カハシムーヌ

敗綱 喑嘩

 黒野は、この剣と魔法な世界に転生せしめられて以来初めて、多少は華やかな場所へ出て来ていた。具体的には、中学時代の社会科資料集に載っていたルネサンス時代の挿し絵よりも、三回りも四回りも小規模な、映画館よりも小さそうな劇場に座っているのだったが、しかし、折角の貴重な機会にも拘らず、彼はずっと退屈させられている。歌唱も小劇も、彼にはよく分からなかった。奇妙に感ぜられる旋律や脆弱な楽団という要因も有ったが、何より、彼はこの国の言葉を会得しておらず、そこで、演目の醍醐味を味わう為に大きな障碍が存在していたのである。

 あまりに飽いた彼が、視界の、この世界では尋常な色、青系統の髪色を纏う観客らの後頭部を数え始めた頃、喧しく何かを朗唱していた演者が漸く頭を下げて立ち去り、次の演目が司会から述べ上げられた。

 あんな発音をして舌が良く縺れないな、とだけ彼が思っている内に、上手から現れた大トリの演者が、颯爽と舞台の中央へ歩いて来る。まず黒野の印象に残ったのは、その女の重たそうな菫色の髪が、舫い綱よりも太く、しっかと一本に束ねられて膕の辺りまでずっしり伸びており、そしてその先端に、巨大な鏃のような、黒い正三角形のアクセサリーが付けられていることだった。

 この演者が現地語で「蠍」と呼ばれる所以の一つである、彼も見惚れた艶やかな髪綱は、彼女が観客の方を向く為に身を翻したことで宙に躍り、大蛇のような活潑を見せては、黒野の覚えていた頑固な退屈を砕き始める。髪のみでなく、華やかな衣装の襞もそれぞれ閃き、そこへ目が奪われたことで、演者の顔が実に若々しく、自分よりも幾らか年下、二十かそこらではないかと黒野が気付くのにも、多少時間を要したのだった。

 そこで、この演者が、背丈の七分ほどの長い杖を腰へ佩いていることに気がつくのは、尚遅れたのである。

 神妙な雰囲気で、瀟洒で卒の無い素振り、臍の辺りで両手を重ねつつ僅かに頭を垂れる挨拶を演じた彼女だったが、しかし上げた顔へは、自信の漲った表情を泛かべていた。

 

 私の時間だ

 

 そう、朗々と述べているかのような笑顔から、彼女が腰の得物を引っ取ると、鏘然とした音色がその先端から鳴り響く。彼女が、この世界には珍しくない存在、「魔術師」であることに黒野はここで気付いたのだが、しかしそれにしても、魔術師の杖がしゃらんしゃらんという音色を起こすのは異様であり、彼は、その先端を注視させられた。

 遠目には見え辛いが、女の手で軽く握れる程度の、一律な太さのつるりとした木軸が愛想なくずっと続いているその杖の先端には、どうやら爛然とした丸い金輪が据えられており、その輪には更に五か六の金輪が繫げられていて、それらが一々動揺の度に衝突しては、鈴のような音を響かせるのだった。

 錫杖。

 黒野は、その名を知らなかった。

 その、奇術師らしい華やかな衣装から泛かび上っている、仏門徒の証が大きく振られると、会場一帯が突如暗闇に没す。ぎょっとする黒野は呻き声を上げかけたが、これはつまり、映画館の暗転と同じようなものなのだろうと、周囲の落ち着きから気が付いた。しかし尚もそこはかとない不審を覚えた彼は、少しその感情の正体を考えることで、シャンデリアの燈火がどうやってそんな如意に光を奪われたのかを自分が不思議がっているのだと、数秒後に理解したのである。

 とにかく、黒暗々の下、彼女の演目は始まった。再び琅然とした音色が響いた直後、曙光のような光が舞台に生ずる。曙光、つまり、無辺の彼方から届いているかのようであったそれは、しかしすぐに収束させられ、彼女の手許に収まった。錫杖を小脇に抱え直しつつ、その橙光の玉を、慈しむように両手の間に挟んでいる演者の顔が照らされ、その若々しく妖しい口許が仄見えるやいなや、彼女はその全き光球を、水球でも興じているかのようにひょいと左手で持ち上げ、遙々投げ放つ。

 そうして宙へ泛かび上げられた、或いは、そう見えるように計られた光球は、遙か高く静止してからミラーボールのように回り始めると、天井やそれに近い壁へ紋様を投影し始めた。アラベスクのように規則的かつ美麗なそれが、万華鏡の如く色彩や形状を変容させつつ回転する様の壮大は、元の世界の先進的な娯楽によって目の肥えている筈の、黒野にも息を飲ませる。

