第5話 平太丸、国府へ出かけること

 翌朝、目覚めた時、平太の頭はまだ痛んでいた。

(ちっ、おばばめ。本気で殴りやがって……)

 平太は寝床から起きあがると、雑仕女を呼び、身支度を整えた。

(やっぱ、つまんないウソは見抜かれるな……)


 お膳の朝食を食べ終わり、そそくさと出て行こうとすると、案の定、母に呼び止められた。

「平太丸」

 やわらかな、上品な声である。

「牛の乳を飲んでから、おゆきなさい」

 屋敷の裏で、出産したばかりの乳牛ちちうしを飼っている。

 雑仕女が白い乳を、鉢いっぱいに満たして持って来た。

「牛の乳を飲むと、体が強うなります」


 母の言葉に、平太は鼻の穴をかっぴろげて顔をしかめた。

 正直なところ、それが好きではない。

 飲まずに出て行きたかったが、仕方ない。

 黄金こがね色の佐波理さはりの鉢に満たされた白い液体を、恐る恐るのぞきこむと、目をつむって喉に流しこんだ。


「よい子じゃ」

 綺麗な色のうちきをまとった母が、満足げに平太の頭をなで、狩衣かりぎぬの丸首の、襟元を直してくれた。





 今日は相模国府での、学問の講義の日である。

 平太の暮らす豊田館とよたのたてから国府までは、ほど近い。

 隣の屋敷に住んでいる弟の次郎丸と待ち合わせ、郎党の助夏と、その子、すけ丸をお供にして、馬に乗って出かけた。


 緑あふれる豊田の田園地帯を抜けると、国府一帯の、華やかなにぎわいが聞こえてきた。

 立派な築地塀つきじべいや、大きな屋敷がいらかを並べている。

 農夫も商人も、民草たみぐさも官人も、朝から大勢の人々が行き交い、市をなしてにぎわっている。

「木や召すぅ。炭や召すぅ」

おけたらい、品よしやぁ」


 饅頭まんじゅう売りのせいろから、もくもくと美味しそうな蒸気が噴きあがっている。

 いを売りが、野良猫を大声で追い払う。

 ……扇を売るもの、器を売るもの、色々の端布はぎれを売るもの……木彫り細工を売るもの、漆を塗った玩具を売るもの、色とりどりの飴を売るもの……客を呼ぶ声が頭の上を威勢よく飛び交ってゆく……まさにここは相模国の都であった。


(人がたくさんいるのは、なんて楽しいんだろう)

 終始わくわくした気持ちで、平太は雑踏に紛れながら、表通りを抜け、学びへと辿りついた。

 学舎は儒教式の聖堂で、白壁に朱塗りの柱、もろこし風の造り構えである。


 うまやに馬をつなぐや、学舎のほうから仲の悪い学友たちがニヤニヤしながら歩いて来るのが見えて、平太は嫌な予感がした。

 ――案の定、悪童たちはカラんできた。


「平太は毎日、牛の乳を飲んでいるそうじゃ」

「うぇぇ、本当か?」

 悪意に満ちた調子で、もうひとりが大げさに驚いてみせた。

 かれらはたちまち調子に乗って、平太をからかいはじめた。

「や、におう、におう」

「乳くさや、乳くさや」

 悪童たちが鼻をつまみ、手をひらひらと仰ぐのを見て、平太は怒りを抑えながら、教えさとすように言った。


「知らぬのか? 牛の乳を飲めば、体が牛のように強うなるし、だいたい都の貴い人々は、みんな牛の乳をおめしあがりになられるのだ」

 ところが悪童たちは聞こえなかったふりをして、なお、かさにかかって「臭や、臭や」と、からかってくる。

 あまりのしつこさに平太の堪忍袋の緒が、ぷちんと切れた。

「この野郎」

 カッとなった平太は、気づいた時にはもう相手に飛びかかり、ガツンと殴りたおしていた。


 次の相手に飛びかかろうとしたところへ、悪童たちに仕える郎党が駆けつけてくるのが見えた。

 助夏も慌てて止めに入ってくる。

 構わず平太は、身をひるがえして逃げた。

 助夏が這いつくばって相手に謝っている姿が、目の端にちらりと見えた。


「兄者」

 次郎丸が、ちょろちょろと駆け寄ってきた。

「ついてくんな」

 平太は叫んだが、次郎丸はなんでも兄の真似をしたい盛りである。

 必死に後ろを走ってくる弟を見て、平太はため息をついた。




 ――聖堂に学童たちが集まり、講義がはじまった時、当然ながら平太と次郎の姿はそこになかった。

「豊田の平太丸はおらぬか?」

「おりませぬ」

「はて、先ほど見かけたようだったが……いずこへ?」

「しりませぬ」

「次郎丸もおらぬか……」

 講師はそれ以上、詮索しなかった。

「まあよい、講義をはじめよう。みな前鳥さきとり神社の方角をお向きなさい。学問の神様、うぢのわきいらつこのみこと様に、拝礼を」

 学童たちはひざまずき、視線をそろえ、東に向かっていっせいに頭をさげた。





※ 相模国豊田 …… 現在の、神奈川県平塚市内。


※ 相模国府(大住郡) …… 現・神奈川県平塚市、四宮付近。


※ 前鳥神社 ……  神奈川県平塚市四宮に、現存。

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