10.

 


 翌週、再び俺たちは森谷教授の研究ゼミ室に集まった。

 研究ゼミ室はそんなに広くないので、ほむら先生の座る教授机に向けて椅子を並べて座る。そんな俺たち研究ゼミ生の手元には、それぞれ何らかの資料が握られている。

 それを見て、ほむら先生は火の点いていないパイプを燻らせながらニマニマ微笑むと――颯爽と宣言した。


「よしよし、さあ諸君。先週の課題――『バリツ-baritsu-』に関する考察を、早く聞かせてくれたまえ!」




   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇



■10.研究ゼミ室の冒険 -The Adventure of The Teaching Room-



   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇




「それじゃ、最初は私から発表するわね!」


 ゼミ長の灰原あいり先輩が明るく言い放つ。

 この行動力は本当にすごいと思う。俺とめぐみが「どうぞどうぞ」と手振りすると、あいり先輩は早々に発表を始めた。


「私は、各出版社の”対応の違い”を中心に調べてみたわ!」


 そう言いながら、あいり先輩は付箋の貼られた本…――

 第三短編集『シャーロック・ホームズの帰還』を数冊、かばんが取り出して教授机にドサドサと並べていく。


「出版社の対応は、大きく二つに分類されるようね!

 まずは――①そのまま『バリツ-baritsu-』と記載して、注釈を入れるパターン。この場合、注釈の内容は『日本の柔術の事』と解説したものが多いわ!」


 ふむ。俺が小学生の頃に初めて読んだ本もそうだったな。


「ちなみに、昔に出版された邦訳本の中には……『バリツ』の部分を『馬術』と翻訳した上で、『ドイルが柔術と馬術を混同して、誤記したものと思われる』と注釈する、かなり突っ込んだ内容の解釈もあったわね!」


「へぇ~『馬術』と書いて『馬術バリツ-baritsu-』ですかっ、なんか自由ですね!」

「たしかに時代感があって面白いな。当時はそれが”通説”だったのかもしれないぞ?」


 今でこそ荒唐無稽な”冗談”のように思えてしまう解釈だが、おそらく当時の翻訳者が、真摯に原作と向き合って『バリツ-baritsu-』の”意訳”を試みた結果なのだろう。まあ今回の『馬術バリツ-baritsu-』は……”意訳”というより”個人的見解”という感じだが。これを読んだ子供は『馬術バリツ-baritsu-』と覚えてしまうわけだよなぁ……。

 本当に”翻訳”とは難しい世界である。


「あとネットでは――総合格闘技『バーリトゥード』の誤読説もあったわね!

 たしかに『バーリトゥード』は”発音”的にも『バリツ』と似てるし、『東洋の武芸-マーシャルアーツ-』の技法を取り込んだ格闘術だから『日本の格闘技 -Japanese system of wrestling- 』と表現した事にも符合するわ。でもねぇ……『バーリトゥード』は一九二〇年代のブラジル発祥とされる格闘術だから、一八九一年に起きた『最後の事件』でホームズが体得していたとは、ちょっと考えにくいかな~って私は思うわね」


 ほお~なるほどね。これは年代学的に説得力がある。

 俺とめぐみがパチパチと称賛の拍手を送ると、あいり先輩がふふんと満足気に笑う。


「ではお待ちかね。出版社のもう一つの対応なんだけど。

 それがびっくり――②そもそも『バリツ-baritsu-』を記載しないパターンよ!」


「ええぇ!?」

「えっ、そんな出版本があるんですか?」


 俺たちが驚いていると、あいり先輩は勝ち誇ったように微笑みながら、机に置いていた数冊の本をこちらに手渡してくる。

 それを受け取った俺とめぐみは、付箋の貼られたページを読んで――ため息を漏らした。マジか。


「ほ、本当ですね。この本には――”ぼくは日本のジュウジュツを少し知っていたから”――と書かれてます。柔術をカタカナで表記しているのは『バリツ』を意識しての事だと思いますが……『バリツ』という単語そのものは出てきません!?」


「こっちの本なんか――”ぼくには日本の格闘術の心得がいくらかあった”――とだけ書かれていて、『バリツ』の部分が完全に削除されてるぞ……。もしも初めて読む『シャーロック・ホームズ』がこの出版社の本だったら……その読者は『バリツ』を知らない事になるんじゃ……」


