第11話
大多数の会社が仕事始めとなる早朝。
駅に向けて急いでいると、前方にサラリーマンやOLの群れに交じって、アーケード街を歩いているネイビー色のコートを着た碧が見えた。
智明は足を速めて声をかけようと歩幅を広げかけたが、歩調を元に戻した。
この状況を積極的に活用する勇気と潔さが、智明には決定的に欠けている。
この女々しい性格は一生治らないのだろう。
自虐的に肩をすぼめて俯き加減で歩いていると、智明の目の前に、ネイビー色の壁が立ち塞がった。
「新年早々、何下向いて歩いてるのよ。落とし物でもしたの?」
「あ、いや、……え、何?どうした?」
危うく碧にぶつかりそうになった智明は、足を踏ん張って歩みを止め、目の前の碧を見た。
「どうした、じゃないわよ。背中に嫌な視線を感じたので後ろを見たら、トモがいたので待ってたの」
「あ、いや、え?視線って……嫌なって、別に変な目で見てなかったけど」
「ほら、やっぱり、私に気づいてたのね。なんで、追いかけてこないのよ」
智明が口を開こうとすると、後ろから来たガテン系のおっちゃんが、道の真ん中で立ち話をしている二人に非難の視線を向けながら追い抜いていった。
「あ、いや、追いかけようと思ったけど、急いでいるようだから……」
そう言いながら智明は少し勇気を出して、碧の着ているコートの袖口を掴んで道の端に寄った。
「で?」
素直に智明に導かれながら、碧は訊いた。
「あ、いや、だから、今日にでもラインをしようかと……」
「ライン……何か用?」
しどろもどろの智明が面白かったが、笑いをかみ殺しながら碧は平板な口調で訊いた。
「あ、いや、ほら、この辺、何も分からないだろ?だから、金曜か休みに飲みに行こうって……」
「誘ってくれるの?」
「あ、え、まあ、うん、そう……。引っ越し祝いも……この間のはちゃんとしてなかったし」
「ふーん、金曜日がいいの?」
「あ、いや、そっちの都合のいい日で……」
「金曜日でいいわよ、定時で終わるから。もしトモが遅くなるようだったら、ハウスで待ってるから……これってなんか便利ね。別々に住んでたら時間潰すのって大変じゃない?」
「一緒に住んでるってわけじゃ……。それより、いつ戻ったんだ?」
「昨日の夜遅く。トモはもう寝てるかもしれないから声を掛けなかった。じゃあ、金曜日楽しみにしてるから」
碧は智明の肘の辺りを掴んで、引っ張るように駅に向けて歩き出した。
「でも、居酒屋だからな」
「はいはい、どこでもいいわよトモのお奢りなら。それより急ぐわよ。年明けから遅刻なんてみっともない真似できないから。あ、そう言えばまだ新年の挨拶をしてなかったわね。今年もよろしくお願いします、ってちょっと違うかな。今年こそよろしく、だね」
碧はぴょこんと頭を軽く下げた。それから歩調を速め、返答の言葉を探してとぼとぼ歩いている智明を促した。
碧を連れていく店は万次郎に決めていた。
店のお母さんや大将から碧について何か言われるだろうが、気にしても仕方がない。
新小岩駅で待ち合わせをして、二人は店の暖簾をくぐった。
年明けの金曜日の夜で店内は混雑していたが、タイミングよく早めの時間から飲んでいた初老の夫婦が席を立ち、会計を済ませたところだった。
智明と碧は、お母さんから空いたばかりのテーブル席に案内してもらえた。
「彼女?」
「あ、いえ、その……」
「はい、そうです。これからもよろしくお願いします」
碧に興味津々といった感じのお母さんの問いかけに、智明がしどろもどろになっていると、碧がはっきりとした口調で応えた。
「トモ君、可愛い彼女じゃないの。大切にしなきゃだめよ。で、いつものように生でいいの?彼女の方は?」
「私も生で!」
明るく言う碧に目を細め、お母さんはエプロンの前ポケットから出したおしぼりを置いて、厨房に戻っていった。
「いい雰囲気のお店じゃないの。下町の居酒屋って感じで」
「ああ、うん。夏ころまではハウスの住人がここでバイトしてたんだ。だから、週一か二で通ってる」
