第一章「夢の帆船」⑪

 秋人は、高校の音楽準備室にいた。

 隣にある音楽室からは多様な楽器の音色が聴こえている。吹奏楽部の、それぞれのパートの部員達が、思い思いに練習をしているようだった。

「すみません、騒がしい場所で」

 そう言いながら、眼鏡をかけた細身の女性が目の前の椅子にかけた。四〇代前半くらいだろうか。ほつれた前髪からは、どこかやつれたような印象を受ける。

「いえ、突然押しかけたのはこちらの方ですから。土曜日だっていうのに、部活を持たれていると大変ですね」

 秋人は、柔らかい笑みを浮かべて対応する。対外向けの営業スマイルである。

 その笑みを受けて、目の前の女性も少しばかり表情を緩めて会釈する。

「本校で音楽の授業を担当しております、山賀と申します」

「山賀先生ですね。私は……」

「竜堂ナツキさんのご家族、ですよね」

 山賀はクスリと笑みを浮かべる。

「春に、ナツキさんの制服の事で職員室にいらした時、私もそこに居ましたので。あの時は大変でしたね」

「え! あ、いやぁ……。ご存知でしたか」

 秋人の穏やかな微笑みが、一転して引き攣った苦笑いになる。

 入学する直前、女生徒用の制服であるセーラー服が着たい、とゴネたナツキの付き添いとして、秋人はこの高校を一度訪れていた。職員室で大立ち回りをするナツキを諌めるのに、秋人も含めて周りの大人達はほとほと苦労した。

「ナツキさんは音楽の授業は選択していませんが、私に何か……?」

 山賀は不思議そうにしている。あまり接点のない生徒の父兄が突然訪ねてきたのだから、無理もないだろう。

「いえ、今日はうちのヤツについてではなく……これを見て頂きたいのですが」

 秋人は自分のスマートフォンに、例の香と香皿の写真を表示させる。画面を傾けながら、その画像に目をやる山賀の顔を注視した。やましい事があるならば、写真を見た瞬間、その表情に何かしらの変化があるはずだ。

 写真を見た山賀は、少しだけ考えた後、思い出したように「ああ」と声を漏らした。

「これは年度始めに、吹奏楽部の部員に配ったお香ですよ。眠る前に焚くと、リラックス効果があるとかで」

 そう話す表情に、不審なところはない。ただ淡々と事実を語っている。少なくとも秋人はそう感じた。

「ええと……吹奏楽部の生徒の一部が、眠ったまま目を覚ましていないことは、もちろんご存知だとは思いますが……」

 秋人がその件を切り出すと、山賀の表情はあからさまに固くなった。

 二人の間に沈黙が流れる。隣の部屋から流れてくる調子外れな金管楽器の音色が、気まずい空気を助長させる。

 数秒後、山賀は重い口を開いた。

「……どうして、うちの部だけなんでしょう。教頭にも、部内で何かしら強いストレスを受けるような事があったんじゃないか、って言われました。私の知る限り、そんな問題は起きていないんです。みんな、良い子で。揉め事なんか一切起きてないですし……」

 そう言って、大きなため息を漏らし、山賀は頭を抱える仕草を見せた。

 原因不明の症状がこの部活動の中にだけ蔓延している。責任者として学校から追及を受けることも不思議ではない。

 山賀は随分と不満が溜まっている様子だった。話している相手は生徒の保護者である秋人だというのに、堰を切ったように愚痴をこぼし始める。

「さっき、竜堂さんが見せてくれた写真のお香だってそうです。部活動を思って生徒の一人が持ってきたんです。良い演奏をするために、みんなにリラックスして欲しいって。部内には仲間同士の絆もしっかりあるんです。それなのに、私の教育の仕方が悪いんじゃないかって職員室で吊し上げられて……」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 矢継ぎ早な山賀の言葉を、秋人は慌てて遮る。この教師は、今なんと言った?

