第19話「クリスの危機」


 最近のクリスは体調を崩しがちだった。悪い時は週に二回ほど寝込むほどに。勿論医者にも診てもらっていたが風邪としか言いようのない症状らしい。

 それに、最近のエルガーはなにより忙しそうで側近と一緒に大陸を行ったり来たりしていた。そのためクリスが政務の補佐をする機会も増え、ゆっくり休養を取る暇さえなかった。

 それに見兼ねた俺は力になりたいと言ったが、まだ幼い俺には早い、傍にいてくれるだけでいいの一点張りだった。確かに、前世がただのサラリーマンだった俺に統治能力なんてものはなくいてもお荷物だろう。しかし、疲れた様子を見せる頻度が増えたクリスがとても心配だった。


 そしてある日。


「フリッツ坊ちゃん!」

「うわぁ!」


 部屋で読書をしていると、リーサが扉を乱暴に開けて入ってきた。メイドの彼女らしくない粗雑な行動にびっくりしたが、それ以上に彼女の青白くなっている顔に視線がいった。


「ど、どうしたんですか。そんな顔をして」

「はぁ…はぁ…クリス殿下が倒られたんです!」


 それを聞いた俺は椅子から飛び降りた。これまで寝込むことはあっても倒れることは無かった。

 俺はリーサと共に医務室へ走った。アスモダイ城の離れにある俺の部屋から医務室までは距離があり、まだ七歳の全力疾走では中々の時間がかかる。それを見兼ねたリーサは俺を抱えて走り出した。流石は俺の護衛を兼ねていることもあり、俺を抱えながらも走るスピードは衰えず、三分ほどで医務室に着いた。

 

「クリスお姉ちゃん!」


 医務室に飛び込んだ俺が見たのは今までで一番辛そうな顔をするクリスだった。


「フリッツ……」


 俺の顔を見たクリスはその顔からいつも通りの微笑みへ変えた。

 いくら俺の前だからって無理に顔を作らなくてもいいのに…!


「大丈夫よ。貴方の顔を見たら楽になったわ」


 強がるクリスだが、横になっているにもかかわらず息は絶え絶えだし肌はいつもより真っ白だった。いつもの綺麗な白ではなく不気味なくらい白だった。


「倒れたのに無理しないでよ…!」

「…無理なんかじゃないわ。医者にはただの風邪だって言われたしね」


 風邪なわけがない。クリスはきっと俺に心配させまいと嘘をついている。俺が本当に七歳の子供だったら見破れただろうが、俺にそんな嘘は通用しない。前世ではたくさん弟妹の風邪を看病してやった俺なら猶更だ。


「フリードリヒ殿下、そろそろ…」


 部屋にいるクリスを診ていた医者に部屋を出るよう促される。

 

「ごめんなさいね、フリッツ。しばらく休養に努めろとお父様に言われたの。あの人が私をこき使ったのにね」


 クリスはきついだろうに俺を気遣って冗談を言って笑う。

 病人本人がそう言うんだ。ここはわがまま言わずに部屋を出るべきだろう。

 

「分かりました…。また来ます」


 俺はとぼとぼと自室へ帰る。何も出来ない無力な自分が腹立たしい。

 どうすれば彼女を救えるのだろうか。風邪ではないのは明らかだ。風邪は何ヶ月も長引かない。この世界の風邪は長期化するものなのかもしれないと一瞬考えたが、一年前にリーサが風邪を引いて一日休んだことがある。前例はそれしかないが、おそらくこの世界の風邪も前世のそれと一緒のはずだ。

 かといって、きっとクリスは俺に病名を教えてくれないだろう。あの抜け目のない彼女の事だ。医者やメイドさんたちにも根回しをしているに違いない。


「はぁ…」

「心配ですね…クリスティーナ殿下」


 俺の溜息をクリスへの心配だと思ったのか、リーセがそう言う。

 この溜息は無力な自分への虚しさからくるものだが、彼女への心配も嘘では無いのでここは同調しておく。


「そうですね…。早くよくなるといいんですが…」

「はい。…それに、来月は坊ちゃんの誕生日でしょう?クリスティーナ殿下、かなり楽しみにしていたんですが無事に迎えられるでしょうか」


 そうか。もうそんなに経ったか。ヴェリーナと初めて会ってからもうそろそろ一年近く経つな。

 ヴェリーナとクリスは初めて会ってからもちょくちょく会っているが、ヴェリーナがクリスを畏怖しているというか、あまり近づかないので多分そこまで親密にはなっていないと思う。クリスティーナもそれを分かっている節があって彼女からもあまり近づかないしな。