「その人、今は?」
「あ、だから、その人は伊豆の実家に帰るんで、ハウスを出ることになってバイトも辞めた。バンドをやってたんだけど、やっぱりプロへの道は厳しいみたいで……夢が破れたってとこかな」
「ふーん、そうなんだ。人付き合いが苦手なトモにしては、このお店を含めて結構交友関係が広くなったみたいね。やっぱシンビオシスのおかげ?」
「ああ、うん、そうだな。ハウスの人たちはみんないい人だし。ここのお母さんも。それから、あそこで難しい顔して料理を作っている大将も、すごくいい人だよ」
がなり立てる換気扇の下で、焼き台と格闘している大将に視線を向けて、智明は言った。
「良かったね」
「何が?」
「何がって、周りの人たちがトモを理解してくれてるってこと」
「なんだよ、その上から目線な言い方は。こう見えても営業をしてたんだから、人付き合いくらい普通にできるよ」
智明は抗議するように頬を膨らませた。
そこへ、小原の後任のアルバイトの女の子が、生ビールとお通しのマカロニサラダをテーブルに運んできた。
「トモさん、お母さんから聞いたよ。彼女さんがいたんだー。綺麗な人でビックリ!あ、アタシ、バイトの由香です。よろしくお願いしまーす」
「こちらこそ。たまに一人で来るかもしれないので、その時はよろしく」
「もちろん!トモさんの彼女さんなのでサービスしちゃいますよ!この店は大将もお母さんも、もちろんアタシもトモさんのファンなので、お任せください」
「由香ちゃん、もういいから。ほら、あそこのお客さんが呼んでるよ。あ、あとポテサラと湯豆腐二人前。それから、とりあえずハムカツ。そっちは?」
由香の言葉に照れながら、智明は碧に注文を促した。
「とりあえずはトモが頼んだのでいいわよ。メニューを見て、あとで注文します」
後半は由香に向けて言って、碧は軽く頭を下げた。
「先ずは乾杯」
碧は生ビールのジョッキを持ち上げた。
「あ、乾杯」
後れを取った智明もジョッキを持ち、碧が持っているジョッキに軽くぶつけた。
「乾杯だけ?他に言うことはないの?」
「え?ああ、引っ越しおめでとう、って……おめでとうっていうのはなんか変だな」
「めでたくないの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
智明はマカロニサラダをつまんで言った。
「大体、年末年始になんで連絡をくれなかったのよ」
「あ、いや、そっちこそ……実家で用事とかあるのかなと思って」
「ふーん、で、お正月は何してたの?」
「あ、いや、部屋でゴロゴロ……」
「湯豆腐のコンロ、セットしますねー」
智明が口ごもっていると、それを助けるかのように由香が明るい声で言って、ポテトサラダを置き、湯豆腐の支度をし始めた。
「連絡を取りたいとか、会いたいとかは思わなかった?」
由香がテーブルを離れると、昆布が底に沈んでいる鍋を見ながら碧は訊いた。
「あ、いや、俺の方からは誘いづらいじゃん……特に理由はないけど」
「なんで誘いづらいのよ、それは私の方でしょ。誤解とはいえ、暫く離れる原因を作ったのは私なんだから」
「その話はもういいよ」
そうは言ったが、智明はあのチャラけた山崎のことを思い出すと、もやもやとした居心地の悪い感情がぶり返してくる。
「ところで……」
碧は姿勢を正して智明に視線をまっすぐに向けながら、重大なことを告げるように口を開いた。
「何?どうした……」
重々しい雰囲気を醸しだした碧にたじろぎながら、智明もテーブルについていた肘を離し姿勢を正した。
「私が事前に断わりもなしに引っ越してきて、トモはただただびっくりして、そのまま年末年始の休みに入って……戸惑ったっていうか驚いたんでしょ?」
「そりゃあ驚くよ。全く想像もしてなかったし……」
胸の奥、というより食道の辺りが塞がれているような感覚になり、智明はビールを流し込んで気道を確保しようとした。
