あがす市のできごと

森宇 悠

椰子の実

1、浜辺の落語家

 夢とは、違うと思うのです。


 私はどこかの浜辺に着物姿で座布団を敷いて、高座の装い。


 かたわらでは大きなタコが砂のついた何本かの脚でぬめぬめとをあげ、また何本かの脚で出囃子でばやしをちんとんと奏でます。


 寄席めいてはいますが、当然お客はいません。浜辺です。


 はなしの内容は……私は詳しくありませんがめくりに書かれた『椰子の実』というそのタイトルは落語の演目の中には無さそうだとわかっています。


 ゆるゆると座布団に正座して、深々とお辞儀、噺の枕を語りながら羽織を脱いで……そしてふと、一息沈黙を放ってから、打ち寄せ返っていく波に向かって、私は噺ではなく遠い昔の童謡を謡うのです。



 名も知らぬ 遠き島より 流れよる椰子の実ひとつ



 空は薄曇り、海の果てには遠雷が見え、そしてさらにその向こう、浜辺の落語家が知る由もない異国の地アメリカのオレゴン州では、一人の男が運送屋としてトラックを走らせています。


 お互いに、おそらくは死ぬ時まで知り合うことのない二人です。


 だけど、


 もしかすると、


 落語家の歌は波に乗り、空気を揺らし、揺らし、その揺れの微弱な最後のひと吹きが運送屋の帽子のひさしを撫でるかもしれません。






 ――――この一連の情景は、珍奇な夢ではありません。






 私が時折見る幻覚。蜃気楼よりもっと儚い妄想の類。



 私の”前世”が見せる、絵空事です。



 さて生まれ変わって現代、落語家でもなければ小咄の一つもできない私が唯一話せる奇妙な話は、この“前世”から始まります。



 ……つまりはこれこそ、この話の枕の部分なのです。

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