第2話 鎌倉権五郎、赤子を抱きあげること

 今は昔――


 五十余年前……大治年間のこと……



 大庭御厨おおばみくりやの総鎮守、鵠沼くげぬま神明宮の神館かんだちの庭には、すでに一族の者たちが大勢、にぎやかな集いをなし、世間話に花を咲かせていた。


 日だまりに床几をすえ、狩衣かりぎぬ姿の老人が、背筋をぴんと伸ばして座っている。

 老人はただただ、静かに座して、呼吸を繰り返しているだけであった。

 ……にもかかわらず、人々は目に見えぬ威厳に圧倒され、頭をさげずに通る者はひとりもない。


 深い皺を幾重にも刻んだ皮膚は、老樹の表面を思わせた。

 たわんだ皮膚の奥に、狼のような眼光が鋭く輝いている。

 狼のような……というのは、どこか人がましくない、人外の……という意味である。

 まるで山野の走獣のごとく、その瞳は異界じみた光を炯々けいけいと放っているのだ。


 だがそれは左目だけのこと。

 もう片方の目は、眼帯によって隠されている。

 それで人々は、老人の刺し貫くような恐ろしい眼光から、半分だけは隠れることができた。

 ――鎌倉一族の大長老、権五郎ごんごろう景正かげまさとは、この男のことであった。


 婦人がひとり、権五郎におもねるように近づいて、請われるままに、自分の赤子をさしだした。

 権五郎は熊のごとき強靭な両腕で、赤子を掴み取った。

 赤子と目があった途端、まさかと思うほどに、狼のつらが破顔し、しみじみとやさしい、老爺おきなの顔に変った。


「太郎丸や……、爺やであるぞ……」

 老いたかすれ声を媚びさせ、権五郎が赤子に語りかけると、たちまち赤子は火のついたように泣きじゃくりはじめた。

「おう、よしよし」

 泣くのは赤子の仕事……と、老翁は嬉しそうに、ちいさな体を天高くもちあげてあやした。

 一族のものたちは自然と寄り集まり、輪になって、孫を手玉にとってかわいがる長老の様子を、なごやかに見つめていた。


 権五郎長老はなにを思いついたか、庭の片隅にかしこまっていた、ひとりの若者に呼びかけた。

景宗かげむね、おまえの子も連れてこい」


 豊田太郎景宗――髭づらで、体が大きく、武者ぶりがよい――直垂ひたたれ姿の若者はかしこまって、妻の胸にある生まれたばかりの子を、長老の前に差し出した。


「どれ」

 権五郎は自分の孫を片腕におさめると、景宗の子の平太丸をもう一方のかいなに受け取り、たもとに引き寄せた。

「ほう、丸々として、かわゆいのう……」

 眼帯の外に、深い笑みじわが刻まれた。

 平太丸はどういうわけか、楽しげに、にこにこと笑っている。


 太郎丸と平太丸、このふたりの赤子を愛おしく見比べているうちに、権五郎の隻眼に静かな異変が忍びよった。

 平太丸の全身が、白い光を発しはじめたのである。

 その光は次第に大きくなり、ついには隣にいる太郎丸の姿をかすませた。


 権五郎は、驚いて目をしばたかせた。

 ――十六の時、戦場で右目を失って以来、左の目玉ひとつにすべての負担をかけてきた。

 ところがその左目も、近頃めっきり力が衰えてきている。

「むう……」

 権五郎は平太丸を景宗に返し、まぶたをしきりにこすった。


「総領、いかがなされました?」

 心配げな声に返事もかえさず、権五郎はもう一度、ふたりの赤子を見くらべた。

 ――どうということもなかった。

 先ほど平太丸を包みこんだ白い光は、もはや見えなかった。


(目の異常であろう……わしも年老いたものじゃ……)

 権五郎は壊れ物に接するように、孫の太郎丸を胸にそっと抱き寄せた。

 かわいいかわいい太郎丸はもう泣きやんで、手足をあわあわと泳がせている。


「ギャッ」

 さぎが鳴くような、女の潰れた叫び声が、人々を驚かせた。

 見れば庭の隅に、縄をよじ捩りあわせたように、丸々と太った二匹の大蛇が絡みあってもだえていた。

 奇怪なうろこしま模様がなまなましく濡れて、ぬらぬらと鉛色に光っている。

「ややっ」と、走り寄った郎党が棒をふるって追い払うと、二匹の蛇はまるで白昼夢の幻のように、縁の下へと消えていった。

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