 ほむら先生は、それまで俺たちが意見交換する様子を、何も言わずに面白そうに聞いていたのだが――ここで少し寂しそうに微笑んだ。


「うむ。訳者は常に著者の文意を理解し、多くの読者に楽しんでもらおうと邦訳に努めているが……先ほどの『馬術』のように、時には”個人的見解”と紙一重な意訳を入れてしまう事もある。一方で、意訳が困難な文言があった場合……それを削除してしまう事も、邦訳された作品ではままあるのさ。作品と著者に払うべき敬意を思えば、どちらも非常に残念な事だがね……」




   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇




「そ、それでは、次に私から発表します…っ」


 後輩の門石かどいしめぐみが、緊張した面持おももちで手を挙げる。

 あいり先輩と俺が「どうぞどうぞ」と手振りすると、めぐみは照れ笑いしながら発表を始めた。


「私は、ホームズが――”どんな技を使ったのか”――をテーマに考えてみました。

 まずは通説として、『バリツ-baritsu-』は『日本の柔術』と関連づけて解釈される事が多いです。特に一番多いのが、ホームズがモリアーティ教授を倒した描写から『柔道の巴投げ』と推理するものです」


 たしかに名探偵ホームズが『柔道の巴投げ』を使った説は有名である。

 『最後の事件』の終盤にて、名探偵ホームズと宿敵モリアーティ教授はライヘンバッハの滝で対峙する。この時、ホームズは狭い小道を先頭で歩かされ、その後ろをモリアーティ教授がついて歩いた。そして、ホームズが行き止まりの崖っぷちに着くと、モリアーティ教授が素手で掴みかかって来る――この時の立ち位置は、ホームズの背後に崖があり、ホームズの前方からモリアーティ教授が突進してくる形だ。そしてそれをホームズが『バリツ-baritsu-』で結果、ホームズの背後の崖っぷちからモリアーティ教授が転落、ライヘンバッハの滝壺へと姿を消していったのだ――。


 これらの描写から――”前方から突進してきたモリアーティ教授を、背後の崖下へ投げ飛ばした”――と解釈し、名探偵ホームズが使った技は『柔道の巴投げ』ではないか、と推理したものである。



「ですが、私は――”モリアーティ教授が転落する描写”――を調べてみて。

 名探偵ホームズが使った技は『柔道の巴投げ』ではない、と推理しました…っ!」


 ほうほう、それは面白そうだな。

 めぐみは、ふんすっと鼻息を荒がせると、手元の資料をぱらぱらと捲っていく。


「まずは『柔道の巴投げ』の概要です。

 『巴投げ』とは、後ろ回りする様に自身の体を後方へ投げ出し、相手の姿勢を前方に崩します。そして自身の足裏を相手の腹部などに当て、相手を頭越しに後方へ蹴り投げる技です。基本的に投げられた相手は、背中から地面に叩きつけられます。ところが、”モリアーティ教授が転落する描写”を見てみますと――」



   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇


 “彼-モリアーティ-”は武器を出さなかったが、“僕-ホームズ-”に体当たりをして長い腕を巻きつけた。

 <中略> 我々は滝の崖っぷちでよろめいた。しかし僕にはバリツという日本の格闘技の心得があった。これが役に立ったことはそれまでにも何度となくあった。


 “僕-ホームズ-”はしがみついてきた“彼-モリアーティ-”の手をすり抜けた。すると彼は恐ろしい悲鳴を上げ、数秒間狂ったように。しかしどれほど頑張っても


 <第三短編集『シャーロック・ホームズの帰還』収録~『空き家の冒険』より>


   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇



 めぐみの差し出した参考文献を読み終えると――

 あいり先輩と俺は「なるほど」と大きく頷きあった。


「たしかにおかしいわね。もしも崖っぷちを背にした状態で『巴投げ』を使ったのなら……投げられた相手は、そのまま空中に放り出されて、滝壺へ真っ逆さまに落ちるんじゃないかしら?」


「俺もそう思います。ところが本編のモリアーティ教授は、ホームズに『巴投げ』された直後にも関わらず……崖っぷちで“”。投げ飛ばされた直後の”姿勢”としては、たしかに不自然に思えますね」