「そのことはホントに悪かったと思うわ。でも、そうしたかったし、間違ってなかったって思う……今は」
「今は?」
智明はビールで確保された気道から、短い言葉を吐き出した。
「うん。もちろん、以前とは違うのは分かってる。でも、今こうしてトモと向き合っているのは……とってもいいことだと思う。少なくとも、私はね」
「お待ち!ハムカツでーす。湯豆腐はトモさん、自分でする?」
ハムカツと一緒に、湯豆腐の具材をテーブルに並べながら由香は訊いた。
「ああ、うん。自分でやるから大丈夫。あ、あと生を一つ追加。そっちは?」
「あ、じゃあ、レモンサワーください」
智明に促された碧は、由香に軽く頭を下げた。
「はーい。生とレモンサワーですね。毎度ありー」
朗らかに注文を繰り返し、由香は厨房に戻っていった。
「明るい子ねー。学生?」
「ああ、A大の二年生とか言ってた」
「ふーん……」
特に由香に対して興味があるわけではなく、本題に入るきっかけを探しているように碧は曖昧に頷いた。
「で、さっき何か言おうとしてただろ。なんのこと?」
「ああ、うん。特に……なんでもない」
「そうか?なんか真面目な話をしそうな雰囲気だったけど」
「ううん、そんなことないよ……最初は野菜?」
碧は湯豆腐の具材からネギを菜箸で取り、鍋に入れる前に智明に確認した。
「ああ、いいんじゃない。野菜から先で」
碧の会話のテンポがトーンダウンしたのに気付いたが、智明はせかすことはしなかった。
追加の飲み物が運ばれてきたが、二人は無言で湯豆腐の鍋をつついた。
年末年始の休暇が終わり、普段の生活に戻ったサラリーマンを中心とした客で店内は騒がしい。
智明と碧はお互いに次に発する言葉を探したが、見つけることができない。
地球の重力がここだけ大きくなったかのように、二人の動作から滑らかさが消えた。
お互いに視線を合わせることを避け、ぎこちなく箸を動かし、ジョッキとグラスの中のアルコールを胃に落とし込んだ。
「で、ハウスの人とは全員顔合わせできたのか?」
熱々の豆腐をビールで流し込んでから、智明は重力に逆らうように腹に力を入れて碧に訊ねた。
「あ、うん。遠藤さんっていう人とは会えていないけど、重信……クン、でいいのかな。彼とは昨日の夜、会社から帰ったら、リビングで市川さんと将棋をしていたので挨拶した」
「まだ高校生なのにしっかりしてるだろ」
「うん。で、着替えをして冷蔵庫に飲み物を取りに行ったら、市川さんから美味しいチーズとワインがあるかので、どうですかって誘われてご馳走になっちゃった」
「市川さんはご馳走するのが趣味だから。マー君、重信君は将棋に関しては市川さんの師匠なんだよ。頭が良くて、高校生なのに俺なんかより大人っていうか、人間ができてるしな」
「あ、なんかそれって分かる。ホントに聡明って言葉がピッタリするよね。私と市川さんが話しているときは横で控えめにしているけど、意見を言うときはびっくりするくらいしっかりしたことを言うのよね」
話が途切れるのを恐れるように、碧は普段より早口になって応えた。
そんな碧の一生懸命さ一途さを見て、智明は唐突に碧に対する感情が沸点に達し、制御不能になった。
「お、お前……いや、み、碧」
「え、何?どうしたの?」
「も、もう一度付き合ってくれ、頼む!俺がいけなかったんだ。お前が変なことして裏切るはずなんかないのに……ごめん。やっぱ、お前と一緒にいたい」
智明はジョッキと箸を置き、両手を膝につけて頭を下げた。
「え?な、何よ、急に……トモ、どうしちゃったの。まだ、ジョッキ二杯も飲んでないのに……」
碧もグラスをテーブルに置いて、頭を下げる智明を見た。
「本当にごめん、ガキみたいに意地張っちゃって。ホントはずっと会いたかったんだ。夏に会社を訪ねてくれた時もそうだし、ハウスに引っ越してきてくれたことだって……こんなダメな俺なんかのために」
最後の方は涙声になりながら、智明は必死に訴えた。
