第一章「夢の帆船」②

 放課後。誰もいない学校の廊下。

 高校二年生の柄井ついりは、身を屈めるように歩いていた。

 抱えるカバンの中には末次堂のわらび餅が入っている。老舗和菓子店の末次堂は、高校から歩いて十五分ほどの場所にある人気店だ。

 ついりは、終業のホームルームが終わるのと同時に教室を飛び出して、制服のスカートを翻しながら末次堂に走った。一番人気の特製わらび餅を、売り切れる前に確保しなければならないからだ。夕方の帰宅時間に合わせて、出来立て和菓子の限定販売がある。国産本わらび粉と和三盆を練り上げた極上のわらび餅は注文を受けてから作られる極上品だった。

 息を切らせて末次堂にたどり着いたついりは、完売寸前だったわらび餅を、ギリギリのタイミングで購入した。崩れないように気を付けて、大事そうにカバンにしまう。

 抱えたカバンの中身を水平に保ちながら、ついりは学校へと戻った。教室のある本棟ではなく、別棟の一階へと向かう。

このわらび餅を差し出す相手が、そこにいるからだ。

 それは校内でまことしやかに囁かれている噂のひとつだった。

「この学校には、お菓子ひとつで問題を解決してくれる幻の女生徒がいる」

 ここで語られる「問題」とは、俗なオカルト関係のトラブルを限定で指していた。

 幻の女生徒、なんていう表現がいかにもウソくさい。

 ついりはそういうオカルトじみた話に首を突っ込むタイプではなかった。

 けれども、こうして放課後にわらび餅を買いに出てまで、噂にすがるのにはもちろん理由がある。

 ついりの抱えている問題。オカルト関係のトラブル。

 それが既にのっぴきならない事態を迎えていたからだ。

 

 各学年の教室がある本館から、別棟まで歩いて五分ほどかかる。

 別棟の一階に、家庭科の実習でよく使われている調理室があった。

ついりが向かっているのは、その調理室の隣にある準備室だ。

 この高校は、比較的自由な校風で知られている。生徒の自主的な自治による、文科系部活動の運営が特に盛んだ。別棟の空き教室は、拠点の無い文化系部活動の部室代わりに使われていた。

 調理室の隣にひっそりと設けられた調理準備室もそうだった。例に漏れず、何らかの部活動の拠点として使われているらしい。

 閉じた扉の向こうに人の気配があった。

 灰色の扉には、ポップな字体でカラフルに「すいーつ部」と書いた画用紙が貼られている。

抱えたカバンをギュッと握り、ついりは小さく息を吐いた。

 そのまま、その扉を軽くノックする。

「はーい」

 間延びした声で、返事があった。

 ついりは、小さな声で

「失礼します」

 と呟き、部屋の中に足を踏み入れた。


 調理準備室は通常の教室よりもずっと小さい作りだった。調理実習で使用する調理道具があちこちで収納されている。食材などもここの冷蔵庫で保管しているようだ。

 部屋の一番奥に冷蔵庫があって、手前に小さなテーブルが置かれている。テーブルの上にはお菓子の空袋や、ペットボトルが散乱していた。それを囲むようにして、数名の生徒が座っている。

「え、誰?」

 向かって右側、あぐらをかいて座った女生徒が、ついりの顔を睨め付けるように見上げた。

「えっと、その……」

 気圧され、言葉に詰まる。

 狭い調理準備室に、気まずい沈黙が走った。

「……なんかよう?」

 部屋の奥、片膝を立てて座っていた生徒が声を発した。

 空気がぴんと震えるような、凛とした声だった。

 ついりは、反射的にその生徒のいる方向に視線をやった。

 その瞬間、空中で互いの視線がぶつかった。

 その生徒の風貌に、ついりは目を奪われていた。

 腰まで届くほどの長く艶やかな黒髪。

 雪のように白く、透明感のある肌。

 形の良い鼻、つんと突き出した鮮やかな色の唇。

 何より印象深かったのは、その目だった。長いまつ毛に縁取られた、整ったアーモンド型。吸い込まれそうな漆黒の瞳。

 チャコールグレーのセーラー服を身に纏ったその姿には、高貴さすら感じた。

 その用紙にドギマギとしながら、ついりはあたふたと荷物を取り出した。崩れないように気を付けて持ってきた、出来立てのわらび餅だ。

 そのパッケージを目にした女生徒達が、にわかに色めきだった。

「え! 末次堂のわらび餅じゃん!」

「マジ!? この時間……もしや出来立て!?」

「おいおい、天才かよ……」

 ついりは部屋の中央まで進み、お菓子が雑多に置かれていたテーブルを整理して、その真ん中にわらび餅を置いた。

 女生徒達の注目が集まる中、ひと呼吸を置いて、わずかに震える声を発した。

「竜堂……竜堂ナツキさんにお願いがあって来ました」

 正面に座ってついりを見据えていた、あの容姿端麗な黒髪の生徒が、眉をピクリと動かした。深い漆黒の瞳が、ついりを見つめている。

「あー、もしかして“相談”の人?」

 茶髪の女生徒の問いかけに、ついりは何度も首を縦に振って応えた。

「えー、またこのパターン?」

「なんか、最近多いよね。怪奇現象って、そんなに流行ってんの?」

「ねぇナツキ、もらったお菓子は全部食べないでよ。そういう約束で部室貸してんだから」

 テーブルを囲んでいた女生徒達は、そういって口々にぼやきながら、辺りに散らばっていた荷物をまとめ始めた。

「わーかってるって。でも半分は俺が食うからな。これは、他ならぬ俺への捧げ物なんだから」

 はいはい、とおざなりな返事をしながら帰り支度を整えた女生徒達は次々と立ち上がり、調理準備室の外に出て行った。

 じゃーねー、と後ろ手を振る彼女達に、ついりは小さく頭を下げる。

 そうして調理準備室の中は、ついりと長い黒髪の生徒の二人きりになった。

 その場所にデンと腰を下ろしている黒髪の生徒の姿を、改めてついりは見つめた。

(この人が、竜堂ナツキ……)

 あやしげに噂される張本人。お菓子ひとつで問題を解決する幻の女生徒。その人物が、いま目の前に実体を伴って存在している。

 ナツキはその白い手をスッと伸ばし、テーブルの上に置かれたわらび餅の箱を掴んだ。

 ビリリッ、と豪快に紙を破く音が部屋の中に響きわたった。

 とても綺麗とは言えない乱雑なやり方で、ナツキはわらび餅を箱から引っ張り出す。

「なぁ、悪いけど先にコレ食ってもいいか? せっかくの出来立てだからさぁ。いいだろ?」

 ついりが返答するよりも先に、ナツキはわらび餅を口に運んでいた。真っ白な頬をもにゅもにゅと動かし、その味と触感を堪能している。蕩けるように目尻が下がり切ったその表情を、ついりはポカンと口を開いたまま、呆気に取られて眺めていた。


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