第7話 カーニバル

 最初に見えたのは、揺らめく赤い何かだ。次に黄色。水色。

 しばらくして、それが布だと分かった。色とりどりのレースが風に舞っている。スカーフらしいものも見える。

「お姉さんを追いかけたい?」

「ええ」

 マルコの問いに即答する。ハルはまだ道の先を見ている。

 ドレスをまとった人々が踊っているのだ。音楽は聞こえない。静かなカーニバル。姉もこの様子を見たのだろうか。

 ベネチアのカーニバルは二月から三月に行われる。夏場に大勢の人が踊っているなど、考えられない。きっとここは現実から離れた場所なのだ。

 マルコが仮面を手渡してきた。目元を隠せるアイマスク。花びらのような装飾がついていて、色は真っ赤だ。片手で支えられるよう、右端に持ち手がついている。

「仮面を着けて、決して外してはならない。ここでは、正体を隠すのがルール。それから、彼らから何も受け取ってはいけないよ」

「ありがとう」

 ハルは仮面を受け取り、目元にかざす。そして、ゴンドラから小路に飛び移った。

「まっすぐ進むと、ドアがある。三回ノックして入る。きっとお姉さんに会える」

 マルコの声が遠くなっていく。お礼を言おうと振り向くと、すでにゴンドラは去った後だった。深く息を吸い込み、静かなカーニバルへと歩を進める。

 踊っている人々は、皆一様に仮面を着けていた。ハルと同じように目元だけのもの。顔全体を覆うもの。角の延びたもの。金。銀。白。

 もとから道幅は狭い。そんなところで踊っているわけだから、道はふさがってしまっている。しかし、何としてもここを通らなければならない。

「悪いけど、通してもらうわね」

 言ったところで、ダンスはやまなかった。ただ、人々が目線をこちらに向けるのが分かる。仮面の持ち手を強く握りしめ、踏み出した。

 案の定、大混雑の中を歩くことになった。壁際を歩いても、誰かの腕や背中に押される。ダンスの波間を縫って進むが、足踏みばかりだ。ぶつかった瞬間に、仮面が外れそうになる。正体がばれてしまったらどうなるのだろうか。

 目の前で黄色と藤色の布が踊る。その隙間から金色の仮面が覗いた。しげしげとこちらを見ているようだ。ハルは口を固く結んでその脇をくぐる。

 横から何人もの手が伸びてくる。それらは、ミサンガやバラの花を持ち、ハルに手渡そうとしているのだ。

 受け取らないという意思を示すため、仮面の持ち手を両手で固く握りしめる。幾度もバラを押し付けられ、ミサンガをくくりつけられそうになったが、彼女の強固な姿勢を前に、それらはやがて引いていった。

 気付くと、人ははけていた。後ろを振り返ると、無音のカーニバルはまだ続いている。しかし、もはや誰もこちらに興味をもっていないようだ。

 ほっと息をつき、道をさらに進む。

 ドアは、すぐに目の前に現れた。レンガの壁にはめ込まれた、木製のドア。三角形を主体としたゴシック様式の彫刻が施されている。

 マルコに言われた通り、三回ノックする。重い音。返事はない。

 ハルはためらわず、扉を大きく開いた。

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