「ちょ、ちょっと、ホントにどうしちゃったのよ。……とりあえず顔を上げて、お願いだから。ほら、バイトの子がこっち見てるわよ」
智明の唐突な言葉に戸惑い、碧は喧騒に包まれている店内を見まわし、視線がぶつかった由香に軽く頭を下げながら言った。
「ああ、ごめん。本当に俺は……何からなにまで……」
智明は顔を上げて洟をすすりながら言い、目の前のジョッキを呷った。
「トモ、今日はゆっくり飲もうよ。遅くなっても終電を気にする必要はないし。飲み過ぎて気持ち悪くなっても、私がちゃんと面倒看るから……。なんか、こんな感じって、ゆったりとした気持ちになれるのっていいよね」
「ああ、そうだな。二軒目に行くのにぴったりな店もあるし。それでも飲み足りなかったら部屋で……」
照れ笑いしながら話し始めた知明の言葉が途切れた。
「どうしたの?部屋がどうかした?」
碧は言葉を飲み込んで、何かを考えているようなの智明に話の続きを促した。
「部屋って言えば、お前が俺の部屋に入ったり、俺がお前の部屋に行くのって大丈夫だったっけ?ほら、俺の部屋の隣は今は空いてるけど、斜め前は高校生のマー君だし、碧の部屋は多佳子さんの隣だろ?」
「うん。廊下を挟んだ奥には市川さんの部屋があるよ。でも、入居前の説明で不動産屋さんは、お友達や家族を泊めるのは自由だって言ってたけど。ただ、部屋や共用スペースで大きな音をたてたり、大声で話したりしてみんなに迷惑をかけるような非常識なことは厳禁ですって言ってた」
「そうだっけ?考えてみれば、他の人たちが部屋に誰かを泊めたりしてるのは見たことないな……俺が気が付かなかっただけかもしれないけど」
ジョッキのビールを飲み干し、智明は言いながらカウンター近くにいる由香に口パクで生ビールを頼んだ。
「そうなの?私は近々、会社の友達に泊りがけで遊びに来てもらう予定だけど。で、私とトモが部屋を行き来すると何か都合が悪いことでもあるの?」
「いや、ほら、マー君はまだ高校生だし、多佳子さんは何かと勘がいいから……」
智明はもごもごとした口調で言い、ジョッキを持ち上げた。
しかしジョッキが空だったのに気づき、ばつが悪そうにして取り皿の中で冷えた豆腐を口に運んだ。
「高校生とか勘がいいとか、なんのことよ……あ、いやだ、何考えてんのよ!」
顔を赧らめて碧はグラスに手を伸ばしたが、碧のグラスも空だった。
そこに絶好のタイミングで由香が生ビールを運んできたので、「カシスオレンジください」と、注文をした。
「はーい。空いてるグラス、下げますね」
由香は先程の智明の不審な挙動に言及することなく、ジョッキとグラスを持って厨房に戻った。
智明は運ばれてきた生ビールを半分近くまで一気に飲んで、顔を伏せるようにして鍋に箸を伸ばした。
碧は、そんな智明の仕草を見ていたが、自分も鍋に箸を入れてネギを取った。
二人は暫くは無言で箸を動かしていたが、由香が碧の飲み物を運んで来て、それを三分の一程飲んだ碧が口を開いた。
「やっぱり、ハウスの部屋はまずいよね」
「え?ああ、うん。だよな……でも、今日は一緒にいたい……よな」
智明は真っ直ぐに碧に視線を向けて言った。
「うん、分かった……とにかく、まだ時間はあるから飲もう。何か食べる物は?私は出汁巻き卵頼むけど、トモは?」
「ニンニクの効いたスタミナ焼き!」
「は?」
小学生のように明るく言う智明に碧は呆気にとられ、半開きになった口元を歪めながら、ぎこちない笑顔を作った。
※最後までお読みいただき、ありがとうございます。
暇つぶしになって次回も読んでみたいと思っていただけましたら、励みになりますので、ハート・星・フォローをお願いします。
他に【日めくりカレンダー】【ポイズン~自己中毒~】という物語もアップしていますので、ご興味がありましたらご一読をお願いします。
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