っただけさ。とにかくこの、『論争好き』を意味する名前を持つ倶楽部の会合にな、今度黒野君も連れて行こうかと思っているんだよ。」

 これを聞いて、漸く此方の世界の社会に幾らかでも触れられるぞ、と一瞬喜んだ彼であったが、ふと思い出し、

「確かその、カハシムーヌって、日本語遣いが集まる倶楽部ですよね?」

「ああ。この世界で一定以上の教養を修めるには、学語が分からねばならないからな。君達における英語のようなものさ。

 そんな紳士淑女の中でも、倶楽部に居るのは、俺が特に選りすぐった連中だよ。皆、碩学聡明の魔術師で、何かしらの確乎たる宗教的信念が有り――ああ、最近一人だけ揺らいではいるが――、そして、何よりも、『論争好き』だ。

 そんなカハシムーヌに今度新顔が一人入って来るんだが、此奴が本当に凄い、一流の論者でな。是非大歓迎を以て迎え入れてやりたく、一つ小旅行を企画したんだよ。この国から見て真東に位置する☆△□(黒野が聞き取れない現地語)王国まで船で向かって、その往復路で思いっきり討論に耽るんだ。そうして暫く強制的に世間から隔絶されてしまえば、実に濃く実に実りの有る議論に、没頭出来ると思わないか?」

 海外旅行は嬉しいが、その前にそもそも此処の国に触れさせて欲しいな、だとか、そんな日本マニアばかり集まるのでは結局あまり多くを学べないか、などと残念がった黒野ではあったが、しかし、この屋敷に閉じこもっているよりもずっとマシであることに疑いはなかったので、東方ですか、暖かそうで何よりですね、と訳の分からぬことを述べてみてから、

「喜んで同行したいですが、……つまり自分も、議論に加わせられるので?」

「まぁ、基本的には、殆ど傍聴して居てくれれば良いさ。そりゃ、本当は黒野君にもばりばり立派に話してもらって、ウチの書生を自慢したいものだが、……正直、相手が悪い。倶楽部の少なからずは、知識慾、論理力、そして闘争慾の権化みたいな化け物だよ。勿論、日本の土着民である君の生きた知識も、場合によって光りうるとは思うのだがね。」

 つまり、ペットの自慢のようなものか、と思った黒野は、この言葉を一旦とともに呑み込んだが、しかし、そうかそうかそんなにアンタらは口論好きなのか、とも思い直した彼は、蟠桃へ改めてそれを叩きつけた。

 喰らった彼は、愉しそうに、

「まぁ、否定はせん。日頃飲み喰いには不自由させていないのだから、偶には君のことを自慢させてくれよ。黒野君にとっても、気晴らしになるだろうしな。」

「まぁ、承知はしました。それで、討論の席に着けというならば、何か、当日までに勉強しておいた方が良いことって有ります?」

 夫婦が一旦顔を見合わせた後、妻の方から、

「議題になりそうなのは、アブラハムの宗教、つまり猶太、基督、伊斯蘭。そして仏教、中でも浄土教や密教、後は自然科学ですかね。ああ、儒教、道教、神道などは、あまり強い者がカハシムーヌに居ないので、もしも学語世界の生きた知識で語って頂けるなら、とても興味深くなると思うのですが。」

 あんぐりする黒野を差し置いて、蟠桃は軽く退けぞりながら、

「ああ、そうですね。そもそも儒教とか道教って、あまり〝旅人〟が来てくれないんですよねぇ。ひょっとすると、そもそも日本に教徒が居ないのか? ……しかし、儒教道教の影響が、社会文化に明らかな筈なのに、」

 どうやら嫌みや虚仮威しではなく、本当にイロハの語ったようなことが期待されてしまっているらしいと理解した黒野は、自分が、檀家となっていた寺の名前も覚束ず、降誕祭やヴァレンタインは何となく品物を授受し、それっきり行かないくせに「詣で」と称する儀式へ毎年神妙に赴き、年上は取り敢えず敬い、冠婚葬祭は六曜を気にするという、典型的な曖昧日本人であったことを少し恥じながら、それに加え、例えば蟠桃はどうやら自然科学のであり、つまり日本から伝来してきた情報を真剣に学ぶことによって大学生だった自分よりも遙かな科学知識を持っているとも知っていたので、確かに、カハシムーヌの他の連中も強者揃いなのだろうと、すなわち、狼の群れに放り込まれる、としては言い過ぎにせよ、しかしとにかくいとも心許ない思いを、その小旅行へ向けて覚えたのだった。

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