「あのお香は、先生が配ったんですよね?」

「え? ええ。ご家庭の事情で部活動を辞める事になった生徒から預かったんです。自分は、もう音楽室に顔を出しにくいからって。そんなこと、気にしないで遊びに来たらいいのに」

「……山賀先生、その生徒の名前ってわかりますか?」

 秋人は胸のポケットからメモを取りだして、ペンを構えた。

 この音楽教師が、言った通り預かったものを配っただけで、香を用意した人物が別にいるのだとしたら、俄然そちらの方が怪しいと考えられる。

 追いかけるべき相手は、この教師ではない、という事だ。

 山賀は、額に手を当てて思案していた。その生徒の名前を思い出すのに、手こずっているようだった。

「なんていったかしら。大人しくて、あまり目立たない子で。楽器の演奏はすごく丁寧だったんだけど。たしか……そうだ、柄井さんです。トランペットを担当していた、柄井ついりさん」

 隣の部屋から聴こえていた楽器の演奏が不意に止まり、音楽準備室が静寂に包まれた。

 秋人は、息を呑む。

 柄井ついり。

 それは、ナツキにこの「眠りの病」の相談をした依頼者の名前だ。

 自信なさげに首をすくめて話す少女の様子を、秋人は思い出す。

 同じ吹奏楽部員が、目覚めない病に罹っている。自分もそうなるのではないか。不安だから、原因を調べて欲しい。

 彼女はそう言っていた。

 自分の部屋にあった怪しい香と香皿を「先生から配られたもの」とナツキに説明したのも彼女だ。

 山賀の話が本当だとしたら、教師を介して香が部員に行き渡るように手配していたのは、他でもない相談者の柄井ついりだという事になる。

 秋人は、全身の血がスゥーっと冷たくなっていくような感覚を味わっていた。

「……柄井ついりさんが吹奏楽部を退部したのは、いつの事ですか?」

「ええと、年末の演奏会の直前だったから……十二月ですね。ちょうど、半年程前です」

 一ヶ月に一人のペースで部員の誰かが眠りに落ちる。現在学校を休学している部員の人数は六名。今は六月である。

 ついりが部活動を辞めてから眠りの病が始まったのだとしたら、その数には辻褄が合う。

 辻褄は合うが、合点はいかない。

 柄井ついりがこの事態を引き起こすきっかけを作ったのだとすれば、何故わざわざ自らその調査をナツキに依頼したのだろうか。

 結果として、事実が露見してしまう可能性は大いにある。むしろ、こうしてナツキと秋人が調べなければ、彼女がそういう形で事件に関わっていた事を、誰も知りはしなかっただろう。

 彼女の目的が、どうにも見えない。

「柄井さんが、どうかしたんですか?」

 つい考え込んで黙り込んでしまった秋人に、山賀が尋ねる。

「いや、その、何というかですね」

 秋人は、言葉に詰まる。

眠りの病に絡んだ事実を、ここで山賀に話した所で、信じてもらうことは難しい。

 怪しい香。呪いのかかった香皿。そんな言葉を使った時点で、秋人自身が訝しがられる対象になってしまう。

 こういう時には、肩書きを利用して、口からデマカセでも、もっともらしい事を言った方がいい。

 秋人は懐から名刺を取り出しつつ、「漢方藍那堂」の従業員としての顔で、神妙な表情を作って話し始めた。

「私、こういった仕事をしているんですが」

「あら……漢方薬局にお勤めなんですか」

「ええ。業務の一環で、香を取り扱うこともあるんです。例えば、漢方薬に用いられる生姜や当帰を多く含んだ香は、お部屋で焚くだけで冷え性なんかに効果があると言われています。あ、よろしければこちらサンプルですので、お使い下さい」

 そう言って秋人は、自前の鞄からお試しサイズの小さな香の箱を取り出す。

「まぁ! いただいてよろしいのですか?」

「勿論です。そちらは、ローズマリーのフレーバーです」

「ありがとうございます。私、けっこう冷え性なんです。こういうものがあると、助かります……」

 秋人が想像していたよりも、香を受け取った山賀の反応は良かった。ここで、たたみかけておいたほうがいい。秋人は話す言葉の語気に熱を込める。

「それで、本日お伺いした理由なのですが……。先程、写真を見ていただいたお香。私の見立てでは、青少年にはあまり良くない薬効があるみたいなんです」

 貰った香の外箱に書かれた原材料の表示文を、眼鏡をズラして読んでいた山賀の目が、驚きで大きく開かれる。

「そうなんですか?」

「ええ。外箱が外国のものでしたから、香を用意した柄井さんにも分からなかったんでしょう。ですが、プロの目は誤魔化せません。あれには、何というか……青少年の健全な生育を阻害するような効果があるんです」