 その、円天井に貼り付けられた眩き大皿は、光彩の椀飯振舞を暫し続けた後、突然身を縮め始める。それが段々と天井の一点へ収斂して行く様を見て、再び闇が座を支配するのかと黒野が思わされた直後、彼は、先程まで光に支配されていた場所、言うなれば失われた皿の縁辺りに、輝点が点々と残されているのに気が付いた。その、引き潮の忘れ物のような輝点は、少しずつ数を増し、また、既に存在していたものは輝度をみるみる強めて行き、やがて、点と点が琴線のような輝きで結ばれていくのである。

 彼は、気が付いた。

 プラネタリウム。

 人工の夜更けが、東から西へではなく、天井の球殻心を目掛けて進んで行き、そうして次第に現れた夜空に、美事な精密さでこの世界の辰宿が描かれていくのである。勿論黒野はそれらの一つも知らなかったが、しかし、陽が天井の中央から昇天していくように消えると同時に、それぞれの星座の象徴の絵図が、夜空が彫り抜かれて光明の透かしているかの如く、儚く玄妙な具合で現れたのだった。自分には馴染みの無い動物や神が多いようだと、まずざっと眺めた黒野は思ったが、特に、竜を象った星座が一つではなく何種類も存在しているらしいということが、彼の印象に強く残される。

 ゆっくりと、練るような速度で暫し回転していたその夜空は、見惚れていた黒野の陶酔が醒め始めた頃、――つまり、恐らくは演者が職業的な伎倆で精密に見計ったタイミングで、突如、揺れ動き始めた。天の地震、という訳の分からぬものを想像してしまうそれに、地上の観客らがついどよめくと、特に黒野が気に入らされていた、五つの竜の星座それぞれが、恰も落盤の前兆であるかのように、取り分け強く震え始める。

 否、――それらは、実際に天井から落下した。

 墜落してくる星の連関に、種々の色の悲鳴が上がると、しかし、それら竜の眩画は唸るように身を

 まるでそれまで湖面に身を潜めていたかのように、平面的な星座絵から、立派な体躯を持った竜達が身を躍り出させる。光で立体的に描かれているに過ぎない筈のそれらは、針金造形の如く空疎であるのだが、しかし、太い体躯の逞しい赤竜、対蹠的に磁器的な美しい痩躯を持つ銀竜、妖精のようなあどけない表情や動作の黄竜、偽りの呼吸の度に金炎を口許から漏らす黒竜、一頭だけ中国的に蜿蜒と長い体を持つ緑竜と、それぞれ余りにも生き生きと闇の中で躍動しており、また鱗の一々も見分けられるほどに精緻で、一人の魔術師が即興的に作り上げている光絵だとは信じられぬ程に雄大で美しく、観客は皆、ぼんやりと見惚れてしまうのだった。

 それらの中でも、演者の気合が一等籠められていると思しき緑竜は、次第に体躯を脹らませつつ上空中央の辺りで蟠屈すると、その、叮嚀に髭の描写された大口を開いて何かを吼え哮る。光の演劇なので実際に咆哮が迸る訳ではないのだが、しかし、竜が憤ろしく喉や体躯を顫わせる様は、観衆に幻聴を起こさせる程真に迫っており、残りの四竜が吹き飛ばされるように飛び去って行った――かの様に動かされた――ことに対し、黒野も一旦納得してしまった程だった。

 そうして場内で唯一の発光体となった、あまりに巨大な緑竜は、その光彩陸離たる躰を少しずつ縮小させながら、演者の立っている筈の舞台の方へ翔りて行く。竜はそのまま、舞台上空でぐるりぐるりと円や8の字を壮大に描き、明らかにそちらへ目を奪うことが見世物として企図されていたのだが、しかし、黒野は、寧ろ地上の方へ注目してしまった。

 眩き竜を戴いたことで、久々に姿を仄見えさせた演者は、真剣かつ深刻に目を引き絞りつつ、何かを一心不乱に唱え続けている。両手を胸の前へ持ってきており、右手ではしっかと錫杖を突き立てつつ、左手では中品中生ちゅうぼんちゅうしょうの印相を作りながら――黒野は「狐の影絵か?」としか思わなかったが――、絶え間なく口を動かしている様子は、優雅で美麗な光の魔術の裏に、堆き計算や努力が存在していることを彼に垣間見させた。

 彼がそちらに気を取られている内に、上空の光竜は速度を高めており、正しく目にも留まらぬ程になった直後、それは突然、一顆の光球として結実、或いは恢復した。何とか人が抱えられる程の大きさと見えたそれは、ゆっくりと降下して行き、演者の手許に帰還する。緑色で泛かんでいた筈のそれが、いつの間にか瑕瑾なき白亜の光球と化しているのを観客が不思議がった直後、演者、彼女は、それをぞんざいに頭の後ろまで振りかぶると、籠球選手の如き元気一杯な素振りで放り出す。