「そういえば、ヴェリーナお姉ちゃんが次に来る日は分かっていますか?」

「はい。トルクシュさんが明日って言ってましたね」

「………そうですか」


 正直言うと、クリスがこんな状況になっている中俺だけヴェリーナと遊ぶのも申し訳ないし、こんな気持ちでは心から楽しめない。それはヴェリーナにも失礼だろう。

 しかし、ヴェリーナの母ヴァリュナが俺とヴェリーナが会う事にどうも積極的でこちらの都合に関わらず予定を無理矢理ぶっこむことも少なくなかった。

 ヴァリュナに文句の一つも言いたいところだがヴェリーナに落ち度はないので彼女を門前払いするようなことは無かった。ヴェリーナと遊ぶことは楽しいしな。


 しかし明日か…。明日になったらクリスの病状も軽くなっているといいがな…。


―――


 ヴェリーナはその日も母親に呼び出しを受けていた。


「失礼します……」


 ヴェリーナが龍姫族女王―そして彼女の母親であるヴァリュナの執務室に入ると、そこにはいつもと同じ景色。

 こちらに一瞥もくれず机の書類に目を通しているヴァリュナ。その左には護衛の龍姫族が一人。ヴァリュナの右後ろには赤ん坊を抱いている人族の男が立っている。


「ヴェリーナ」


 いやに部屋に響く声が聞こえる。ヴァリュナのものだ。

 ヴェリーナは無意識に背筋を伸ばす。


「は、はい」

「貴女がエルガーの息子と初めて会ってから、どれくらいが経ちましたか?」


 冷たい声だ。しかしヴェリーナは母親のそんな声にもう慣れていた。

 そう。あの赤ん坊が産まれてから彼女はずっとあんな態度なのだから。


「そろそろ、一年が経ちます……」


 ヴェリーナはこれから自分に降りかかる悲劇を理解していた。

 初めてフリードリヒと会ってから毎月起こっていることだった。


「そうですか。それで?何か進歩はありましたか?」


 進歩。なんの進歩かと言われれば、自分がどれだけフリードリヒを誑かしたかの進歩だ。

 ヴェリーナは約一年前、彼女たちの種族―龍姫族とフリードリヒの種族―魔族の仲を親密にするため、王に連なる者同士、つまり彼女とフリードリヒの間に婚姻関係を結ぶように命じられた。

 しかし、ヴェリーナはそのために何をすればいいかわからなかった。

 いや、何をするべきかは、彼女は十歳にして理解していた。

 ヴァリュナはきっと、自分が女性であることを武器にフリードリヒを誘惑しろと言っているのだ。無理やり婚姻関係を結ぶには、男としての欲を刺激するという安直な方法しかヴェリーナには思いつかなかった。

 しかし、フリードリヒはまだ七歳の少年だった。そんなことをする対象ではない。

 しかも彼はヴェリーナにとっての初めての友人だった。そんなことをして、もし軽蔑されたらきっと耐えられない。


「ま、まだないです……」


 ヴェリーナは俯きながらそう答えた。ヴァリュナの溜息が聞こえる。取り巻きの冷たい視線も。


「もう一年は経つのですがね…。こうなっては彼を無理矢理連れてここに来させる……」

「それはやめてください!!」


 ヴェリーナは咄嗟に声を上げてしまった。王であるヴァリュナの言葉を遮ることは例えその実子でもやってはいけないことだった。周りの冷ややかな目を受けた彼女は「ごめんなさい」と小さく呟きまた俯く。

 無論、ヴァリュナとて本心で言った訳では無い。もしそんなことを実行すれば最悪戦争に勃発だ。龍姫族と魔族の仲を親密にするどころの話ではない。

 しかし、ヴェリーナが叫ぶほど断るのは少々意外だった。

 もう少し焚きつければ彼女もやる気を出すだろう。

 そう考えたヴァリュナは口を開く。


「そういえば、そろそろあの子の誕生日でしたね」


 ヴェリーナは首を少しもたげた。両者の視線が合う。


「ここ数年、魔族の間には誕生日の人物に特別な贈り物をする習慣が広まっているようです。それまでにあの子がなにを欲しがっているのかを聞きなさい」

「わ、分かりました」


 ここ数カ月で一番容易そうな事を言われたヴェリーナの瞳に光が灯る。来月はヴァリュナの小言や取り巻きの冷たい視線を受けなくて済むかもしれない。


「それがなんであろうと必ず用意しなさい」

「え、あの…お母様のご助力は…」

「甘えないで。自分で用意しなさい」


 ヴァリュナは今日一番の冷ややかな目をヴェリーナに向ける。その強い視線を受けたヴェリーナには俯くことさえ許されない。


「何度も言っているけれど貴女は我々龍姫族が更に繫栄するための道具の一つ。それが王族として産まれた者の宿命です」


 ヴェリーナは知っている。

 人族の男が抱いている赤ん坊。彼女が両親から―ヴァリュナとその男から愛情を持って育てられていること。自分と同じような過酷な環境では育たない事。

 しかし彼女はそれに憤りは感じない。だってそんな環境で育ち、自分の種族のために道具に徹するのがの持ち主である自分の役割であることが嫌でも理解していたから。


「ああ…。彼が多くの美女を欲しているという時は声をかけなさい。その時はこちらから選別してあちらに向かわせます」


 フリードリヒにはそんな事を言って欲しくないな。

 ヴェリーナは現実から目を背けつつ頭の端でそう思った。



 

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