第一章「夢の帆船」⑩

 ナツキは、砂浜の上を歩いていた。

 そういえば、最後に海に出かけたのはいつだったっけな、とぼんやり考える。

 少なくとも、秋人と共に藍那堂で暮らし始めてから四年、その間は一度も行っていないように思う。

「アニキの野郎には、休みの日に遊びに行くっていう発想が無えからなぁ」

 誰もいない浜辺で、ナツキはひとり、ぽつんと愚痴をこぼした。

 広がる風景には、やはり見覚えがない。

 だからとは言い切れないが、この夢の風景は自分の記憶に依存して型取られたものではない、とナツキは感じた。

 しゃがんで、浜辺の砂を手で掬ってみる。砂粒はキラキラと輝いていて、一粒一粒が細かく、そしてそれぞれが微妙に異なる形をしている。

 あまりにも、解像度が高い。

 漠然としたイメージではなく、夢の世界を構成するひとつひとつの物質に存在感があるように思える。

 むしろフワフワとして捉えどころがないのは、浜辺に立っている自分の身体のほうだ。

 砂浜を歩く素足に、沈み込むようなあの感触が無い。掬い上げた掌に、サラサラと砂粒が流れていく感触が無い。

 そもそも、いま砂を掬っているのは自分の右手なのか、それとも左手なのか。自ら強く意識しなければ、それすらもはっきりとせず、揺蕩っているような感覚だ。

 絵画に例えるとしたら、写実的に細部まで描かれた風景画の中で、自分の姿だけが薄く滲むアクリルで表現されているよう。

 この世界が夢、というよりむしろ、どこかに存在する浜辺に、夢を見る自分が降り立っているような感覚だ。頼りなくぼやけている身体の輪郭。そこには、何故か心地よい浮遊感すらある。

 ナツキは、岸から海原に向けて視線をやった。

 海面は穏やかだが、闇のような暗さを湛えている。

 眠りに囚われた吹奏楽部員達は、この海岸で船が来るのを待っていたのだという。

 今、ナツキの視界に船は居ない。あの暗い海を越えてやってくるという船は、一体何処から来て、何処へ帰るというのだろうか。

 遥か水平線を見つめる。その向こう側、遠い旅路の果てにある彼の地。遠い南の方角を眺めてみても、肉眼では何一つ確認できない。ただ、夜空の星が輝くのみである。

 遥か海の星々。煌めく星辰。何億光年の先から届く、歪つな光の一射し。

 瞬間、ナツキは身震いをする。

(もう二度と、帰りたくない!)

 突如、頭の中で誰かが叫んだ。

 身体の芯、心の奥の更に深い方から拒絶の感情が溢れ出してくる。それは生命体が持つ、最も根元的な恐怖に根ざした慟哭だった。

 ナツキはたまらず、涙を流して砂浜に突っ伏した。砂で顔が汚れるのもかまわず、腕を地面に叩きつけ、大声を上げて喚き散らす。

 怖い。怖い!

 あの海の果てが、怖い!

 同時に、感覚的に理解する。

 途方もなく巨大で名状しがたい、忌むべき異形の存在が、あの海の向こうに鎮座している事を。

 眠りの病。

 部員達の症状をして秋人はそう称した。

 けれど、これはそんな名前で呼べるような、生易しいものではない。

 船に乗ってあの海の向こうに連れて行かれたら、もう二度とヒトの姿で帰ってくることは出来ない。ナツキにはその確信があった。

 正気を保ったまま、再び目覚める事はできないという事だ。

 ナツキは、この世界で自分の存在を希薄に感じていた理由に気が付いた。

 波に運ばれて漂ってくるあちら側の気配が、あまりにも濃いのだ。

 その粒子は、浜辺の砂の一粒に宿る程に、余す事なくこの世界に堆積している。

 計り知れない神秘の情報量に圧倒され、相対的に自分の存在を捉えられなくなってしまっているのだ。

 ナツキは、何かにせきたてられるようにして、左手首にはめていたブレスレットをガチャガチャと力任せに外した。

 それは枷であり、蓋だった。

 その左手には、異能を喰らう顎門がある。普段は腕輪を用いて抑え込んでいるその顎門を、ナツキはこれでもかと大きく広げようとした。

 けれども、何も変化は起こらなかった。

 何一つ、喰らうことが出来ない。

 当たり前だ。この世界は、ナツキよりも遥かに大きい。そして今、ナツキはその内部に取り込まれてしまっている。

 胃の中に取り込まれた獲物が、相手をさらに吞み込むことなどできはしない。

 ナツキは、セーラー服の袖で砂と涙にまみれて黒く汚れた自分の顔を、ゴシゴシと拭きあげた。

 打つ手はない。

 けれど、ここでずっと泣いているわけにはいかない。

 こんなところで、終わってしまうわけにはいかない。

(俺には、まだやりたい事も、食べたい物も、山ほどあるんだ)

 パシッと両の頬を叩き、ナツキは前を向いた。幸いな事に、光明はまだ僅かに残されている。ナツキには、相棒がいるのだ。整理整頓とスカート丈にうるさい相棒が。

「頼むぞ、アニキ……」

 ナツキは踵を返し、灰色の灯台の方を向いて歩き始めた。

 灯台の麓は、ナツキがこの世界を夢だと初めて認識した時に居た場所だ。

 ここに長居はしたくないが、いかんせん帰る方法がわからない。

 入り口と出口が共通だと仮定すれば、あの灯台の近くにいた方が、帰る可能性は高くなる。あくまでも、仮の話ではあるが。

 たとえこの仮説が違っていたとしても、ナツキは歩き出さずにはいられなかった。ただ目印を決めて歩く。そうするだけでも、生きようとしている自分の存在を少なくとも確かめることが出来たからだ。

 茫漠と立ち続けているだけでは、この世界に呑まれてしまう。

 ナツキは自分の身体を強く意識して歩いた。曲げる膝、踏み出す足。腕を肩まで大きく振って、指先の一本にまで神経を行き届かせる。歩きながら、出鱈目な歌を口ずさんだりして、口、喉、声帯を震わせた。

(絶対に、消えたりしねえ……)

 目を凝らし、灰色の灯台を見つめて歩く。

 本来であればその先端にあるはずの夜標は灯されていない。暗い海に紛れるようにして立つその麓で、人の形にも似た黒い影がサッと動くのが見えた。

(もしかして、ついりんか……?)

 ナツキは、眠りに落ちる前に隣にいた少女の事を思い出した。

 自信が無さそうに首をすくめて、身体を縮こませるようにして歩く少女、柄井ついり。

 自分と同じように、この世界に呼び込まれてしまったのかもしれない。だとすれば、一刻も早く合流しなくては。

 灯台の麓に向けて、ナツキは暗い砂浜を駆け出した。

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