第4話 学校生活の始まりと終わり

 濃い緑と土のにおいがするその場所は入学の季節ともなると、目にもあざやかな桃色の花をつけた木が立ち並んでいました。

 風に吹かれて舞い散る桃色の花びらをひとひら手にとってながめ、これほどまでに美しい植物がこの世にあったことに感動など覚えたものです。


 あの神学校の入学式で見た、正門から校舎に通じる白亜の石畳と、その左右に並んだ桃色の花をつけた並木の景色は、私の半生を振り返っても一、二を争う美しいものなのでした。


 あるいはその時の私はなにに悩まされることもなく、これからの学校生活を楽しみにしていたから、そんなにも景色が美しく見えたのかもしれません。


 やはり、気が気でない状態では、美しいものを美しいと感じることも、おいしいものをおいしいと感じることも、難しくなってしまいます。

 空腹が最良のスパイスであるということは、表現方法を変えてあらゆる土地で言われる慣用的表現ではありますが、私はそれに加え、『心の余裕』こそが、ありとあらゆるものを美しく彩る最良の食器だというように思うのです。


 私はここで三年間、真っ白な制服を着て、神について学ぶ予定だったのです。


 学問にランク付けをするというのもおかしな話ですが、神学というのは数学や歴史学などの他の学問と比しても『最高の学問』とされていました。


 神学と魔導学がともに『最高』であり、帝王学を別として、他の学問は学問的位階とでも言うべきものが一段階下がる、というような無意識の共通認識があり、この当時の私もまた、神学を学ぶことになる己を誇らしく思っていたのです。


 その初年度の初めに限って言うならば、たった一つを除いて、これから先の安寧を予感させる順調な滑り出しだったと言えるでしょう。


 学生というものに限らず、人間というものは、数の多い集団に属すると派閥を形成するものであり、派閥と派閥のあいだにはランク差が存在することがほとんどです。

 私はここで、いわゆるトップランクの派閥に所属することに成功しました。


 とはいえそれは、私の手柄とは、とても言えないものでした。


 婚約者。


 私が学校で初めてお目にかかった婚約者は、公爵の五人いるお嬢さんのうち、四番目だったのです。

 うちはしがない子爵家でありますし、公爵というのはやはり王家に連なる血筋の特別な家ですから、この時の縁談については破格も破格、我が家に大きな繁栄をもたらすものでした。

 そして同時に、もしもこの縁談が破談となった場合、世間の多くの人々が『子爵家が公爵家を怒らせた』と判断し、我が家との関係を断つこととなるでしょう。

 つまり、私の双肩に、我が家の命運がのしかかっているのです。


 そして私の学校生活一年目にあった唯一の懸念というのが、婚約者との関係でありました。


 というのも、私の婚約者であるルクレツィアは王都神学校という、神学校の中でも特別優秀な生徒が多く属するこの学校において、抜きん出て優秀とされていたのです。

 しかも常に厳しい顔をして敬虔に神に尽くす彼女は、その厳しさの半分ほどを他者にも求める性格をしていました。

 優秀なルクレツィアが己に課す努力義務はとてもはなはだしく、その半分でも期待されてしまっては、毎日全身全霊を尽くして取り組まないと、どうしようもないほどなのでした。


 私は家の命運がかかっているものですから、ルクレツィアの敬虔さ、優秀さにどうにかして食らいつこうとしました。

 その努力はルクレツィアに認められ、また、そうして婚約者の要求に応じていくうちに、周囲からも、いわゆる『優秀な者』として認められるようになっていったのです。


 このように、私を唯一困らせたものによって、私の学生生活一年目は輝かしい未来を予想させる滑り出しになりました。

 しかしそれは、少しでも気を抜けばすべてを失いかねない、毎日必死の努力をようする、綱渡りの生活でもあったのです。


「つらいなら、やめてもいいのだぞ」


 これが、学生時代、私と会話をする時の、ルクレツィアの口癖でした。


 これは後年になって振り返ると、本来は不器用なルクレツィアからの、彼女らしい不器用な気遣いだとわかるのです。

 しかし当時の私はルクレツィアの機嫌を損ねることがなによりおそろしく、彼女が気遣いで発したこの言葉は、『やめたければやめろ。そうすれば容赦なく切り捨てるが』という、脅しの言葉に聞こえてしまったのでした。


 結果として私は内心を隠したまま、彼女に付き合い成績を維持し、礼拝を欠かさず、神殿から下げ渡される義務を率先してこなし、人の嫌がる役割を押し付けられても、笑顔でそれを引き受け続けました。


 そして、壊れました。


 私には信仰の喜びもなく、才覚もなかったのです。


 すべての努力はルクレツィアのためにしているものであり、私はその努力に『私自身の意味』とでも言えるものを、まったく感じていないのでした。


 もちろん子爵家でしかない私が、公爵家であるルクレツィアとよしみを結べることは、本当に素晴らしいことで、生活すべてをなげうってでもルクレツィアのために尽くす価値はあるのでしょう。

 しかしそれはあくまでも『客観的事実』でしかなく、十五歳の私の主観において、その暮らしはルクレツィアに支配されたものであり、そして、その支配は学校を卒業して、家に戻っても死ぬまで続くものなのです。


 そう思ってしまうと不意にすべてが面倒になりました。


 日の出より早く起きて昼神の像を磨き礼拝することも、運動して神官戦士としての職分に備えることも、宣教師となってもいいように神学を学ぶことも、神殿からの義務も、生徒会活動も、すべてが嫌になり、逃げました。

 逃げて、冒険者になりました。


 私の心には、妹のシンシアに語り聞かせた冒険者の英雄譚がこびりついていたのです。

 もちろん現実にそんな英雄譚はありえません。

 けれど、すべて己の実力でこなし、生きるも死ぬも己次第で、誰の顔色もうかがわず生きていく、実力主義の冒険者……

 それは私がここから先一度たりとも手に入れることのかなわないであろう『自由』を体現しているように思われたのでした。


 身分を隠し、偽名を用いて冒険者組合に登録し、私は冒険者デビューをしました。


 多少の神官魔術……いわゆる『昼の神の力』と、魔術、ようするに『夜の神の力』を扱える私は、それなりに使えると思われたようで、いくつかのパーティから声がかかりました。


 声をかけてくるパーティの女性比率が高かったことから、いつしか私は『女たらし』という不名誉なあだ名で呼ばれることになります。

 ……今にして思えばそれは、なんとも予言的な響きを持つ言葉に思えるのです。


『女たらし』。


 私自身にそのつもりがなくとも、人からいつの間にかそのように見られている流れまでふくめて、そのあだ名は私の人生をまるごと表現しているような、そんな気がするのでした。


「やぁ、『女たらし』。そうやって物憂げな顔をしているから、こんなふうに女性が君を放っておかないんだよ」


 そうやって当たり前のように私の隣に腰掛けるその人物こそが、私の人生を本格的にめちゃくちゃにした悪友なのです。


 オデッドは、短い赤毛に、よく日焼けした肌に、少年のような体つきと気安さを持つ、男女の隔てなく付き合いやすい、斥候スカウトという職能の冒険者で……


 私を邪教に導くことになる、きっかけだったのです。

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