 しかもこの後、モリアーティ教授は崖っぷちで何とかバランスを取ろうと両足両足を動かして足掻あがき、でも最後はバランスを崩して、滝壺へと転落している。

 これらの描写は『巴投げ』で投げ飛ばされたというより……崖っぷちに『突き飛ばされて』転落しない様にこらえている様子、と考えた方が近いような気がする。


 と、そんな俺たちの会話を聞きながら、めぐみが追加の資料を提示してくる。



「さらにこの説を補足すると、原文にも違和感があるんです」



   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇


 ――”I slipped through his grip, ”――

 ――”僕はしがみついてきた彼の手を”――


   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇



「もし本当にホームズが『柔道の巴投げ』を使っていたとして――”すり抜けた-slipped through-”――と表現するでしょうか?」


 俺は、なるほどなぁと感心する。

 たしかに『巴投げ』を表現するのであれば、『投げ飛ばした-threw up-』や『蹴り上げた-kicked up-』と表現する方が、意味は合っているような気がする。

 あいり先輩も同じ意見なのか、うんうんと頷き返している。


「それもそうね。今わたしも――”掴みかかってくる相手をすり抜けたslipped through”――と聞いて、”投げ技”よりも”いなし技”を想像したわね!」


 あいり先輩の相づちに、めぐみがパッと笑顔になる。

「あっ、そうですよね。私もその方向で一度調べたんですが……相手に掴まれた状態から脱出する”いなし技”として、合気道の『小手返し』などが有名です。ただ、こちらも最終的には”相手の姿勢を崩し、地面に倒れさせて制圧する”までが一連の動作になります。というより――」


 めぐみがピッと人差し指を立てる。

「そもそも、柔道や合気道は”相手の姿勢を崩す技術”です。なので『日本の柔術』という解釈から一度離れないと――”モリアーティ教授が転落する描写”――との整合は、ずっと取れないと思いますっ」


 これはまた大胆な仮説を出してきたなぁ……。

 一般的に『バリツ-baritsu-』は『日本の柔術』と関連づけて解釈するのが通説である。ところが、めぐみの仮説はそれを真っ向から否定するものだ。

 ほら見ろ、ずっと俺たちの議論を静かに聞いてた――ほむら先生もにっこり笑顔だ。



「ここで本題に戻ります。果たして、ホームズは”どんな技を使ったのか”――私が提唱する仮説は、これですっ」

 そこまで言うと、めぐみは自分のカバンに手を突っ込み――おもむろに一冊の”スポーツ雑誌”を取り出した。



「えっ、ひょっとして――”相撲すもう”――ッ!?」



 めぐみの取り出した雑誌の表紙写真を見て、あいり先輩が驚きの声を上げる。


 いや、これには俺もびっくりだ。

 まさかの『バリツ-baritsu-』相撲説か、これは興味深いな。



「はいっ。相撲は”神事”であると同時に、立派な『日本の格闘技 -Japanese system of wrestling- 』ですからね。ちゃんと条件に符合していますっ」


 めぐみが手に持っていた”スポーツ雑誌”を広げる。

 そこには――”相撲の決まり手”特集――が載っていた。


「これまで検証してきた”モリアーティ教授が転落する描写”を考えますと、ホームズが使った技は――相撲の『引っ掛け』に似た技――ではないかと、私は思いますっ」


 めぐみが身振り手振りを交えて、相撲の決まり手『引っ掛け』を説明し始める。


「相撲の『引っ掛け』とは、まずは相手の突き出してきた手を逆に掴み取ります。そしてその掴んだ相手の腕を土俵際へ引っ張り込みながら、自身は相手の背後に回り込むんです。あとは相手の背中を押すなどして、相手を土俵外へ押し飛ばせば――勝利ですっ」


「なるほどね。名探偵ホームズの使った技が『相撲の引っ掛け』と考えれば、掴みかかって来たモリアーティ教授を――”すり抜けた-slipped through-”――と表現された事にも納得できるわね!」


「その後のモリアーティ教授が崖っぷちでバランスを崩す様子も、土俵際で落ちないようにこらえる力士の姿と、状況が似ている気がしますね」


 あいり先輩と俺が絶賛するので、めぐみがデヘヘと照れ笑いする。

 その後、俺たちは他の相撲の”決まり手”もひと通り確認して、似た技の『送り出し』の可能性などを話し合ったりして――めぐみの発表は終了となった。

 いやいや、これは本当に面白い仮説だったな。

 ほむら先生の頬も緩みっ放しで、超ご機嫌である。

 いやぁ~この後に発表するのイヤだなぁ……まあ、俺なんだけどね。



   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇

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