 女性の膂力で投ぜられた――ことになっている――のにも拘らず、すう、と上っていく全き球は、闇の中で天井近くに至ると、そのまま遺憾なく爆ぜ飛んだ。

 陰という陰を消し飛ばしつつ、会場が白光で埋め尽くされる。

 黒野が堪らずに目を閉じ、そして、開き直すと、舞台中央で莞然と佇んだ演者が、何かを待ち兼ねるかのように両腕を肩の高さで広げているのだった。

 そんな彼女の期待は、観客等が、まずはぱらぱらと、そして終には全員揃って立ち上がって万雷の拍手と歓呼を送ったことで、無事叶えられたのである。

 

 ………………

 

 黒野は、ふわふわとした気分で帰路につき、床に入ってからも、どこか昂奮が醒めないでいた。一応、手工芸品を眺めさせられたことぐらいは有ったものの、しかし実質的には初めてこの世界の文化らしい文化に触れた訳だったが、先程の彼は全くもって魅せられており、また、そんな自分、つまり、いつものように周囲の様子を盗み見て倣ったのではなく、心底の自然な情動を抑えきれなかった結果として、自然に立ち上がって自然に手を叩き、自然に「ブラボー!」と叫んだ自分に、強く驚かされてもいたのである。あまりに久々に心の底から示した感動による爽快さも著しかったが、しかし、気恥ずかしさが幾分勝ったことも有って、彼は、あの咄嗟に叫んだ下手糞な仏蘭西語はこの世界の誰にも解されないだろうな、と、詮無いことを考えて安心したりもしたのだった。

 

 その後、夢の中で彼は、自分がこの世界へ連れ込まれた日の事を追憶した。元の世界での最後の瞬間は良く憶えておらず、記憶の末端は、教科書や大学図書館で借りた資料を詰め込んだリュックサックの重さに内心文句を言いつつ、歩行者用信号があおくなるのを待っていた、というものである。ふと気が付いた次の瞬間には、何か石造りの神殿らしいところに寝転んでいる自分と、此方の顔を覗き込んでくる、浅葱色の髪を纏う童顔な男を見出したのだった。

 全身麻酔が醒めたかのような意識の隔絶にふためく彼へ、男が、本来全て片仮名で表記すべきな片言で述べるに、

「生きてるか? お前、専門は何だ?」

 ……専門?

 何の話だ、と思いつつ、何故か痛む全身を庇いながら彼が上体を起こすと、閉め方が甘かったのか、背負っていた鞄からどさどさと書籍が流れ出た。扶けようと手を伸ばしてきていた筈の浅葱髪の男は、ひょいと身を躱して彼の背の方へ回ってしまい、その一冊一冊を嬉々と取り上げる。

 何か欣然と現地語で叫びつつ本を拾い集めた彼は、タイトルを検め始めると、例の片仮名な発音で、

「……ボルハルト・ショアー現代有機化学、シュライバー・アトキンス無機化学、ファインマン物理学、」

 なんだいなんだい。突然人の物を漁って御挨拶な、と思いながら立ち上がった黒野であったが、しかし、振り返ってきた、昂奮した様子の男に両肩を摑まれると、何か訳の分からぬ言語と唾を浴びせ掛けられながら、躰を激しく揺すられたのだった。

「なに、やめ、」

と日本語でどうにか喚くと、はっとしたらしい男は、漸く手を離して、

「いやはや、失礼、あまりの昂奮に、……しかしいや、本当に素晴らしい! 名ばかりを聞かされていた名著を一時にこんな何冊も将来してくれるだなんて、ああ、仮にお前が何の才も無く何の努力も積んできていない愚者であったとしても、これらの本の価値だけで、過去全ての〝旅人〟の価値を上回るのではないかと、真剣に私は思うよ!」

 辿々しい日本語の癖に小癪な語彙を用いるな、と思いながら、それで此処は一体、などと問おうとした黒野であったが、しかし、相手の男が握手を求める手を伸ばしてきたので言葉を詰まらせてしまう。

 つい彼からも手を伸ばすと、その手が引っ取られ、痛むほどに握られてから、

「心から歓迎仕る! 我らの世界へ、国へ、ようこそ新たなる〝旅人〟よ! ……さあ、貴殿は我々に何を教えてくれるのだろうかな!」

 男の、爛々と輝く青い双眸は、この男が悪党ではないことと、しかし、同時にいとも馭し難い人物であるらしいということを、黒野へ如実に物語ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る