第35話 夢の終わりに落ちた一滴



 何故ここに、どうしてここに。

 平民街になんて来るはずのない彼がこの場に居るという事実に、私は混乱し大いに怖れた。


 あの屋敷から追い出されてから、色々な人に出会って、支えてもらって、必要としてもらえたりもして。最近あまりにも楽しかったから、周りの人々が優しかったから、いつの間にか都合よく、屋敷での記憶を頭の奥底に封じこめてしまっていた。

 そんな卑怯で弱い自分に否応なく気付かされて、私は大きく絶望する。


 いえ、できる事なら彼の事は思い出したくなかった。悪い母親だという自覚はある。しかしそれでも、彼を見て心が急速に冷えていくのを止められない。


 記憶の奥底にこびりついている『息子に自身を否定され続ける事への恐怖』が、私の体を恐怖に震わせた。

 きっと彼は、そんな私に気がついている。彼が私を蔑むような、それでいてとても楽しげなニタリ顔になった事でそうと分かった。


「貴様の事だ、どうせろくな生活など出来ていないんだろう。どこに行ってもゴミはゴミ、嵩張るだけのお荷物だ。周りに迷惑を掛ける事でしか存在さえする事ができない」


 恐怖が絶望に成り代わり、周りの人々に温めてもらった私の心をじわじわと浸食していく。

 半ば無意識に拳を握れば、既に冷えている指先を手のひらの中で感じた。しかし冷えは熱で癒される事もなく、むしろ伝播し体を冷やす。


「しかし喜べ、俺が正式に貴様をメイドに雇ってやる。仕方がなく、今までの生活水準も保障してな」


 反射的に、嫌だと思った。しかし言葉にはならない。

 心臓が、耳のすぐ隣で嫌な音を立てた気がした。それが今私の体が起こせる精一杯の抵抗であるかのようだった。


 心にまで及んでしまった冷えが、麻酔のように心の痛みを鈍化させていく。

 まるでフィルターでもかかってしまったかのように、自分の心を見失う。


 私は彼らに逆らえない。敵わない。どうにもならない。ならば諦めるしかない。

 まるで『反抗意識を抱いてはいけない』と本能に刻み決まれているかのように、そうでしかあれない自分を諦めるという仕組みが、私の中には根を張っていた。


「来い」


 そう言われても、足は動かない。足がすくんでいるだけなのか、拒絶の意思なのかも、段々と分からなくなってきた。しかし無情にも、苛立ったマイゼルがつかつかと店内を歩いてきて私の手首を引っ掴む。

 硬直した体が、乱暴な力にたたらを踏んだ。


 踏ん張れない。振り払えない。だけどここで明確に『嫌だ』という感情が息を吹き返した。


 泥だらけの哀れな革袋と薄汚れた私、もし今もまだ一人と一つだけだったなら、きっとここまで恐れたりしなかったのかもしれない。

 けれど私はもう、ディーダとノインとの三人暮らしを知ってしまった。街中を歩き買い物をして、ここで店番をしたり新たな物を作りだして売る楽しさを知ってしまった。

 そんな生活に慣れてしまった。誰かと話し、一緒に笑い、美味しいものを食べたりもする。そんな生活が楽しいと気付いてしまったから。


 もっとここに居たい。

 ずっとここに居たい。

 街の人達と、このお店とバイグルフさんと、そして何よりも彼らと。



 温かい場所の存在を知り、少しは過去を客観的に見る事ができるようになった今だからこそ、過去に受けた仕打ちがどれだけ酷いものだったのかを今更理解できる。

 あんな生活に戻ったら、今度こそ私は壊れてしまう――そう思うのに。


 一歩ずつ出口が近づいてくる。外にいる馬車の鷹が、私をまるで「煩わせるな」とでも言わんばかりに見下している。


 目尻から零れた涙だけが、最後の最後に明確な熱を持つ私のただ一つだった。

 しかしそれも、頬を伝って顎を伝って、雫となって床板に落ち――。


「だから黄色だろ!」

「黄緑でしょ」

「フンッそこまで言うなら話は早い、実際にやってみれば――あぁ?」


 いつも通り、窓を出入り口にしようとしたのだろう。窓淵に片足を掛けた音が店の脇でたしかに聞こえた。


 まるで金縛りから解けたかのように、彼らを探して振り返る。

 涙でぼやける視界の先、野犬のような警戒を発する金色の瞳の少年が、眉間に不機嫌そうな皺を寄せたのが見えた。


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