 山賀は「まあ!」と声をあげて、空いた口を抑える動作を見せる。

「あのお香の写真はナツキ経由で偶然目にしました。吹奏楽部の子供達に渡ったと聞いたので、出来れば先生のお力を借りて、アレを当薬局で回収させていただきたいんです。そのままにしておくのは……非常に良くない」

 最後は声を潜めるようにして囁く。山賀はウンウンと首を縦に強く振った。

「わかりました。ご協力させてください」

「先生……助かります!」

 そう言って秋人は、山賀の手を取った。

 突然手を握られてビックリした様子だったが、山賀も表情はまんざらでもなさそうだった。頬を赤らめ、コクリと頷く。

「では、生徒達に配られた香の回収をお願いします。できれば、付属していた香皿も。よくない成分が付着している可能性があります。回収が終わり次第、こちらに連絡をください。連絡先は、先程お渡しした名刺の方に記しておりますので」

 テキパキと山賀に指示を出し、秋人は荷物を持ってそそくさと立ち上がる。

 原因がここにないと分かった以上、ゆっくりしている時間はない。

 いまや最も疑わしき人物となった柄井ついり。彼女はナツキと共にいる筈なのだ。

「ああっ、竜堂さん……」

 手渡された香のサンプルをぎゅっと握りしめ、名残惜しそうに見つめる音楽教師に軽く会釈をして秋人は部屋を出た。

 足速に歩きながら、スマートフォンを取りだしてメッセージアプリを開いてみる。

 今朝のナツキとのやりとり。秋人が送った「いつカエル?」というスタンプには、まだ既読が付いていない。

「いま目が覚めました。変な夢は見ませんでした」というメッセージには、はじめ見た時から違和感があった。妙な丁寧語を使っていてナツキらしくない。

 このメッセージを打ったのは、本当にナツキなのか?

 秋人の中にある疑念が生まれる。

 深い眠りに落ちたナツキ。その指をスマートフォンにあてがい、指紋認証をクリアすれば、正体を装って偽のメッセージを送ることは可能だ。

 柄井ついりがこうして「いま目が覚めました」という文章をナツキのフリをして送ってくるということは、裏を返せばナツキがまだ例の夢の中にいる、ということになる。

 現在の時刻はもう正午に近い。仮に昨晩、日付が変わった頃に眠ったとしても、もう十二時間以上あの夢を見ている計算だ。

 急がなくては。

 ナツキが危ない。

 秋人はついりの証言から、生徒たちの眠る周期に月齢が関係していると予想した。調べてみたところ、それは実際にリンクしていた。それ故、ナツキが夢に囚われることはまだないだろう、とたかを括っていたのだ。

 しかし、それが柄井ついりの「演出」なのだとしたら、眠りの条件が、前提からして全てひっくり返ってしまう。

 それらしく繋がっていた点と線が、根本からバラバラになっていく。

 今朝、藍那が気になる事を言っていた。

 首を傾げながら呟いていた言葉が、秋人の頭の中で再生する。

「なんかねぇ、すごぉくソレっぽいんだよ。月の暦で眠ってしまう子供達とか、怪しいお香とか。あまりにも出来すぎていて、なんだか出来の悪い脚本みたいで」

「こういう演出を誰かがしているのだとしたら、その人は誰に、どうしてこれを見せたいんだろうねぇ」

 誰が、誰に、どうしてこの筋書きを見せたいと思ったのか。

 藍那は「演出」と表現した。秋人もそれに倣う。これが「演出」なのだとしたら、演者と観客が存在する筈だ。

 この一連の事件の目的はなんだ。誰に見せる為に手を加えた。この演出に、まんまと騙された観客は誰だ。

 冷たい汗が、秋人の背中を伝う。

 いつのまにか、秋人は走り出していた。

 ナツキはどこだ。どこにいる。はやく見つけなければならない。はやく、助け出さなければ。

 柄井ついりは、ナツキに対して相談をした。ナツキに香と香皿の事を話した。はじめから、観客はナツキだった。

 敵が狙っていたのは、他でもない竜堂ナツキ、その人だったのだ。

 走りながらスマートフォンを取り出し、ナツキの位置を携帯のGPSで確認する。スマートフォンを捨てられている可能性もあるが、秋人には他に手がかりがない。

 首に締めていた黒いネクタイを緩める。

 そのネクタイを裏側に、小さな丸い鱗のようなものが縫い付けてあった。それは透明で、虹色に光を放っている。月虹を思わせるその小さな鱗を、秋人は片手で毟り取った。そして、強く握りしめた。

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