第3章 マルクス主義と負の想念

第7話 無謬性

 あまり知られていない「無謬(むびゅう)性」と言う言葉があります。この言葉の意味は、誤りが含まれていないということであり、絶対に正しいという意味でも用いられます。例えば、他力門の信仰においては、阿弥陀如来の実在や阿弥陀如来の誓願を疑うことは、他力門を教えを疑うことであり、阿弥陀如来の実在や阿弥陀如来の誓願を否定することは、他力門の教えを否定することになります。

 そのため、議論の対象にすらならないと言った意味で使われる言葉ですが、マルクス主義者を信奉する人々は、マルクスの著書を聖書のように考えているのではないかと思うことがあります。つまりマルクス主義に間違いがあるはずもなく、マルクス主義を疑うことなど考えられないと言った態度に見えます。

 これはマルクスの著書は無謬であると考えていることを意味していますので、宗教と同じであると言えます。勿論、マルクス主義においては宗教は否定されているだけでなく、儀式や祭礼もありませんので、宗教と同一に扱うことはできませんが、特定の思想に無謬性を認め、その思想を自分の生活信条とするならば、心霊世界の観点から見ますと宗教と同じ扱いとなります。

 これは何もマルクス主義だけに限られた話ではありませんが、極右思想や国粋主義などの思想を信奉する政治団体も心霊世界の観点からみますと新興宗教と同じであり、深刻な霊障の原因となります。マルクス主義を新興宗教として考えるならば、その勢力は世界規模であり、新興宗教とは比べ物にならない巨大な勢力となります。

 心霊世界においては、同じ思想を持つ者が集まって一つの霊系団を作っていると思われますが、マルクス主義はその成立過程において当時のヨーロッパを覆っていた労働者たちの負の想念を取り込み、その不満や怒りを煽る思想であることを考えますと、マルクス思想は巨大な闇を抱え込んだ思想とも言えます。

 心霊世界は心の世界であることからマルクス主義に傾倒して積極的に活動するならば、マルクス主義の背後に隠れている巨大な闇の勢力と心が通じることになり、その縁を通じて大量の不成仏霊の影響を受けることになります。これはご先祖や身内の方がマルクス主義に傾倒された場合でも同じであり、その縁を通じて不成仏霊が流入することになります。

 これは新興宗教の障りと同じような障りですが、マルクス主義の場合には背後に隠れている闇の勢力が新興宗教よりも遥かに大きいだけでなく、マルクス主義は無神論であり、神仏に対して敵対心を持つ不成仏霊の集団であることから新興宗教の障りよりも遥かに解消が困難な障りとなります。

 

 














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